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季節はずれの夏風邪をひいてしまった。

朝起きると、まるで体が鉛を流し込まれたように重たかった。
のどが痛い。頭が痛い。顔も何となく熱っぽい。
昨日うっかり部屋のクーラーをつけっぱなしにして寝てしまったのと、
夜中にガツンとみかんを調子に乗って3本も食べてしまったことが祟ったみたいだ。

部屋には、私ひとりだけ。
温かいご飯を作ってくれる人も、冷たいタオルを持ってきてくれる人も、ここにはいない。
だからお腹がすいた時は、仕方なくもぞもぞとベッドから這い出て
冷蔵庫にあったゼリーやヨーグルトを食べて過ごした。
意識がぼんやりしているので、お気に入りのPSPにも今日は手が伸びない。
(…寝るか。)
私は空虚さで塗りつぶされた白い天井を見つめながら、浅い眠りの中を彷徨った——。

何度かの眠りを終えて目を覚ますと、いつの間にか部屋はオレンジの光で満たされていた。
もう、夕方か。
相変わらず頭は痛いし、だるくて起き上がることもままならない。
ふとんをかぶり、眉間にシワを寄せてうずくまっていると携帯の着信音が鳴った。

(…あ〜ちゃん?)

「もしもしー!のっちー?元気にしとるー!?」
…今日は風邪で休む散々言うたじゃろ、この子は…。心の中でぶつぶつつぶやきながら、返事をする。
「あいにく元気にはしとらんけど、どうしたん?」
「んーとねぇ…うん、あーちゃん、のっちのお見舞いに行こうかなあ思うとるんじゃけど……いい?」
…?
電話口の向こうのあ〜ちゃんは、何となく、いつもと雰囲気が違う。気のせいかな…?
気を取り直して答える。

「お見舞いに来てくれるん?わー嬉しいわ〜。いつ頃着くん?」
「もう玄関の前じゃ」
「へ?」

次の瞬間、ガチャッと玄関の開く音がすると同時に、甘いピンク色の空気がふわっと入り込んできた。


「おっじゃましまーす♪」
あ〜ちゃんが引き戸の蔭からひょこっと顔を出して、笑った。ピンクのふわふわしたワンピースが風に吹かれて揺れている。
「え、えっと、あーその…おはようございます」
とりあえず、ぺこんと頭を下げた。何だか妙にどきまぎして、トンチンカンな返事が口から零れる。
「なーにがおはようじゃ。どーせのっちのことじゃけえ、ロクなもんも食べんとグースカ寝とったんじゃろ?」
「ひっどぉい。それ病人に掛ける言葉?」
手厳しいコメントに少々ムッとしながら答えつつも、私はどこかほっとした気持ちになっていた。
大丈夫。いつもの、あ〜ちゃんじゃ。

ふと、あ〜ちゃんの手元を見るとスーパーの袋が目に留まった。袋から青々としたネギが飛び出している。
ふわふわのワンピースにスーパー袋を提げた彼女の姿がなんだか妙に可笑しくて、私は小さく声を立てて笑ってしまった。

「あ、ちょ、何笑っとるんじゃ!あーー!分かった!これか!これ持っとるのがいかんのじゃろ!?」
「ふふっ…ちが…ふふふふっ…」
「あーあー!分かったわっ。せーっかくあやのちゃんにあったか〜いお粥でも作ったろうと思っとったのになあ。残念じゃな〜。」
そう言うと、あ〜ちゃんは意地悪く口角を上げる。私をおもちゃにするときはいつもこうだ。
「わーごめんなさいごめんなさい!もうお腹が限界なんです!ぜひともお恵みを…!」


お台所借りるけえ。そういうとあ〜ちゃんは実に手際よく料理をし始めた。
野菜を切るトントン、ザクザクという音が耳に心地よい。
ベッドに横たわってささやかなリズムを楽しんでいると、ふと、ゆかちゃんのことを思い出した。
「そういえば、ゆかちゃんは?誘わんかったの?」


リズムが途切れた。


「あー…ゆかちゃんな!一応誘ったんじゃけど、大事な用事があるけえ帰らんといかんって!」
あ〜ちゃんはそう言うと、ささ、もうできるけえお皿とか出さんと、とか言いながら後ろを向いてしまった。
…やっぱり今日のあ〜ちゃんは何だか——。

あ〜ちゃんが作ってくれたのはねぎとにんじん、ときたまごが入ったお粥だった。
黄色と緑とオレンジの綺麗な色どりが、食欲をそそる。あったかい湯気がほわっと顔を包んだ。
「うわぁー、美味しそうじゃなあ!では早速…」
そう言ってレンゲを掴もうとすると、
「あかんっ」
あ〜ちゃんの手がそれを遮った。

「…あ〜ちゃんが、食べさせてあげるけえ」
今にも消え入りそうな声で、伏し目がちにそう呟いた。

「えっ…、もうやだなぁーあ〜ちゃん!ちっちゃい子じゃないんじゃけえ、自分で食べれるよ」
「あ、あかんっ!病人はおとなしゅうしとるのが一番なんじゃけ!ほれ、貸してみい」
あ〜ちゃんは半ば強引にレンゲを取り上げると、お粥をすくって私の口の方へ持っていった。

「ほれ、あーんして」
「んもーしょうがないなあ。あーーーん」
あ〜ちゃんがレンゲを口にするん、と滑り込ませる。
お粥がのどを通り抜けると、体中に温かいものが広がっていった。
「……おいしい?」
「…ん」
「よかったあ…」
あ〜ちゃんのほっぺたがふんわり桃色に染まる。何から何までピンクじゃなあ、この子は。


