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わたしなりの、しあわせ。


ビター・ビター(37)


歩く、歩く、歩く。発車しそうな地下鉄に乗り込むと、周囲の人の視線を感じて思わず顔を伏せた。ハンガーにかかっていた服を適当に選んで着ただけの格好。足元のパンプスがそのワンピースに全く似合っていなかった。あ〜ちゃんは恥ずかしくなって電車に乗っている間、サングラスをしているのにも関わらずずっと顔を伏せたままだった。
地下鉄でたったひと駅進んだところに目的地はあった。電車から降りて、改札口に切符を通して慣れ親しんだその道を歩く。数年経った今でもその景色は全くと言っていいほど変わってなかったためすぐに目的地に着いた。
息を大きく吸い込み、深呼吸をしてから鳴らしたインターホン。聞きなれた声が返事をした。するとその声の主は、驚いた反応を示し、すぐにドアを開けてくれた。


「…何で。」
「約束、守りにきたんよ。」


ドアから現れたのは、3年前まであ〜ちゃんと付き合っていた彼だった。彼はドアを開くなり突然の来客に驚きを隠せないでいる。あ〜ちゃんはそんな彼を真っ直ぐ見ていた。
「ここじゃなんだから。」と彼はあ〜ちゃんを部屋にあげる。あ〜ちゃんもコクンと頷いてワンピースに合わないパンプスを脱ぎ捨てた。
彼に促されて市松模様の洒落た絨毯に座ると、彼はすぐにホットミルクティーを淹れた。あ〜ちゃんはハッとして彼を見上げると、「綾香、好きだろ?」と当たり前のように言われたので、小さく頷いてカップに口付けた。そしてそのカップをローテーブルに置くなり、あ〜ちゃんは喋り出す。


「子ども、つくろっか。」


それは、3年前。




『…最後にお願いがあるんだ。』


彼は真っ直ぐあ〜ちゃんを見る。その目は多少の迷いが窺える。真っ直ぐな瞳の中にも動揺が見られた。そんな彼を前にしてあ〜ちゃんは受け止めるかのようにごくりと唾を飲む。


『なに?』
『綾香のことずっと好きでいたいんだ。』


聞いた瞬間、あ〜ちゃんは意味がわからん、と思った。思わず何も言えなかった。
そんな約束を交わしたところで、誰もしあわせになれない。


『無理じゃけえ…そんな約束、出来んよ…。』
『俺はもう綾香以外好きになれない。』


彼の言葉が真っ直ぐ過ぎてあ〜ちゃんは胸を痛めた。目頭が熱くなる。こんなにも想われているのに何故彼じゃだめなんだろう。考えれば考えるほど眩暈がした。
あ〜ちゃんも彼以外のひとと付き合うことはもうしないだろうと思っていた。だけど彼以上に大事なひとがいた。2人もいた。彼以上に大事だと思っていたひとに、恋をしただけ。友情が愛情に変わって、愛情が深くなりすぎて彼を思う気持ちを超えてしまっただけ。それだけのこと。


『…あ〜ちゃんのことなんか忘れて新しい彼女作って欲しい…。』


俯いたまま搾り出すように声を出した。すると彼は少し間を置いたあと、口を開く。


『…綾香の好きなひとって、女の子?』


聞かれると思っていなかったことを尋ねられて動揺したあ〜ちゃんは勢いよく顔を上げた。彼と交わった視線は冷たかった。空気が冷たかった。今度こそ軽蔑された、そう思った。


『そっか。』


目を細めて、微笑んでいるように見えるその表情は切なくてあ〜ちゃんの胸を更に締め付ける。


『じゃあ、綾香が子どもを欲しくなったら俺のとこにきて。』
『…どういう意味?』
『彼女との子ども、俺が』


言っていることがわからない。けれどそれは黙り込んでいた時間が教えてくれた。彼が何を言いたいのかわかってしまった。


『あ〜ちゃんと彼女との子どもを、作るってこと…?』


まさかと思って聞くと、彼はすんなり頷いた。


『そんなん…!?』
『綾香が幸せなら俺はいいから。』


現実的に考えて無理なことを彼はすんなりとあ〜ちゃんに告げた。当たり前のように。彼はそこまでしても。
彼の笑顔にただ頷くことしか出来なくて、あ〜ちゃんは半分残ったミルクティーを残して席を立った。そして、彼の前から消えた。




「…わかった。」


突拍子もないあ〜ちゃんの発言に彼はバカみたいに承諾するものだから、あ〜ちゃんはケラケラとお腹を抱えて笑ってしまった。そんなあ〜ちゃんを見て彼は意味がわからないのだろう、目をくりくりさせて驚きっぱなしである。


「ごめん、子どもつくろっかなんて冗談じゃけえ。」
「……。」
「彼女と、のっちと別れた。」
「え…。」
「友達から、また仲良くしてもらってもいい?」


あ〜ちゃんがのっちと付き合っていた日々は間違っていなかった。毎日好きだ好きだと囁かれてしあわせだったのは確かだった。
だけど、あ〜ちゃんのしあわせはのっちと不安定な先の見えない毎日を歩くことではない。そう気付いたのは、かしゆかに忠告されたあのとき。かしゆかの真っ直ぐな迷いのない目を見て、気付いてしまった。あ〜ちゃんではのっちをしあわせに出来ないんだな、と。かしゆかにかっこ悪いところを見せたくないのと、自分自身の情けないプライドが返事をした。


だからのっちと別れた。


(のっちのことは、好き。好きだったけど、)


あ〜ちゃんは彼に向けてにかっと笑みを見せて、しあわせを願った。








最終更新:2009年12月09日 14:19