口に出さずとも分かっていた、きっとかしも。エッチを全然しなくなったのが物語っているように、二人でいても必要最低限の会話しかなく、のっちは冷たくなったし、かしはよく泣くようになった。
付き合って二年、これといって大きな喧嘩もしてない。むしろ喧嘩は嫌いだから避けてきたに近い。毎日頑張って働く彼女に何かしてあげたいと思いつつも何もしない自分の行動力の衰えには、単純に愛情の変化が直結しているのだろうか。
かしは可愛い、きっとそこら辺の男子は放っておかないくらい可愛い。性格はたまにキツい所があるけど、それくらいの方が女らしいし人間臭くてのっちは好みだ。
「来週の連休、楽しみだね」
「何が?」
「江ノ島よ、江ノ島」
そう言う彼女は子供みたいに笑った。昔からの趣味で手に入れたカメラのレンズを磨きながら、鼻歌なんか歌ってる。彼女は小さい頃から良く行っていたという江ノ島が好きらしい。のっちと二度行った事がある。
あの頃ののっちは、風情のある温泉旅館で浴衣姿の恋人とヤる事くらいしか考えてなかったから、かしがいつも言う江ノ島の綺麗な空だとか海岸だとかをあまり覚えていない。
「前に泊まった旅館、予約しといたから」
もしかしたら、そーゆー所に行ったらやっぱり夜も盛り上がるのかもしれない。すっかりセックスレスというか枯れてるのっちだけど、ヤる気になんのかもしんないし。一時間半も車を運転すんのは若干面倒くさくもあるけど。
「のっち、行きたくないんなら、別に無理して行かなくて良いからね?」
「は?」
「なんか、全然楽しみな感じしないから」
そう言ってかしは、特になんともない風を装っていた。本当は傷付いてるくせに…てかのっちが傷付けたんだ。やっぱり顔に出てたのかな。
「…行きたいよ、江ノ島」
「やっぱり…ゆか達、倦怠期なんかな」
「………」
ずっと強く思ってた事を言われてしまった。口に出してはいけないと思ってた。だけど彼女は勇気を振り絞って言ったのかと思うと、やっぱりのっちより強い女なんだなと実感する。
「…そうかもね」
「…やっぱり」
それ以上特に何も言わず、のっち達は眠った。明日も朝から仕事がある彼女の寝顔を見つめながら、どうしてこんなにも倦怠期なのだろうと考えると、全ては自分のせいな気がして心底情けなくなった。
大学に行った後、一人でフラフラと街をうろついた。来月は彼女の誕生日だ。まだ早いけど、少しずつ考えといた方が良いと思って。
彼女がくれたのっちの誕生日プレゼントの総額は数万円。のっちにそんな金はない。だから気持ちの籠もった物、なんて言っても今ののっちの気持ちなんてたかが知れてるぞ。
「あ、」
前に彼女が欲しいと言ってた折り畳み自転車だ。タイヤが小さいから漕いでもなかなか進まないよ、って注意したけど「別に良いじゃん、可愛いもん」なんて言っていて、可愛い物が好きな彼女らしいと思ったっけ。
けどダメだ。あの頃と値段は変わらず四万もする。買える訳がないと店を後にした時、驚くべき事が起こった。こんな事ってあるんだね。
「…彩乃……?」
元カノだ。
もう二度と会う事はないと思っていた…と言うと嘘になるけど、こんな広い東京でまた巡り合うなんて。彼女は少し痩せていた。細くなった首は女らしさが増した気がした。
「彩乃、変わってないね」
「そう…?」
「けどなんか、落ち着いた気がする」
そう言って微笑まれた。なんか複雑な気分だ。かしと付き合う1ヶ月前くらいまで付き合ってた人が今目の前にいるなんて。二年ぶりの再会に、ちょっぴり感動している自分がいた。
とりあえず、のっちはこの子の胸の感触もお尻の穴も知ってるんだと思うと不思議な気分。物凄い勢いで今まで忘れていた彼女との思い出を思い出した。エロい事、たくさんした。
「美大…入れたの?」
「うん、今もう二年生」
「そっか、良かったね」
「うん…でも、なかなか良い絵が描けなくって」
当時、浪人生だった彼女とのっちは付き合っていた。彼女の一目惚れだったらしい。最初ずっと後ろをつけてくるからストーカーかと思っていたら「好きです付き合って下さい」とか言われて、可愛い子だったからのっちもOKしたっていう、今思えば結構劇的な始まりだった。
美大を目指して頑張ってた彼女も、今はもう立派な美大生か。彼女の家はアトリエみたいに描きかけの絵や作品がたくさんあって楽しくて、毎日の様に入り浸ってたっけ。
「今、恋人とかいるの…?」
「ううん」
「そっか、」
「学校の課題でそれ所じゃないかも…彩乃は?」
「……いないよ」
