「は?今なんて?」
『だから、さっき東京着いたんだってば』
昼過ぎに掛かってきた電話からは聞き慣れたあの声。昨夜まで落ち込んでいたのっちも今は元気にゲームをしている。その後ろ姿を横目で見ながら、ゆかの手のひらには汗が滲んだ。
『今タクシーでそっち向かってる、疲れたから一休みさせて』
「てか、なんで急に」
『知り合いの結婚式があるの』
「一人?」
『うん』
「そう、」
『じゃあ、あと10分くらいで着くと思うわ』
プツッと通話が終わる。
ゆかはもちろん焦っていた。
「のっち!」
「うおっ!なんしよん!」
ゆかはのっちのゲームを強制終了させた。もちろんのっちはそんなゆかの行動にワーワーと喚くけど、そんなんどうだって良くて。
「お小遣いあげるけぇ漫喫でも行って」
「なんなん急に…てかかし!酷すぎるぞ、あと少しでボス倒せそうだったのに!」
「そんなん知らん、良いから早く」
ゆかは財布から適当に数枚のお札を取り出してのっちに投げつけた。のっちはぐちぐち文句を言いながらもそれを拾い集めてジャケットを羽織る。
「ゆかが連絡するまで帰って来ないでね」
「男何人も呼んで複数プレイとかする気ならブッ飛ばすよ」
「そんなんじゃないって」
「どうだかねー」
のっちはゆかを睨んで、出て行った。乱暴に閉められたドアの音に驚いてる場合じゃない。ゆかの頭は完全にパニック状態。
どうしよう、どうしよう。実は何も打ち明けてない。同棲してるって事も、もちろん相手が女だって事も。
とりあえずのっちの脱ぎ散らかした服やら下着はクローゼットに押し込んだ。テーブルに広げたのっちの学校の課題も、ファイルに入れてベッドの下に。洗濯物、音楽機材、靴、ゲーム、漫画、ベッドに並んだ二つの枕……全てが全て、ゆかの一人暮らしの部屋には不自然過ぎる。
どうしよう、来ちゃうよ。
時計を見る。そうこうしてたら10分なんてすぐ経過。
ピンポーン
来た。
ゆかは大きく深呼吸をする。汗ばんだ額を手の甲で拭った。
「はーい」
なるだけ明るい声で扉を開ける。そこには見慣れない派手な服と化粧を装備した、お母さんの姿が。ゆかの心臓がサンバを踊ってるよ。
「あー東京駅、凄い人の数だったぁ」
「お疲れさま、随分急だからびっくりしちゃった」
「東京に来たんだからゆかに会いに行かなくちゃと思ってね、びっくりさせようかなって」
「超びっくりしたよ」
「ちゃんとご飯食べてる?仕事頑張ってる?寂しくない?」
「お母さん心配し過ぎだよ、ゆかもう21よ?立派な大人だよ」
ゆかが笑顔でそう言うと、お母さんは小さく笑った。お正月に帰った時には気が付かなかったけど、皺が少し目立つようになった。
なぜか最近ふとした瞬間に思い出すのは、小学生の時に通ってたスイミングスクールの記録会で自己ベストを更新した時に、家に帰ってから乾いていないゆかの髪をドライヤーで乾かしてくれて鏡越しに「また速くなったね」って言って微笑んだあの日のお母さん。
優しくて温かかった。その日はご褒美としてゆかの大好きなアイスを二個食べる事を許してくれたっけ。
あの時のお母さんは、確か33歳だったから……今のお母さんは、いくつになったんだっけ。
「そっかー、ゆかももう21歳かぁ」
お母さんの横顔が、切なく見えた。
ゆかは今更気付いたそんな変化に動揺しながらも、何事もなかったかの様に慎重にマグカップを選んだ。食器棚にはいつものゆかのとのっちのが色違いで並んでる。
同棲を始めてすぐに、のっちと二人でインテリアショップで選んで買ったんだ。食器は全てそのブランドで統一しようって事は、のっちは付き合う前から妄想してたんだとかで。
百均で買った新品のカップが確かあったはずだ。ゆかがそれを探してる間にコーヒーは沸いた。
「お母さんって、砂糖入れる派だっけ?」
「入れない派、だけどミルク多めね」
「はーい」
カップに注ぐと、香りがすぐに広がる。のっちのマグカップを棚の奥に押し込んで、ゆかはソファーに座ってくつろぐお母さんにカップを差し出した。
お母さんは勘は鋭い方だから、きっと気付いてる。てか気付かない方がおかしい、明らかにゲームもギターもゆかの私物ではないし。だけどお母さんは何も言わない。それが不安、緊張となってゆかを押し潰そうとする。
「ゆか、実はね、今日はゆかに報告があります」
「報告?」
「そこに座りなさい」
「なんなん改まって」
ゆかは笑いながら、言われた通り正面に座る。冷静になんてなれる訳がない。ゆかの心臓はもはやサンバどころの騒ぎじゃない。
首をひねりあげられたみたいに急に息苦しくなって、ゆかの喉はカラカラになった。
「お兄ちゃんね、もうすぐパパになるの」
「え、」
「予定だと春頃だって」
「うっそ、なんでもっと早く言ってくれんかったんよっ、凄いじゃん!」