「…のっちぃ」
「ん?」
「ごはん…ついとるよ」


突然、ピンクの塊がばっと覆いかぶさってきたと思うと——彼女の指先が私の唇に、触れた。
あっという間に細い人差し指が、ごはんつぶと一緒に口の中へねじ込まれる。

「ひゃっ!」
あまりに突然だったので、私は短い悲鳴を漏らしてあ〜ちゃんを突き放した。ピンクの身体がぐらりとよろめく。
「ちょ…はぁ…あ、あ〜ちゃん!いきなり何しよるん!?」
荒い息を吐き出しながら問いかけると、あ〜ちゃんは我に返ったのか
眼を見開いて、ぺたん、と座り込んでしまった。
まるで上演中に糸を切られた操り人形のように——。

「…っ…ごめんね……怖が…らせちゃって……ごめんね……」

あ〜ちゃんは絞りだすように声を上げると、まんまるの涙をぽろぽろ零しはじめた。
うなだれたあ〜ちゃんの肩が小刻みに震える。フローリングの床に、小さな水たまりを作って。

あ〜ちゃんが、泣いてる。私の為に。どうすればいいのか分からなくて少しの間ぼーっとしていたけど、
だんだん自分の中で一つの答えが浮かんできた。
それがあ〜ちゃんに言ってもいいことなのか、本当はよくわからない。
でも今の私に出来ることはひとつだけ。それは、ただ——。

私はベッドから飛び出すと、あ〜ちゃんの身体を力いっぱいぎゅうっと抱きしめた。

「やっぱり…そうじゃったんかあ。気付かんくってごめんな…。ずうっとサイン、送っとってくれたのに」
「うう…っ、あ…っ…っく…」
「さっきはちょっとびっくりしちゃっただけじゃけえ。もう…大丈夫」

そう。ほんとは、私も、ちょっとだけ気が付いてた。
ただ、恥ずかしくて、認めたくなくて、わざと目をそらしてただけ。
でも、もう、大丈夫…。

あ〜ちゃんは迷子になってやっと母親を見つけ出した子どものように、私の胸に顔を押し当てて泣いていた。
そんなあ〜ちゃんのことを本当に「愛しい」と思った。
愛おしくて愛おしくてたまらなくなって、回した腕に力を込める。

「のっち……あたしのこと…嫌いにならんで、嫌いに…っ。あたし……のっちがおらんと…もう…っ」
「何言うとるんじゃ。私はこれからもずーっとずーっとあ〜ちゃんのこと……」

大好きじゃよ——。
あ〜ちゃんのきもちは、もうわかってるから。


「今日はずーっとだっこしとってね」
ふわふわのベッドの中。
ゆかちゃんは知らない。私とあ〜ちゃんだけの、秘密の空間—。

「まー甘えんぼさんじゃのう、のっちは」
「あ〜ちゃんだって…さっきまで甘えんぼあ〜ちゃんだったくせに」
軽くほっぺたを膨らませて、ふたりでくすくす笑いあう。

「ほうじゃ、のっち熱まだあるんか?」
「昼に計った時はうーん…と、37度9分だったかなあ」

「じゃ…お熱、計ろっか?」

ほっぺたのピンクを一段と濃くして、あ〜ちゃんが呟いた。
あ〜ちゃんは私の顔を引き寄せると、自分のおでこをぴったり、くっつけた。
甘い吐息が降りかかって、胸の鼓動がそのスピードを加速させる。
ゆっくりと眼を閉じると、私の熱があ〜ちゃんに伝わってく。
血液のどくどく流れる音が、一段と大きくなって—。

「……39度3分ってとこじゃな。上がっとるわ」
「誰のせいだと思っとるん、ホンマに…」
わざと不機嫌に答えてみる。
その度にあ〜ちゃんの回した腕に力が篭るのが分かって、可笑しかった。


どれくらいこうしていただろうか。
ふわあっ、と口から小さなあくびが出ると同時に、どっと疲れと眠気が襲ってきた。
お粥を食べた後に飲んだ薬が今頃効いてきたみたいだ。

いかん…まだいかん…もっともっとあ〜ちゃんのこと見ていたいのに…。

「のっちもう眠いか…?寝てもええんよ?」
「ん…でももっとあ〜ちゃんと…」
「そりゃああたしもそうじゃけど、寝んとカゼ治らんし…。そうじゃ、
あ〜ちゃんがカゼが早う治るおまじまいかけてあげるけえ」

そう言うとあ〜ちゃんは左手で優しく私のほっぺたを包み込むと、そのままそうっと唇を重ねてきた。

柔らかくて、あったかい。それにちょっぴり甘酸っぱい。
私の小さな胸はその瞬間、不思議なぬくもりでいっぱいになって…涙が一粒、ぽろりと零れた。

—頭痛いのも、のどが痛いのも、みーんなあ〜ちゃんが吸い取ってあげる。じゃから…。
——おやすみ、のっち。

私は真っ白な眠りに包み込まれて、深く深く底へと落ちていった。


風邪は朝起きたらすっかり治っていた。
あれから何日も経ったけれど、二人とも何事も無かったかのように過ごしている。
いつものように笑ったり、はしゃいだり、お菓子を食べたり。
ときどき、あれは夢だったんじゃないのかなあと思う時もあるけど、それは違う。
だって…あれからあ〜ちゃんの姿を見る度に、胸の奥がひりひりして、かあっと熱くなるから…。

私の心はまだ、風邪をひいたままだ。



おしまい






最終更新:2008年10月12日 15:31