「そう、なんだ」
この後、久しぶりに彼女の家に行った。部屋はあの頃と何も変わっていなくて、壁一面に貼られた絵は全て彼女の作品なのかな。どれも独特なセンスで描かれていて好きだ。
床には青いビニールシートが敷いてあって、絵の具やらが飛び散ってて、その匂いとかもあの頃と変わらない。冬なんかはかなり寒そう。その上をペタペタとスリッパで歩いて、座れる場所は彼女が作業する時に腰をかける小さな丸椅子とベッドくらいだ。のっちはいつもベッドで横になって、作業する背中と少しずつ手を加えられて色付いていくキャンパスを眺めるのが好きだった。時間がゆっくり進むみたいで、幸せだった。
「変わってないね」
「うん、相変わらず汚い部屋でしょ」
「いや、良いと思う、味があるっていうか」
「あ、座って、紅茶淹れるから」
「あ、ありがと」
左手首の腕時計を見つめた。もう七時…かしがそろそろ帰ってくる時間だ。外はもう真っ暗だし。
「その腕時計、可愛い」
「あぁ…うん…」
「彩乃に似合ってる」
ダメだ、今はこの時計が重い。
この部屋にいる時は時間を忘れられたんだ。それなのに、今はこの進む秒針が痛くて重い。のっちは腕時計を外して、バックに押し込んだ。彼女はカップを差し出しながら首をかしげる。
「…どうかした?」
「ううん、別に」
「……、あのさ」
のっちは服を脱ぐ。
あの頃より大人びた彼女の目に今ののっちの裸はどう映ってんのかな。彼女が絵を描いてる時の目は何かに取り憑かれたみたいに冷たく鋭い。その目に見つめられるだけで、胸の奥が震えるのが分かった。この背徳感は何。
「…寒い…?」
「…大丈夫」
「……綺麗だよ」
木炭がガリガリと削れる音が響く。作業する彼女の姿は、魅力的だ。やっぱり首は細い。
壁に掛けられた時計はすでに九時を示してる。怒ってるかな、電話かかってきてるかも…マナーモードでバックに入れてるから分かんないけど。
「…時間、気になる…?」
「…いや」
彼女は立ち上がって、のっちに近づく。木炭で黒くなった指先でのっちの頬のラインをなぞって。彼女の渇いた唇が目に入った。かしのより薄くて、赤みのない唇。
「…彩乃……」
「……」
彼女は恐る恐るキスをした。のっちはそれを受け入れ、彼女の舌に自分のを絡めて、久々のかし以外の唾液に興奮している自分に気が付いた。
「…はぁ、はぁ」
「彩…乃…っ」
「服、脱がして良い…?」
「……好き」
「…脱がすよ」
「好き…彩乃が、」
恋人がいないだなんて嘘をついた自分を呪った。元カノとヨリを戻したいとか、別にそういうんじゃなくて。それでも今でもあの頃と同じ様に求めてくれる前の彼女を、めちゃくちゃ抱きたいと思ったのは事実。
だけど抱けなかった。湿ったそこに指で触れた瞬間、昨夜の恋人の悲しそうな顔が脳裏に浮かんで。自分は何も成長していない、この子と付き合ってた頃と同じでやっぱり自分勝手で情けない。
「…、ごめん」
「彩乃?」
「もう…好きじゃないから」
「……分かってるよ」
「今夜泊めてくれる…?」
「うん」
のっちはシャワーを借りて、そのままベッドに寝そべった。深夜まで作業を続ける音が心地良い。携帯を見ると、着信が五件もあった。『今夜は友達の家に泊まる』と一言だけのメールを送信すると、すぐに『分かったよ』ってキラキラな絵文字付きのメールがきた。
帰る時が怖いかも。怒ってるだろうな。原因は全部のっちなんだけど。
「恋人…いるんでしょ?」
「…うん」
「最低だね」
彼女は小さく笑った。のっちは死にたくなった。今の恋人は働いてて、ヒモなんだって言ったらもっと引くかな。この二年でたくさん増えた彼女の作品を眺めながら、明日かしになんて言おうか考えつつ眠りについた。
「…ただいま」
「……」
そういえば今日、土曜日だっけ。
テーブルの上にはビールの空き缶と少しだけ手を付けたコンビニ弁当が置いてあった。彼女は朝のワイドショーを眺めてる。返事はない。
「…友達って、誰?」
「……あ〜ちゃん」
「嘘つき」
振り返る彼女の目の下には痛々しい隈が出来ていた。赤くて潤んだ瞳に映る自分はウザイくらいにすまし顔だ。
「ごめん…元カノ」
「ヤったの?」
「ううん…キスだけ」
立ち上がった彼女は、泣きながらのっちの頬をぶった。「最低、死ね」って喚き散らしながら、部屋にあるのっちの漫画やら雑誌やらを投げつける。
そんな恋人をなだめるでも許しを請うでもなく、のっちは体にいくつもの傷痕を残していった。
◇04:終◇
最終更新:2009年09月03日 20:35