「お、お腹苦ぢい」
「だから頼みすぎだって言ったのにー」
私が繋いでいない方の手でお腹をさすりながらそう言ったら、ゆかちゃんから予想と一語一句同じ言葉が返ってきた。
今日は珍しく丸一日大学の日だったので、夜2人で待ち合わせをして一緒に夕食をとった。お互いゼミが長引いて、食事をしただけなのにすっかり遅い時間になってしまった。
今はその帰り。帰りというか、当然のように私のマンションへ向かっている。
周囲の気温は25℃くらい。湿度は30%くらい。心地よい、空気の具合。
そんな空気の中を2人でわざとらしくのろのろと歩いているのは、2人ともお腹がいっぱいなのと、帰り道が食後の散歩にちょうど良いのと、
2人ともなんとなく、今この時間をじっくり噛み締めたいから、だと私は思っている。
何故なら。ゆかちゃんの肩に下げられたバッグの中ではさっきから携帯のバイブが鳴っているのに、取り出そうとする様子が全くないから。
それがすごく嬉しくて変に寛容になった私は、むしろこのまま携帯が鳴り続ければいいのに、とさえ思っていたら鳴り止んでしまった。
「大体さぁ、女の子がラーメンと餃子どっちも食べるなんてあり得んよ」
見上げた空には目を凝らしても雲が見当たらないのに、星も見えない。晴れているのか曇っているのか、わからない。
一応、頭を一回転させて月を探してみたが、それらしきものも見つからない。
今日は新月なのだろうか。それとも周りのマンションで隠されているのだろうか。あるいは、実はいるかもしれない雲が隠しているのか。
というわけで、今夜の空に関しては何もわからないが、今の私は気にしない。
だって、最高の気分だから。
「ていうか、なんで女の子2人でラーメンなんか食べに行ったんだっけ?」
私のマンションの周りはこの時間になると、人も車も滅多に通らなくて、なのに街灯が多いから妙に明るくて、最高。
そして2人の足音と、ゆかちゃんの声以外の音がないから、また鳴り始めたゆかちゃんの携帯のバイブが聞こえるくらい静かで、最高。
ずっとこの気分が、音が、声が、続けばいいのに。
「ちょっと、ゆかの話聞いてる?」
「ん、聞いてるよ」
少しだけ拗ねた声を出したゆかちゃんにちゃんと色々聞いていたことを示すため、私は繋いでいる左手を軽く振り、指を絡ませた。
いつもはひんやり冷たいゆかちゃんの指は、すでに私と同じ温度になっている。
もっと温度を感じたくて伝えたくて、私は指を引き寄せて服から出ている互いの腕を密着させた。
「…嘘つきのっち」
そうしたら、返ってきた言葉とは裏腹に、ゆかちゃんの声がゆるゆるに緩んでいる気がした。
それを確かめるために隣を向くと、自分の足の運びを見つめているゆかちゃんの横顔が、ほんのり綻んでいる。
やっぱり。声の緩みは気のせいではなかった。
最高の気分は、ゆかちゃんに対するセンサーも最高感度にしてしまうみたい。
ゆかちゃんは半瞬だけ私と視線を絡ませて、絡む指に力を入れた。
私たちは色々繋がったままマンションへ到着し、エレベーターに乗り込んだ。ゆかちゃんが私の部屋がある6階のボタンを、空いている方の指で押す。
何度も見ているはずのその動作がごく自然なことに、私は改めて気がついた。
エレベーターの扉が、ゆっくり閉じていく。
ゆっくり、ゆっくり。私の頭の中も、ゆっくりになる。
今日は朝から大学へ行き、勉強して、友達とおしゃべりして、夜は恋人と会って、ご飯食べて、同じ家に帰って。
なんて、普通。
「そういえば、お店出る時にアメもらったの忘れてた」
ゆかちゃんの右手が私から離れて、バッグの中に吸い込まれていった。
私は隣で揺れているストライプ柄のワンピースを見ながら、取り残された左手を開いたり閉じたり。
こんな瞬間が、ほんの僅かだけれど寂しいと思ってしまったりして。
なんて、普通。
「んー……あれ、どこにいっちゃったのかな」
俯いてバッグを覗いているゆかちゃんの肩から、長い黒髪がさらさら流れ落ちていく。
しかし流れた髪たちはすぐに掬い上げられて、行儀よく耳にかけられた。
おかげで露になった愛らしい右耳に、早くもこれから過ごす時間を期待してしまったりして。
なんて、普通。
「あった! はい、のっちの分」
チョコレート色のアメが開いていた私の左手に載せられた。よくあるお口直し用の、普通のアメに見える。
エレベーターの扉が、ゆっくり開いた。
部屋はすぐそこなのに、相変わらず私たちはのろのろと廊下を歩く。歩きながら、2人ともアメの包みを開ける。
なんて普通の、生活。そして最高の、気分。
でも、私とゆかちゃんの関係は普通ではない。そんなことはわかりきっているし、今の私は気にしない。
バッグから部屋の鍵を出す前に、口の中にアメを放り込んだ。
「!! にがっ!」
「え? 苦いん?」
あまりの不意打ちに私は顔を思い切りしかめ、おまけに小刻みに足踏みまでしてしまった。
もう、せっかくいい気分だったのに。人生そうはうまくは進まないらしい。
私の様子をゆかちゃんは素直に笑って、躊躇いなく自分のバッグから合鍵を取り出して私の部屋のドアを開けた。
2人で中に入り、しっかり戸締まり。その間も苦しんでいる私を見て、ゆかちゃんはころころ笑っている。
「のっちのアメ、ビター味ってこと?」
「違う違う、チョコじゃなくてコーヒー味なの。しかもブラック」
