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「いってえ…。」


左膝。たらりと流れる赤い液体が、気持ち悪い。歩く度にじん、と重く膝に圧し掛かるようで、のっちは保健室に続く廊下を、左足を少しだけ引きずりながら歩いた。
原因は、のっちの不注意。体育の時間、のっちのクラスの女子はソフトボールをしていた。のっちはサードを守っていた。試合に何の変化もなく、退屈していたときだった。風邪で昨日学校を休んでいたあ〜ちゃんが歩いているのを発見した。体調がよくなったのだろうか、遅刻して登校してきたらしい。さすがに声をかけるのは授業中、しかも試合真っ最中、いけない気がして視線だけであ〜ちゃんに猛アピールした。身体をキョロキョロ動かして、試合そっちのけでのっちはあ〜ちゃんを見ていた。すると、「大本さん、危ない!」誰かの声にハッとして振り返ると、時既に遅し、のっち目掛けて盗塁をしてきた女の子と正面衝突した。盗塁をしてきた相手チームの女の子は、1点を稼ぐ為に全力で走ってくるのは当たり前。一方ののっちはぼーっとしていて踏ん張ってもいなかったものだから、勢いよく飛ばされた。おまけのようにピッチャーが盗塁させまいと送球したボールがのっちの頭部を強打し、倒れた際に左足を擦り剥いた。


保健室のドアを開けると、先生は生憎不在だった。仕方なく、そこら辺にある用具から消毒液と脱脂綿を取り出してのっちは自分で自分の足を消毒した。消毒し終わって絆創膏をぺたりと貼り、帰ろうとしたとき、閉まっていたはずのベッドを囲うカーテンが開いた。


「のーっち。」
「ゆかちゃん? どっか具合でも悪いん?」


開かれたカーテンからひょっこり顔を出したのは、ゆかだった。いつものあのにこりと大人のようにすっと笑ってみせるゆかを、のっちは羨ましく思う。


「ううん、お昼寝。」
「お昼寝?」
「のっちもお昼寝、しよ?」


ゆかはベッドに横たわって上目遣いでのっちを誘う。元々、真面目な方ではないのっちは、その誘いにまんまと乗り、ゆかが寝ているベッドへ潜り込んだ。何だか、わくわくした。普段と少し変わったことをするだけでこんなにも胸がわくわくするのだと、のっちは思った。ベッドに潜り込むとゆかと目があって、ゆかは、へへっと照れたような笑みを向けてのっちに笑いかける。至近距離で見るゆかの顔は、いつもより増して綺麗だった。


「ゆかちゃん、いっつもこんなとこでサボってんの?」
「うん。」


のっちはゆかのことを何も知らないに等しい。苗字も、血液型も、誕生日も、クラスだって知らない。知っていることと言えば、ゆか、という名前だということと、ゆかの好きな人が女の子だということだけだった。この黒目がちの瞳の奥に、何が映っているのかも全くわからないのっちは、ゆかのことを知りたいと思った。


「ねえ、ゆかちゃんの苗字は?」
「いわない。」
「えー、何でだよー。」


のっちが駄々をこねると、ゆかはいつもの微笑みを返して、「知らなくていいことだよ。」とあっさりと跳ね除けた。のっちは頬を膨らまし唇を尖らせると、子どものように拗ねていますオーラを醸し出した。そんなのっちを見て面白くなったゆかは、のっちの膨れた頬を指で押したり、摘んだり、好き勝手する。のっちも然程嫌ではないので、ゆかのしたいようにさせている。するとふと、ゆかの人差し指がのっちの唇に触れた。




「のっちってね。」
「うん。」
「キスしたことあるん?」
「ないよ。」
「本当に?」
「うん。ゆかちゃんは?」
「…さあね。」


何が何でもゆかは答えなかった。それはけしてのっちに素性を知られたくないとか、そのようなことではない。自分自身で楽しんでいるように思える。一瞬ゆかが視線を落とした。ゆかはのっちの唇に人差し指を当てたまま、視線を唇に向けて訊いた。


「…あ〜ちゃんとキスしたい?」
「……うん。」


のっちも視線を同じように落として、ゆかの唇に向かう。持て余していた手がゆかの手首を掴んだ。


「…ゆかが、あ〜ちゃんになってあげよっか?」
「え?」
「ゆかのこと、あ〜ちゃんだと思ったらいいじゃん。」
「ちょ、ゆかちゃ…。」
「練習、練習。」


ゆかがのっちの顔の横に両手をついた。跨る身体、見下ろすゆか。ゆかの長い髪が垂れて影を作り、のっちからはゆかの表情がよく見えなかった。ただその口元だけは、微かに笑っていた。ゆっくりとゆかが降りていく。のっちは、その動作がスローモーションのように感じた。強張る身体は、硬直し身動きが取れない。


「のっち…。」


名前を呼ぶ声が、あ〜ちゃんのような気がした。
思わずのっちは目を瞑る、降ってくるであろう唇を受け止めるように。堅く閉ざされた目はそれを待っていた。


「……なーんてね。」


そのおどけた声に恐る恐る目を開くとゆかが笑っていた。のっちは何が何だかわからなくて目をぱちくりさせて無駄に瞬きを繰り返した。


「のっちがそんなに怖がっとったら、ゆか、キスなんか出来んけえ。」
「え、ごめん。」
「のっちってほんと、かわいーわ。何だかからかいたくなっちゃう。」


くすくす笑うゆかに悟られまいと、のっちはそっと胸を撫で下ろした。
…初めては、あ〜ちゃんがいい。
叶うはずもない思いを抱いてきた、長年の想いをここで簡単に手放すわけにはいかない。けれど、ゆかを相手に抵抗が全く出来なかった自分に、のっちは背筋につぅっと冷汗が流れるような思いでいた。


「…ゆかちゃんの好きなひとって、どんなひと?」
「秘密だよ。」
「またぁー?」
「うん。あ、一個だけ教えてあげよっか?」
「うん!」
「ゆかの一目惚れ。」


キラキラした目で、好きなひとについてたった一言だけれど話すゆかは、何だかのっちにはすごく可愛く見えた。ゆかの新たな一面を少しだけ、知れた。
いつか、ゆかのことを全部とまでは言わない、半分くらいわかれたら、ゆかのことをあ〜ちゃんの次に仲良しな友達くらいにはなれるかな、なんてのっちは思った。






最終更新:2009年12月24日 18:18