side.A
重たい扉を彼女が開ける。
いつもなら小階段の途中で感じるはずの、低音が発生させる空気の震えがない。
開いた扉から漏れ聞こえるはずの、鍵盤の音もストリングスの音色も聞こえない。
「職場って、ここだったんじゃ」
「うん」
白濁したイメージしかないホールが、澄んだ空気。
派手な灯りもない。
奥のカウンターバーの茶色い光が、ぼんやりと濁ってあたし達の影を伸ばす。
暗闇の中、ステージの端にあるグランドピアノがおもちゃみたいに見えた。
「ねぇ、休みなんじゃないの?」
小さな声が、ホールに良く響いた。そんな自分の声に驚いたあたし。隣にいる人は、澄まし顔。
「やってるよ。扉開いたでしょ」
「大晦日だよ?」
自然と声は小さくなる。
CLOSEのプレートが掛かるガラスのドア。彼女は事も無げにそのドアを押す。
確かにドアにはPUSHって書いてある。
矛盾がないなら、やっぱりCLOSEじゃん。
「いらっしゃいませ」
「お疲れ様です」
「あ……こんばんは」
「こんばんは。お待ちしておりました」
カウンターに立つ、いつものバーテンダー。
じゃあ雇主さんか。
いつものっちがお世話になってます。
お待ちしておりました?
「どゆこと?」
「お願いしといたんだ。今日お店貸してって」
「そんなん……いいんですか?」
「ええ。ちゃんと後で私の給料大本さんに請求致しますので」
「冗談うまいよね」
「本気です」
「え?」
あたしに同意を求める彼女の背中に、からかう様な声で言うバーテンダー。
相変わらず、からかわれるのが上手な子。
しかもからかわれてることに気付いてない。
「まぁいいや。座ろ」
「うん」
彼女は一番奥のスツールに腰掛ける。
あたしはその隣。
「またお会いできましたね」
「ああ、はい」
「……知り合い?」
「ううん。そういう訳じゃないけど」
「大本さんがいた時に一度。そのあとにも、一度だけ」
「あぁ、あの時か」
「その前にもこのお店に来たことはあったんですけど、あたしあまりお酒呑まないんで」
「そうでしたか」
当たり障りのない笑顔でシェイカーを振る。
程無く同じグラスが二つカウンターに置かれた。
「お待たせ致しました。“こないだと同じもの”で御座います」
「なんですかそれ?」
「どちらもお一人でお越し頂いた時に受けたオーダーです。一言一句相違無かったので憶えてしまって」
そう言って笑うバーテンダーは、さっきより随分人間らしく見えた。
「えぇ〜、憶えてないなぁ」
「あなたは少し忘れっぽいから」
「そんな風に思ってたんですか?」
これも、彼女の凄いところ。
図らずに、簡単に壁を消し去る。
違うかな。どうもこの子にはみんな、壁を作ってはいけない気になるんだろうな。
昔は随分取っつきにくい子だったのにね。
side.N
中途半端に緩んだ空気。
下らない話。
たまに響く笑い声。
そういえば、今店にはあたし達しかいないんだ。
さっきホールへの扉を開ける前に、小階段で響いた彼女のヒールの音が頭ん中でまだ鳴ってる。
振り返れば、真っ暗な店内が一望できる。
誰もいない寂しい空間。
動かない自分の伸びた影を、なんとなく見続ける。
小さい頃に、一人公園でそうしてたみたいに。
タイミングって難しい。
昔話に花を咲かせてる場合じゃないのに。
でも、切り出すのが恐ろしい。
別に、なんとなくなるようになればいいじゃん。なんて、大層逃げ腰な自分が顔を出す。
自分がはっきりしないヤツだから、周りにこんな面倒掛けてるのに。
中途半端は止めるんだ。
グラスを一息に飲み干し、カウンターに置く。
あたしの気配に気付いてかいないでか、頼れる上司は静かに席を外した。
あぁ、そうか。二人で話すんだ。
恐いな。緊張するな。なんでこんなに鼓動が早くなるんだろう。
体が熱くなって苦しくて、不安になって。
だから嫌いなんだよ。
なにかと真剣に向き合うって、こんなに大変なんだよ。
昔はいつも彼女にこんな役回りさせてたのかな。
ごめんね。いつもくっついてくだけだった。
舞台を整えたのだって、あたしじゃない。
ごめんなさいね。今度、奥さんにもお子さんにもちゃんと謝るから。
家族で過ごすんだっただろう大晦日なんて日に、旦那さん借りちゃってごめんなさいって。
「ねぇあ〜ちゃん」
「のっち?」
「……なに?」
「なんも言わんでええよ。のっちは」
「……なんで?」
「なんでも」
彼女がグラスを口にする。
軽くはないそのカクテルを「甘くておいしい」なんて笑うその顔は随分と大人になった印象。凄く綺麗。
少なくとも、あたしの良く知っている彼女のどの表情とも、うまく一致はしなかった。
「グラスが空いたのに、バーテンダーがいないバーってどうよ」
「気ぃ使ってくれたんじゃろ」
「そんなん分かってるけど……」
なんでこんな時って、自分のことばっかり気になるんだろう。
なんで彼女はこんなに落ち着いてるの?
