どこに仕舞おうか。それとも仕舞わない方がいいのか。
かれこれ3分ほど、私は砂時計を持ったまま寝室に突っ立っている。突っ立って、砂時計のやり場に悩んでいる。
あと1時間もすれば、かしゆかが家に来る予定だ。昨日の夜、空いた仕事のスケジュールを埋めるかのように都合良く、かしゆかから電話が来た。
『のっち。明日、空いてる?』
そう聞く声があまりにも普通で、思わず少し吹き出してしまった。マネージャーからの仕事キャンセルの連絡からまだ20分も経っていなくて、私の予定なんて知っているはずなのに普通に聞くから。
対して今の私には、笑う余裕はない。余裕がなくて落ち着かない。
つい最近まで私を避けていたかしゆかが、家に来る。全く、何を考えているのかわからない。
…でもそれは今に始まったことではない。もっとわからないのは、自分が何を考えているのか。
私の手の中でも、斜めに傾けられたガラスの中でも、時計は変わらずに10分間を刻んでいる。
たった今この瞬間だって、自分がわからない。どうして砂時計を移動させようとしているのか、わからない。
わかるのは、昨夜から黒い砂が怖くなったこと。
小さな孔からこぼれ落ちる砂を見ていると、すごく落ち着くのと同時に、流れが終わると砂が暴れだすのではないかと怖くなった。
静かに底に溜まる黒い砂が、このまま閉じ込められるなんてうんざり、と暴動を起こすのではないかと。
黒は変化の結果で、もう変わることはないはずなのに。
私たち自身はそれぞれ変わっても、私たちの関係は、3人のバランスは、変わらないはずなのに。
怖い。砂と、かしゆかが。いや、自分が怖いのかもしれない。自分がわからなくて。
あの本をかしゆかに貸したのは、どうして?
わざわざ車を降りてまで、貸したのは?
あのライブの日と同じ。かしゆかが何を考えるのか、どんな顔をするのか、知りたいから?
あの夕食の日と同じ。かしゆかの瞳の揺れと、子供と大人が入り混じった綺麗な顔を、見たいから?
…考えすぎ。考えすぎる私は、らしくないんだって。
私は砂時計を元の位置へ、ベッドのヘッドボートの上へ静かに戻した。
私みたいな頭が悪い人は、普段扱い慣れていない理性よりも、長年親しんだ感情や感覚を優先させた方がいいに決まっている。
何も考えないで、会えばいいんだ。話せばいいんだ。
思うままに、自由に。
感じるままに、自由に。
この黒い砂だって、いつかガラスを割って自由に、外に飛び出してしまいそうだったら。
だったら、
いっそのこと私が今、割ってしまおうか?
マンションのエレベーターに乗り6階のボタンを押した時点で、すでに私は外の天気すら思い出せなくなっていた。
とりあえず蒸し暑いことは確か。上昇する無機質な箱の中が蒸し暑いから、間違いない。
でものっちのことだから、部屋の中はクーラーが効いて涼しいはず。
涼しければ、私は冷静になれるはず。
右のこめかみから、うっすら滲んでいただけの汗が集まって塊になり、一粒流れ落ちた。
昨日の夜、というよりもう日付が変わった頃に、私はのっちに電話をして今日家に行く約束をした。
目的は、借りた本を返すこと。
ただ返すだけなら明日の仕事で会った時でいいけれど、それでは何か、見逃してしまいそうだから。何も、決着がつきそうにないから。
だから2人きりで会って、のっちとごく普通に話をして、自分の核心を心の奥底に沈めて、決着をつける。つけることが、真の目的。
私は器用だから。変な雰囲気にせずに、のっちに悟られずに、できるはず。
私は灰色だから。周りの空気を感じ取って、うまく色を変えて、できるはず。
できれば全て、元通り。
でも、どこまで戻ればいいの?
