視界が暗転した。
自分の体が突如鉛になったかのように、重力に従って崩れ落ちた。
直後、脇を歩いていた友人に体を支えられ、私を案ずる声が聞こえた。
体がひどい倦怠感を訴えている。
久しく患うことの無かった頭痛も、今日は私の意思に反して暢気にやってきたようだ。
午後の授業は乗り切れそうにない。
自分の身のため今日は早退することにした。
心配する友人に礼を言いながら、人気の無い構内を後にした。
ふらついた足取りでやっとの思いで着いた、1DKの自分だけの根城。
鍵を開けて中に入っても、迎えてくれたのは薄暗い誰も居ない空間。
こういうとき、一人暮らしの寂しさを痛感する。
東京に出てきて何年も経つというのに、時々こうやってひどい孤独感に襲われる。
いつも以上に重く感じる荷物を放り投げて、ベッドに倒れこんだ。
依然として頭を襲う痛みは治まらない。
胃の底から湧き出る不快感を抑えて、目を閉じる。
滅多に体調を崩すことがないというのに、私の体はどうしたというのだろう。
日ごろの疲れや寝不足が積もりに積もったのかもしれない。
身体的な原因のほかにもうひとつ、今回のコレには心当たりがないわけではない。
我ながら”こんなこと”で支障をきたすなんて情けないと思う反面、
このわだかまりを”彼女”に気づいて欲しかった。
味気の無い着信音が響いた。
『大丈夫?今日はゆっくり休みなよ。』
可愛らしいデコレーション絵文字と一緒に、かしゆかからのメールが届いた。
倒れたことを私の友人から聞いたのだろうか。
自称メール人間の彼女は、何かあればこうやってすぐにメールをくれる。
そんな細かい気遣いに感謝しながら、簡単に返事をしてすぐそのまま眠りに落ちた。
今度はインターホンの音。
こんなときに来客はないから、きっと宅配便か、何かの勧誘だろう。
出ようと思っても、体が重くて布団から出ることができなかった。
しばらく黙っていると、ガチャリ、とドアの開く音がした。
——しまった。戸締り忘れてた。
やばい、と思って息を潜める。
いざとなったら枕元に防犯用の催涙スプレーがあるから——
と身構えたのも束の間、
「…のっちー?」
聞き覚えのある声が、聞こえるはずのないその人の声が聞こえた。
「鍵開いてたから勝手に入っちゃった、ごめんねー」
ビニール袋を提げて、笑顔で入ってきたその人は。
「大丈夫?かしゆかから倒れたってきいてさ」
静かな室内に彼女の明るい声が響く。
じっとりと淀んだ空気が、一気に華やいだ気がした。
「…なんで、あ〜ちゃん。学校は?」
「抜け出してきちゃった」
おどけるようにそう答えるあ〜ちゃんのその笑顔は、やっぱり私を癒してくれる唯一の存在だった。
「だって、単位とか…」
「いつもはのっちがあ〜ちゃんのスーパーマンじゃん。たまにはあ〜ちゃんがのっちのスーパーマンになって、駆けつけなきゃ」
ベッド際に歩み寄って屈む。
熱はないんだよね、と私のおでこを触って確認する。
いつもあ〜ちゃんが着けている香水の香りがした。
手はひどく冷たかった。
今日はかなり冷え込んでいたというのに、彼女の大学からここまで結構距離のあるなか、時間をかけて来てくれたらしい。
ありがたさと申し訳なさでいっぱいだった。
ましてや、最近彼女を疑っていた自分も居たから、なおさら。
あ〜ちゃんには最近恋人ができた。
それを知ったのは1ヶ月くらい前なのだけれど。
最近何も話は聞いていないけれど、それはつまり順調に交際を続けているということでもあった。
彼女は、今回に限ってあまり彼との話をしない。
それは、最近そういう話をするとそっけなくなってしまう私に気付いてのことなのだろうか。
いつからだろう。
彼女に近づく男が、誰でもかれでも気に食わなかった。
できればあ〜ちゃんには恋人を作って欲しくなかった。
それが、嫉妬からなのか、彼女への独占欲からなのかはわからない。
もしかしたらそのどちらもかもしれないけれど。
自分の気持ちに正直になってみれば、たぶん後者に近いだろう。
親友との友情を、私たちだけの時間を、見ず知らずの男に奪われたくなかった。
それはひどい嫉妬ではあるけれど、実際彼女が付き合い始めたときいたときは、寂しさと悲しさと虚しさが一気に溢れた。
最初は今までどおり普通のふりをしていたけれど。