なにかを懐かしむ様な、諦めにも似た様なその表情は、やっぱりとても綺麗に見えた。
白い肌に茶色い淡い光が揺れて、こんな絵画を見たのはいつだっけ。なんて、そんな回想を強いられる様な、強くて美しい横顔。
「ねぇのっち」
「なに?」
「なんでゆかちゃんと別れようと思ったん?」
「……わかんない」
「わからんことないでしょ」
誰もいない無音な空間に彼女の声が響く。
優しい声。諭す様な声。
「まぁええわ。なんとなく分かるし」
「えぇ〜……そんな簡単じゃないもん」
「簡単よ。不安だったんじゃろ」
全部分かってます。
そんな顔でまたグラスに口を付ける。
そんな訳ない。そんな訳ないけど、もしかしたらって思わせるこの子の存在ってなんなんだろう。
不安だったからか。
確かにそれで全部説明はついちゃうけど……
「ゆかちゃんはあたしといてもきっと幸せになれないよ」
なんで人は愛し合うんだろう。
人間様の繁栄の為だよ、とか最高につまらない答えならあたしにとってそれは絶対違うし。
嫌なこと多いし、面倒なことも沢山あるのに、それでも誰かを求めるのは何故?
それは、誰か答えを知ってるの?
それとも、いつか誰もが見つけられるの?
自信ねぇな。
「……そんなん誰かに決められることじゃない」
「え?」
「ううん。ねぇのっち」
「ん?」
「今は?」
「今?」
「うん。今はどう思っとる?」
……待ってて欲しいって、思ってるよ。
そう思ってる。
この子との時間のあとに、あたしは会いにいこうと思ってるし……
「ゆかちゃんに会いたい」
調子が良いのは百も承知。
いつだってそうなんだ。
もっと早くに考えれば分かるのに。
毎日の様に要らない思考がクルクルまわるんだ。コロコロ答えが変わるんだ。
自分の足らない頭ん中がつくづく嫌になる。
このままじゃダメだとか満たしてあげられないとか先が見えないとか。
不安だったから。
そう言われれば丸呑みしてしまう。つくづく情けないな自分。自信がないから不安なのかな。
自信ってなんだろう。そんなん持ってる人いるの?
単純な頭の作りな癖に、いちいち複雑に考えようとするから失敗する。
「ごめんね」
「ん? なにが?」
「あ〜ちゃんのせいだよね」
「は?」
「あ〜ちゃんが悪いんよ」
「なにそれ。なんでそうなんの?」
そう言った彼女の手は震えていた。表情は変わらなくても、さっきまでとは空気が変わった。
どこでスイッチ入ったかな?
彼女の暴走癖。たまにあるんだよな。
「あたしの問題だから」
「最初抱いてくれた時もそうだった」
「そんな昔のこと憶えてない」
「昨日のっちの部屋いる時もそうだった」
「なにが? なんの話?」
「本当は分かってた。のっちはちゃんとゆかちゃんが好きなんよ」
何も言えなかった。
ああ……そっか。相手はあ〜ちゃんだった。気付いてたんだ。
あたしが気付くことにくらい、そりゃ気付くか。
でも、それでなんであなたのせいになるの?
カウンター越しに見るレトロな壁掛け時計。
仕事中は閉店時間ばっかり気にしてるっけ。
年明けまであと30分。
〜続く〜
最終更新:2009年12月09日 14:29