…私が自分の核心から目を逸らせていた時点まで、戻ればいい。
何事もなく安心しきって、たまらなく幸せな気持ちで3人でじゃれあっていた時点まで。
お揃いの砂時計を買った、あの日まで。
流れ落ちた汗を拭う前に、エレベーターのドアが開いた。ほんの一瞬私の両脇を温い風が通り抜けたが、快いとは正反対の気分になった。
耳元で脈打つ拍動を掻き消すように、ヒールの音を大袈裟に鳴らしてマンションの廊下を歩く。約1週間ぶりに見る扉を前にして立ち、チャイムを1回。
1週間前とは違い、今の私の手には、スーパーのビニール袋はない。
隣には、あ〜ちゃんがいない。廊下には、3人の笑い声も響いていない。
自分がひどく無防備に感じて、思い切り走って逃げ出したくなった私を阻むように、目の前の黒い扉が前触れなく開いた。
「いらっしゃい。暑かったでしょ? 中は涼しいよー」
真っ白いTシャツにデニムのショートパンツ姿ののっちが、いつもの笑顔で私を迎えた。
笑顔に油断していたら大きく迫る瞳にまともに顔を覗き込まれ、私は咄嗟に焦点をのっちの背後にずらした。
背後には、玄関から短い廊下を経て、すぐにリビングが見える。
「お邪魔しま〜す……うわ、なんか部屋片付いてない?」「うわってなんだよぉ、うわって。この前来たばっかじゃん」
「だって1週間あれば十分汚くできるし、のっちなら」「ふ〜ん。そういう可愛くないこと言う人には、アイスあーげない」
「アイス!? 食べる食べる!ありがとうっ!」「可愛くないこと言ったからダメー」
「誰だれ? そんなこと言った人いるっけ?」「もう、人の話聞く気ないし。今出すから適当に座ってて」
私は軽口を叩きながらミュールを脱いでリビングに入り、言われた通りソファーに座った。
部屋の中は期待を裏切らず、ひんやりとした空気が漂っている。不快な汗を始めとした色々なものがすっかり乾いて、跡を残さず消えていく。
ほら。あ〜ちゃんがいなくても2人で話せるし、笑えるし、大丈夫。
逃げなくてよかった。今日で全部、元通り。
私は器用な灰色だから、できるはず。
呼吸のリズムを回復させ、座っているソファーから、キッチンに立って冷凍庫をガサゴソしているのっちを眺める。
ショートパンツから伸びる引き締まった長い素足が、初めて見たもののように思えたので瞼を閉じた。
わざと、ゆっくり閉じた。
のっちが用意してくれたアイスは食べたことがない新製品で、しかも美味しかった。
けれどアイスを包んでいたチョコレートがやけに甘ったるくて、私は氷と麦茶が入ったグラスを一気に空にする。
空のグラスをテーブルに戻したら、急に部屋に漂っているはずの様々な音がどこかへ吸い取られていった気がした。
目の前のテレビが、ついていないから。
私たちはソファーに並んで、座っている。
隣で、のっちはまだ空になっていないグラスを両手で持ち、麦茶がこぼれないギリギリの範囲でグラスを弄んでいる。
そのグラスの氷が、音を立てないから。
私たちはソファーに並んで、何も言わずに座っている。
さっきから肩が揺れてしまっているかと思う程、心臓が好き勝手に暴れていて腹が立ってきた。この体の主人は私なのに。
ちょうど半人分スペースを空けて私の右隣に座るのっちが、曲げていた両脚を床へ真っ直ぐに伸ばした。
私は頭を動かさずに目だけでそれを見る。記憶にないくらい綺麗な、脚。
「今日は、どしたの? せっかくの休みなのに」
…始まった。
1ヶ月の間見失っていた、私とのっちのバランスを取り戻す過程が。バランスを取り戻す会話が、のっちから。
「あれ。もしかして何か予定あった? あったんなら電話で言ってくれればよかったのに」「別に、なんもないけど」
「なら、別にいいじゃん。ま〜毎日毎日仕事で会っとるけど、休みの日にあえて会うのもたまにはよくない?」「あえて、って」
ふっ、とのっちが苦笑混じりに微笑んだ。
私は顔を45度のっち方向へ回転させて、視界の端にそれを捉えた。いつから、こんな笑い方を覚えたのだろうか。
笑みが消えるところまで見届けようとしたら、のっちは少しそれを残したままで顔を私に向け、目を合わせてきた。
「そういえば。昨日貸した漫画、読んだ?」
「…っ」
のっちの透き通って無垢な瞳と質問の内容が両方同時に迫ってきて、私は思わず息を飲む。
飲んだけれど、目は逸らさない。体中の皮膚の磁力はフル稼働しているけれど、目は逸らさない。
何故なら。のっちの瞳が私の中に入ってこようとしても、しなくても、私が隠していた核心はわかってしまったから。昨日気づかされたから。
以前みたいにのっちの瞳を恐れる必要は、もうない。
「うん、昨日帰ってから読んじゃった」「そっか。どうだった?」
「結構面白かったよ〜。貸してくれてありがと」
それに変な雰囲気にして、私の核心を、衝動を、のっちに悟られてはいけない。
それらは今日、ここで、心の奥底に沈めなおす。
のっちと2人きりで話して、やっぱり私たちの関係は変わらないと、変わらないままがいいと、認識しなおす。
「…ほんとに面白かったの?」
不意に、のっちの声色が変わった。
聞いたことがある、声色。いつもののっちが裏返って現れる、真剣な表情と声色。
制御不能の心臓が、私の喉元をひと突きした。
私は心臓を飲み込んで、リズム悪く言葉を繋ぎ始める。
「まぁ……正直ちょっとよく、わかんなかったけどさ」
たった数瞬で、バランスを取り戻すはずの会話の雲行きが怪しくなっているように感じるのは、気のせいだ。
「だって女の人同士だし?」
私の声以外一切音が存在しないリビングが、自分を中心に縮み始めているように感じるのも、気のせい。
「そういう人たちもいるとは思うけど、」
私と目が合ったままで久しぶりにのっちが瞬きをしたから、整った瞳だと改めて思わされる。
「あり得なくない?」
のっちが、返事をしてくれない。
「だって例えば、」
私は、誰に向かって話しているのだろう。
「うちらがああなるとは考えられないし」
これはすでに、独り言。
しかも、虚しい。
「…想像できないよ」
途切れずに言葉を繋ぐ程、本心が沈むどころかはっきりと形作られてくる。主張してくる。
…焦る。
焦るな。
こういう時は、上手く笑って。笑えば、大丈夫。
のっちは深く考えないから。
「そうかな」
反してのっちは、笑い返してくれなかった。
「私は…」
そう呟いたのっちは私から目を離して、私の背後に焦点を合わせたように見えた。背後の壁か、空間に。
その隙に私は俯いて、最近お気に入りのスカートを見つめた。何故、今日これを着てきたのだろうか。
部屋の空気と同じくらい、のっちが何を考えているのか何も考えていないのか、全く読めない1分の間に。
私の核心からは、一欠片の期待が浮き上がってきた。
…駄目。
沈め。
沈めないと。
馬鹿みたい。そんなこと、あるはずがないんだって。
だからさっきのは、虚しい独り言だって。変な意味や期待を滲ませたわけじゃ、決してない。
……本当に?