「え〜、珍しくない?」
2人で寝室に直行して、いつもの場所にバッグを置いた。ゆかちゃんは鏡台の前に、私はベッドの上に。
ゆかちゃんが置いたと同時に、再び携帯のバイブが鳴り始めた。
その音を背中で聞きながら私は一足先にリビングへ行き、いつもの場所であるソファーに深く座った。
お気に入りのクッションを腰と背もたれの間に挟めて、背を反らせて大きく伸びを一つ。家に帰った後の私の日課。
日課の伸びが終わらないうちに、ゆかちゃんが携帯だけ手にしてソファーに座った。
隣同士の私たちの距離は、ワンピースとデニムのホットパンツから伸びる互いの腿が密着しているくらい。いわゆる、ゼロ距離。
なんて、言わないか。
ゆかちゃんの右手の中にある携帯は、まだ鳴り止んでいない。
携帯を開く無機質な音が聞こえたので、とうとう出ちゃうんだ、と思ったら、
「のっち」
ゆかちゃんは日課を終えて普通に座っている私に顔を近づけながら、携帯の電源を切った。ディスプレイはおろか、手元も見ずに。
代わりに見ていたのは、私の唇。
ゆかちゃんの左手の人差し指が私の下唇に触れてきて、少し下に押したので、されるがままに薄く口を開いて受け入れる。
まだ浅いキスを繰り返しつつ、私はただの金属の板になった携帯をゆかちゃんから奪って、そこら辺の床に落とした。
うん。やっぱりあの音は聞こえない方が、ずっといい。
清々しくて最高の気分で、大好きな行為に集中する。が、一足遅れてしまい、ゆかちゃんから先に私の中に入ってきた。
私は邪魔者でしかないアメを奥歯のそばに追いやり、さっきまでとは一転して存分に深く、自由になった舌を絡ませる。
「ん…?」
敏感な舌から伝わるあの表現し難い、強いて言うなら頭の芯が疼くような感触の他に、別の感覚が。
舌が、甘い。
…別に、漫画に出てくる夢見がちな女の子がよく言う『甘いキス』という意味ではない。そういう段階を私たちは数ヶ月前にとっくに飛び越えた。
舌が普通に、甘い。
甘いし、
「は、ぁ……なんか、コーヒー牛乳の味がする」
どうしても感想を言いたくなって、私は5秒間迷った挙げ句に愛しい舌を放してしまった。
自分の感想が正しいか確かめるため、苦いアメはそのままの位置に固定し、ゆかちゃんと交換した甘い唾液を味わう。
やっぱり。コーヒー牛乳だ。
「うん、想像通りの味!」
私からゼロ距離のままゆかちゃんは無邪気に目を笑わせ、濡れて煽情的な口元を綻ばせた。
「あんね、ゆかのアメ、ミルク味なの」
眼前に晒されている目と口元のギャップと、明らかになった可愛い小悪魔の企みが、私の体を隅々まで切り替えていく。
私の返答を待って小悪魔が油断している隙に、私は首と腰に手を回して細い体を捉えた。
なんだか、期待通りの展開。人生は結構うまく進むのかも。
「の、…ん」
今度は最初から、深く奥まで舌を差し込んで吸い上げる。舌も、声も、息までも。
ゆかちゃんの中で舌に合わせて転がるミルク味のアメには、構わない。だって、ゆかちゃんじゃないから。
2人とも角度を変えて、舌を伸ばして、唾液を混ぜて、分け合い飲み下す。
2人とも甘くて、美味しくて、いやらしくて、不思議なくらいとめどなく水が溢れてきた。
大好きな行為に初めての行為が加わって、私たちはどうしようもなく興奮している。私も、ゆかちゃんも。
だって、回して回されている手に力が入っているし、直に触れている部分が湿り気を帯びているし、くぐもって聞こえる声が溶けてどちらのものかわからないから。
こういうのは、普通? 異常?
どちらでもいい。今の私に、私たちに、気にしている余裕は全くない。
「…もっと」
私は一旦飲むのを止めてワンピースの下に手を滑らせ、すっかり瞳が潤んだゆかちゃんをソファーに優しく押し倒した。
僅かに離れた2つの唇を、透明な甘い糸が繋ぐ。その下にあるゆかちゃんの白い顎にも甘い水が垂れていたので、もったいなくて綺麗に舐めとってあげた。ら、
「シャワー入ってから、にしよ?」
「?」
私を切り替えたはずのゆかちゃんが何故か恥ずかしそうにそう言って、首を伸ばして私の額にキスをした。
冗談でしょ?、とちょっと困った表情をするも、「ね?」と追い討ちまでかけられる。
これは一体、どういう展開だろうか。先へ進むことができる正解の一言があるのだろうか。
頭は忙しく考えるが、体が戸惑い始めている。細胞の一つ一つががっかりして固まってしまって、思うように動かない。
「いいよ、このままで」
私は体を隅々まで励ましてなんとか立ち直り、正解かもしれない続きを促す一言を放った。ら、
「やーだ。…ほら、コーヒー牛乳はお風呂上がりに飲むもんじゃん?」
なんて、言うから。
「シャワーの後だったらアメなくなっちゃうよ」
うまいこと言ったでしょ、とちょっと得意気なゆかちゃんの表情を、私は華麗に無視してそう即答した。ら、
あ。私の真下で桜色の唇が尖った。
「………のっちはアメなくなったら、したくなくなるの?」
「……」
色々と見事に打ち抜かれた私は聞き分けよく立ち上がり、嫌がるゆかちゃんの手を無理矢理引っ張って2人で浴室へと向かった。無言で。
可愛い小悪魔のほぼ狙った通りに、こうして私たちの普通で異常な生活は過ぎていく。
————end————
最終更新:2009年10月22日 20:09