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のっちの風邪はなかなか治らなかった。そしてようやく治った、かと思ったら二日後にまた風邪を引いた。

「なんてゆーかさ、ここまでだとさすがにかける言葉もないってゆーか」
「げほげほっ、ゆかちゃん…のっち死ぬ前にカレーが食べたい…」
「なんかもうね、バカなの?」

死にかけの犬みたいに唸って、のっちがベッドから這い出ようとするのをゆかは阻止する。隙あらばギターを抱えて出掛けようとするんだ。家で練習すれば良いじゃん、って言ったら「ゆかちゃんにはまだ聴かせたくない」と頑固な姿勢。
それで風呂上がりにベランダでやってるからこんな目に遭うんだよ。バカだと思ってはいたけどここまでバカだったなんてね。もう困りもの。

「そんなんで明後日のライブどうするつもりなの?」
「どうするって、出るに決まっ…ウェッホゲホ」
「出れないっつーの今のままじゃ」

ライブが終わったら前に酷かったらしい経済学の追試もあるって言ってた。バンドばっかりで勉強している姿はこの数週間見ていない。ライブが終わったら少しは勉強しないとまた酷い成績になるに違いないんだから。
それにしばらくしたらのっちは本格的に就活に励まなければならなくなる。バンドやら趣味に時間を割く事も出来なくなるのだ。
今は想像が出来ないけれど、のっちだって社会に出る準備を整えなくてはならない。のっちが嫌いな、この社会と向き合わなくてはならない。のっちに耐えられるのかな?保護者なゆかとしてはとても不安で仕方がないのです。






まぁそんな事ばかりも言ってられない、ゆかは一足先に社会人になったのだ。会社でも下っぱの下っぱだけど、いつか椎名さんみたいに華のあるOLになりたいなんて野望を抱いたりもしている。

「お疲れさま、今日は遅かったね」
「椎名さん…お疲れさまです、ここ最近のっちが風邪引いちゃって会社お休みしてたんです、そしたら仕事が溜まっちゃってて」
「そう、風邪はもう良いの?」
「まだ治ってないんですけど、なんかもう看病する気にもなんないとゆーか」

なんか愚痴っぽくなっちゃったなと思って「すいません」と謝ると、椎名さんはいつもの品のある笑顔で「全然良いよ」と言ってくれた。やっぱり椎名さんはゆかの憧れだ。

それから買い物をして家に帰ると、のっちが珍しく洗い物をしてくれていて。ちょっぴり感動しちゃったゆかは、朝より顔色の良くなったのっちの体を拭いてあげた。

「なんか、介護されてる気分で嫌だな」
「だってお風呂入っとらんけぇ、気持ち悪いじゃろ?」
「明日ライブの前にシャワー浴びてくけどね」
「あ、そっか明日だっけ、そんな声で歌えるの?」
「うん、多分」

のっちの白い背中、浮き出た肩胛骨に見惚れてしまった。腰の方まで下りていくと、その白い肌にプツプツと鳥肌が立って。

「寒い?」
「ううん、むしろ暖房あっつい」
「そうだね」

欲情した。今すぐこの細い腰を抱き締めて、肩胛骨に舌を這わしたい。ダメだ、渇いた風がゆかの唇を乾燥させていく。
唾を飲み込んだ。のっちは何も言わずに振り返る。




「何?」
「…何が?」

のっちはゆかの頬をそっと撫でた。そんな虚ろな目で見つめられたら、欲しくなる。気持ち悪い。自分でも引いちゃうくらい、今のゆかは欲求不満なのだ。

「…のっち……」
「うん?」
「抱っこ」
「うん」

のっちが広げた手の中に飛び込む。ぴったり額をくっつけた首筋は僅かに汗ばんでいた。








ライブ当日、まさかの仕事のトラブルでのっち達が演奏する時間に間に合わないかもしれないという危機に陥る。そしてゆかは朝から頭が痛かった。きっとのっちの風邪が伝染ったんだ、てか絶対そう。

「やっと、終わった」

時計を見ると、ギリギリ間に合うかってくらいの微妙な時間。ゆかは急ぎ足で最寄りの地下鉄の駅に向かった。
券売機には数人の列。先頭のお年寄りがもたついているのを見て、ゆかはイライラを隠せない。舌打ちを一つ。なんて嫌な女なんだ。手助けすらしないくせに。
携帯の画面に表示されたデジタルな時計は一秒ずつ確かに進んでいく。頭が痛い。気持ち悪い。

ようやく切符が買えて、ホームへ急ぐ。ベルが鳴る。息が苦しい。電車に飛び乗ると、すぐさま空いてる席に座って手すりにもたれかかった。
今日は疲れたな。なんだってこんな日に限ってミスが発覚するかな。運悪過ぎるよ、ゆか。

あー。
着いた、ここだ、降りなくちゃ。

あー。
みんな歩くの遅い、どいて、道開けろよ小悪魔agehaみたいなギャル。

あー。
到着、ゆかだけスーツとか超浮いてる、なんかスカウトマンぽく見られてたりなんかして。

あー。
タイミング良すぎ、のっち達ちょうど演奏してるじゃん。

「待って」

久々に訪れた小さなライブハウス、懐かしい空気を感じた。ステージ上にはあの頃みたいなのっちがいる。ライトを浴びて眩しくて、憧れだったのっちの姿。
でもどうして

「あ〜ちゃん…?」

マイクを持ってんのは、あ〜ちゃんだった。こんなにも会場の温度を上げて、初めて聴いたあ〜ちゃんの歌声は綺麗で。
吐き気がする。眩暈がする。
耳に入ってくるのっちが作ったメロディーが痛い。頭の中で何重にも重なって、バカみたいに汚い。どんな歌詞なの。聞き取れないよ。

ねぇ、のっち。
もしかしてコレって、別れの曲?





家に帰って一人、玄関に崩れ落ちると、なぜか涙が零れた。涙は止まらない。頭の中にはまだあの音楽が鳴りやまない。気持ち悪い。頭痛い。苦しい。

「は、ぁ、はぁっ」

息が出来ない。
ゆかは何を考えてるの。ギターを弾いてるのっちではなく、輝くあ〜ちゃんだけを目に焼き付けて。
苦しい。

「かしゆか!」

「…あ〜ちゃん?」

あ〜ちゃんは、ゆかを抱き上げるとその柔らかな唇でゆかの口を塞いだ。視界がぼやけて、その綺麗な睫毛がたくさん見える。花のようだ。気持ち悪い。

なんでここにあ〜ちゃんがいるの?
違う、あ〜ちゃんじゃない。
この人は誰?
苦しいよ、のっち。


◇17:終◇





最終更新:2009年12月09日 14:22