無理に引き締めた糸も、最近はボロがきていた。
彼女と話しているとき、自分で自分のぎこちなさがわかってしまう。
そんな私を気遣ってか、いつしかあ〜ちゃんは自分の恋の話をしなくなった。
申し訳ないとは思うけれど、それで居心地が良くなっている自分もいて、その自己中心的な考えにうんざりもして。
そうしているうちに彼女は、あまり私のほうを見てくれなくなった気がしていた。
被害妄想もあるかもしれないけれど、彼女にその自覚は無いかもしれないけれど、
私が寂しさを実感していたのは確かだった。
ぎこちない態度の私と居るより、彼と一緒に居るほうが楽しいだろう。
そのほうが彼女のためだと思って、私からあまり歩み寄らないようになってしまっていた。
きっと彼女は昨日も今日も明日も、彼と楽しい時間を過ごしているのだろう、と。
だから今日、彼女が来るはずがないと勝手に思い込んでいた。
——私が勝手に距離を感じているだけなの?
——あなたは私を今どう思ってるの?
なんでこんなに彼女を疑ってしまうのか、自己嫌悪に苛まれながら過ごしてきた。
そのストレスが、たぶん倒れた原因のひとつでもあるだろうと思った。
むしろそうであってほしかった。
私はあなたのことをこんなに考えているのに、と
私のわがままが少しでも届けばいいと思った。
こころの奥底にしまいこんで、声に出したことなんて一回も無いから、そんな馬鹿げた想いなんて届くはずもないけれど。
「お昼食べた?」
「ううん」
「食欲ある?」
「…あんまり」
そっか、と彼女は一度考え込んでから、ちょっとキッチン借りるね、と提げていたビニール袋から食材を取り出しながら台所へ向かった。
水道から水が流れ出る音や、包丁で野菜を切る音、コンロの火がつく音、久しぶりに聞いたような気がするその生活音が心地よかった。
彼女は慣れた手つきで、何かを作っているらしい。
「よしっ、できた」
しばらくすると、あ〜ちゃんはベッドのサイドテーブルにお皿とカップを運んできた。
お皿にはほうれん草とベーコンの炒め物、カップには一見したら何かわからなかったけど、その香りですぐ生姜湯だと気づいた。
「貧血かもしれないから、鉄分多めな感じで作ってみたんだけど。
生姜湯は体あったまるから、しっかり飲みんさいや」
熱いから気をつけて、とあ〜ちゃんは生姜湯の入ったカップを渡してくれた。
寒気で冷えていた指先が一気に温まり、それを飲んだ瞬間、体の芯からじんわりと熱をもって包み込んでくれた気がした。
*
のっちが食べ終わるのを待ち、食器をさげて洗おうとしたら、のっちが迷惑だからと止めたけれど、世話好きなあたしはそれを笑いながら断った。
彼女は心底申し訳なさそうに困った顔で、あたしを見つめていた。
食器を洗って、調理器具も全て片付けて、シンクを水洗いして一息ついたころ。
のっちのほうを見ると、彼女はいつの間にか眠っていた。
布団の外に投げ出された力無い左手が、か弱く見えた。
ろくに布団を被っていなかったから、肩までかけ直して、その左手に触れた。
あたしより少し丸っこくて長い指。
最近塗り替えたばかりのダークトーンのネイルが、少しくすんで見えた。
久しぶりに触った気がするその手は、当たり前だけれど変わりないのっちの手だった。
最近ののっちは、たぶんあたしを避けている。
その原因がわからないわけではないけれど。
その心当たりを言葉にして伝えてしまったら、何もかも崩れてしまいそうな気がして。
せめてこの温もりであたしの気持ちが届くなら。
両手で彼女の手をぎゅっと握った。
そんなこと知ってか知らずか、のっちは子供のような寝顔で規則正しい寝息を立てていた。
*
ブーッというモーター音で目が覚めた。
ソファに置いてあるあ〜ちゃんの携帯がメールを受信したらしい。
その差出人はおおよそ予想がつくけれど、それを認めるのは何となく嫌だった。
規則的に点滅を繰り返す携帯の着信ランプの灯りが、しつこいくらいに光っていた。
すぐ脇で、私の左手を握ったまま、ベッドにもたれかかって寝ているあ〜ちゃんの姿があった。
時計を見れば、彼女が来た時間から4時間近く経っている。
寝不足もあったのだろうか、そんなに寝ていたらしい。
そんな長い時間ここに——?