そう思った時は、遅かった。
だってのっちの言葉で、すぐに覆されたから。
「別に、あってもいいと思う」
「!」
のっち?
嘘。
何が?
嘘。
何が、あってもいいの?
嘘だ。
『女の人同士の関係』、が?
嘘だって。
『うちらがああなる』、ことが?
嘘。
のっちは、嘘をついている。
そして私は、
私は?
のっちがグラスをテーブルに置いたから、その音で私は忘れていた瞬きを繰り返した。
暑い。部屋が暑くて、気に入って買ったはずのスカートが暑くて、すごく気持ちが悪い。
気持ち悪さで、私は現実を取り戻したつもりになった。
だって本当に、馬鹿みたいだ。こんなに意識しているのが自分だけだなんて。
そうでしょう、のっち。のっちの嘘に心が跳ねた私だけが、1人で動揺しているんでしょう。
私は知らず知らずの内に潜めていた息を思い切り吐き出し、ショートパンツの上に行儀よく置かれた両手を見つめているのっちの横顔を捉えた。
上手く笑えば、大丈夫。
「のっち、どしたん? そんな顔して変なこと言って。休みボケ?」「かしゆかこそ」
自然と不自然の境界を危なっかしく歩いた私の問いは、深い瞳を微動だにさせないのっちによって間髪入れずに返された。
「…ゆかが? 別に、普通じゃん」
「普通じゃないよ。なんで最近、私のこと避けてるの? なのになんで今日、わざわざ家に来たりしたの?」
「え…」
咄嗟に話題が変わって、しかも部屋が暑くて静かすぎて、私の無防備な耳はのっちの声に殴りつけられた。
殴った本人は自分の発言の威力を推し量るように、動かない。
いや、動いていた。両手がいつの間にかデニム生地を握りしめている。
私はただただ隣で、つい3分前に始まったこの会話が何事もなく終わることを祈る。
本当は目を固く閉じて祈りたかったが、いつになく端正な横顔から目を離せない。悔しいくらい、綺麗で大好きな、顔。
「もう、いきなり何、言ってんの。ゆかじゃなくて、のっちが変でしょ」「うん、変だよ」
「うん、って…」
会話の雲行きの変化が、予想より速すぎてついて行けない。予想を超えた速度で、方向で、展開している。
それは握る拳が白っぽくなっているのっちと、上手に息継ぎができなくて妙なことになっている私、どちらが悪いのだろうか。
悪いのはのっちに決まっている。きっかけは全て、のっちからの攻撃。
だからやめてよ、のっち。意識なんてしないで。
今まで通り、深く考えないのっちでいてよ。
10分経ったら何考えてたか忘れてしまう、のっちでいてよ。
今日は普通に2人で楽しくおしゃべりして、元通りのバランスを取り戻しに来ただけだったのに。
「変だよ、すごく。…ね、なんであり得ないの? かしゆかはほんとに想像できない?」
おしゃべりの主導権はのっちに奪われ、私の願いはことごとく打ち砕かれていく。
しかものっちの話題が2つに跨がっていて、わけがわからない。次の攻撃がどこからどう来るのかわからない。
わからないのに、私の核心が、本心が、蠢きだしている。
……駄目。
そう思った時は、遅かった。
だってのっちの言葉で、すぐに覆されたから。
「私ね、よくわかんないんだけど、最近かしゆかに近づきたくて、触れたくて掴みたくて、どうしようもない」
「!!や、 な、なに言い出すん!? 」
私は笑って誤摩化そうとして、思い切り失敗した。
冷たい汗が、腋を伝う。
嘘よ。
あれは嘘。
嘘。
嘘だって。
そんなはずない。
あれは、本の中の物語。
だから私の心、跳ねるな。
期待するな。
沈め。
大人しく、沈んでよ。
————to be continued————
最終更新:2009年10月22日 17:49