「びっくりさせようと思ったの」
「もーなんなん、ゆか今日だけでどんだけびっくりさせられるんよぉ」
「お母さんももうおばあちゃんになるんよ」
そう言って嬉しそうに笑うお母さんの目尻には、やっぱり皺が目立った。
昔からお兄ちゃんとはあまり仲良くなかったけど、それでも一応家族だから嬉しく思う。お兄ちゃんのお嫁さんとは一度しか会った事がないけど、優しくて女らしい人だった。あぁ、この人だったら良い母親になるんだろうな、なんて第一印象で勝手に決め付けた記憶がある。
お兄ちゃんが、お父さんか。なんだか不思議。どんな心境なんだろ。
「こんなに早く孫の顔を見る事になるなんてねぇ……人生って意外とあっという間よ、ついこの前、お兄ちゃんを産んだ気がしてたのに」
「そっか」
「今でもはっきり覚えてるもの、お兄ちゃんが赤ちゃんだった頃も、ゆかが赤ちゃんだった頃も、ちゃーんと覚えてる」
お母さんはミルクをたっぷり入れたコーヒーを一口飲んで、また小さく笑った。
お母さんを近くの駅まで見送った。駅まで歩いて向かう途中に「で、ゆかは今恋人と暮らしてるんだ」って少女みたいな顔をして言うもんだから、ゆかは素直に「うん」と頷いた。死ぬほど緊張して、死ぬほど恥ずかしかった。
「いつから一緒に暮らしてるの?」
「二年前…くらいかな」
「まだ学校通ってる時じゃない!もーずっと黙ってたなんて酷いわぁ」
「だって、言ったら怒られるかなーなんて」
「当時は怒ったかもね、でも今は、ゆかもちゃんと働いてる訳だし、しっかりしてるから怒ったりなんかしないよ」
「黙っててごめんなさい」
「んーん、でもパパに言うとショック受けちゃうだろうからパパには内緒にしとくね」
「うん」
見送ったお母さんの後ろ姿。
お母さんの背中って、あんなに頼りなかったっけ。あんなに弱そうだったっけ。
ねぇお母さん、ゆかが今付き合ってるの、女の子なんだよ。もう大人だからなんて強がってみたって、ゆかはまだまだ子供で、彼女も子供なんだよ。それでもあっという間に時は過ぎてしまうのなら、今のゆか達は何をすれば良いの。
お母さんは、その人生で幸せなの?
『…、はい』
「ごめんね、今どこ?」
『漫喫』
「帰って来て良いよ」
『お母さん、なんか言ってた?』
「今度紹介して、だってさ」
『そっか、のっち男装しようか』
「………そうだね」
もうなんだって良いから、早くのっちに会いたいよ。
逃げてばかりじゃダメなんだ。時代は流れてくんだから。お母さんの皺は増えて、そのうち白髪も増えて、ゆかも年を取って皺が増えて白髪が増えて…。
お母さんにあんなこと言われたら、ゆかには耐えらんないよ。お兄ちゃんに子供が産まれるだなんて、そんな現実、どうにかして消してしまいたいのに。
お母さんも大好き、お父さんも大好き、だけどゆかにはのっちが必要なんだよ。
家に帰って、マグカップやらを片付ける。誰がどう見たって同棲してるって分かるよなぁ、この部屋は。直前まで隠し通そうとしていた自分の間抜けな行動がおかしくて笑ってしまった。
ちょうどその時に帰ってきたのっちはそんなゆかを見て眉毛をハの字にして幽霊かなんかを見たみたいな顔をした。
「のっちー」
「複数プレイはどうでしたか」
「なんでそんな意地悪言うんよ」
「冗談だよ、でも一人で笑ってる不気味なゆかちゃんはさすがののっちも抱けないわ」
「いじわりゅ」
「わ、今の超かわいい」
空気を読んでくれたのかな、のっちなりに。その日はずっとくっついて離れなかった。
やっぱり子供だ。
どう足掻いたって、ゆかは大人になれそうにない。
のっちを手放さなくちゃ大人になれないのなら、いっそ大人になんかなりたくない。
違う、そうじゃない、お母さんはそれを言いたかったんじゃない。
ゆかの幸せを掴まなきゃ、そうしていつか「人生ってあっという間だね」って笑って言える様に。
ゆかの幸せは、家族の幸せじゃない、それでも家族に認めて貰えるくらい、今はしっかりしなきゃいけないんだ。
大人になるって、そういう事なのかも。
その為の力を今は身に付けるしかないんだね。この世界には他人しかいないし、一つになんてなれないんだから。
「あんまり一人で抱え込まないでね」
「何そのベッタベタなセリフ」
「いや、なんかさ、これから先ゆかちゃん以上に認め合える存在なんて現れないだろうから」
「どーゆー意味?」
「うーん、…分からんわぁ、ごめん」
そう言って少ししょんぼりしながらのっちはゆかの腰にきゅっとしがみついてきた。その頭を撫でて、ゆかはこの子の僅かな母性愛を感じる。
守ってあげたいと願っても、やっぱり守られてるのはゆかの方だ。
だけどのっちは変わろうとしてる。
のっちの左手の指の皮は、二年前と同じくらい固くなっていた。
◇12:終◇
最終更新:2009年10月22日 20:59