孤独を包んでくれたその手の温もりが心に沁みて、じわりと視界が滲んだ。
仰向けになっていたから、涙はかろうじてまつげの手前で止まった。
これ以上溢れないように、強く目を閉じた。
それでもその意思に反して私の涙腺は緩みきったままで、まつげを塗らした。
「…どうしたのっち。なんで泣いとん」
あ〜ちゃんが起きた。
寝起きの、少し枯れた声で私の名前を呼ぶ。
狼狽した表情で、心底心配そうに私を見つめてくるその瞳が、どうしようもなく愛しかった。
もっと自分を好きになってよ、ってくらい人に優しい彼女は、自分の優しさに気付かないのだろう。
長い間彼女を見てきた私だから、呆れるほどにそれがわかる。
私の心配なんかしなくていいのに。
あなたを疑っていた私を、心配しないでよ。
「泣いてないよ。あくびしただけ。心配しないで」
「そう?…のっち死んだように眠っとったけぇ、このまま起きなかったらどうしようと思った」
どうせなら、そのまま永遠に目覚めることがなければよかったかな。
そうしたら、最期の瞬間をあ〜ちゃんと二人で迎えられたのに。
そんな馬鹿げた思考がめぐるほど、私は憔悴しきっているみたいだ。
寝る前よりは軽くなった体を起こして、外を見る。
晩秋の空は、太陽を沈めるのが早くなっていた。
遠くにある工場の強い照明が、わずかに部屋に射し込んでいた。
「よくなった?」
「・・・うん。ありがとうね」
「なんもいいんよ・・・いたた」
無理な体勢で長時間寝ていたせいか、あ〜ちゃんは凝り固まった体をほぐしていた。
——携帯、メール届いてたよ——
その言葉はのどまで出掛かって、同時にそれを飲み込んだ。
きっと、差出人は彼だろうから。
今日は私だけを見ててよ、って、心で彼女に語りかけた。
きっと彼女は。
その携帯電話を開いてしまったら、この世界から消えていってしまうような気がした。
*
関節をほぐしながら、自分の携帯に目をやると、着信ランプが光っているのに気づいた。
内容を読み進めて、簡単な返事だけをして、携帯電話を閉じた。
その様子を不安そうな瞳で見てくるのっちに気づいたから、安心させようといつもの笑顔を向けた。
「ただのメルマガだったけぇ。…どうする、のっち。晩ごはんは…」
「いい」
私の言葉をさえぎるように、短い言葉で答えたのっちに、少し驚いた。
「…あ、ごめん。
もうこれ以上迷惑かけれないよ。ありがとう。あとは一人で大丈夫だから」
押し殺すような声でのっちは言う。
そんな彼女の様子を見た瞬間、自分の愚かさに気づいた。
中途半端な嘘なんてつくんじゃなかった。
見え透いた嘘なんて言うんじゃなかった。
私は彼女のためについた嘘で、彼女を傷つけてしまった。
「——…ごめん」
*
彼女が言ったその言葉の意味を図りかねたまま、彼女は荷物を持って玄関に向かっていった。
あ〜ちゃんがあんな悲しそうな顔で、あんな言葉を言うことは、滅多にない。
「…お大事にね」
そう言い残したあ〜ちゃんの眼が、潤んでいた気がした。
私はそこに立ち尽くしたまま、入ってきたときより荒々しい、ドアの音を聞いていた。
最終更新:2009年12月09日 14:36