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それからは、どれもこれも単純だった。
デビューして売れてライブしてテレビにも出て、のっちは毎日忙しそうにしながらも楽しそうに歌ってた。
曲を書いてるのっちの横で、ゆかは色鉛筆で絵とも言えぬ何かを描き殴って。今日は鳥。黄色いからヒヨコさんかな。それにしたって簡単過ぎる。

「のっち、キャンペーンはいつからだっけ?」
「来週の水曜から、かな」
「どこ行くの?」
「えっとね、仙台名古屋大阪福岡広島…」
「広島行くんだ」
「うん、ラジオ」

正月以来だな、って言いながらのっちは笑ってみせた。ゆかはふーんと呟く。それが素っ気ないのが気に食わなかったのか、のっちは指ですっとゆかの落書き帳を奪った。
のっちはゆかの描いたヒヨコみたいな鳥を指差して「コイツ可愛いね」と言った。ゆかは黙ったまま頷いた。
平凡な日常はいとも簡単に壊れてく。CDは売れてのっちは人気者。あんな小さなライブハウスでちょこちょこやってきたライブも今じゃZeppなんたらとか言っちゃって。
外出する時は黒縁メガネに帽子まで被っちゃってさ。慣れた手付きでサインを書くその右の手首には高級の腕時計。社長に貰ったんですかそうですか。

「ゆかも行きたいなぁ、広島」
「来る?」

それでも変わらずのっちはのっち。
無責任な優しさは時に人を苛立たせるとも知らず、のっちは今日もゆかの機嫌を取ろうとする。そんなのっちが好きだったのに。
変わったのはゆかの方だった。

「行ける訳ないじゃん、仕事あるんだから」

それに気付いてしまったゆかは、もうどうしようもなく心が弱ってしまってて。強い口調は部屋に響いて、のっちの自信をみるみる喪失させてしまう。
のっちは悲しそうな顔をして「ごめん」と言う。ゆかは顔を伏せて泣きそうなのをぐっと堪えた。

「……」
「………」
「…好きだよ」

ゆかも好きだよ、
言葉は出てこないけれど、のっちに強く抱き付いた。優しいその腕の中で、願ってしまった。


歌手なんて、辞めちゃえ。

のっちの腕が緩くなる。見上げると、少し目が合った後に優しいキスが降ってきた。
あんな声で歌うくせに、キスはいつも優しい。いっその事、歌えなくなれば良いのに。
この口が、舌が、

「っ…!」

ゆかが口を小さく開くと、そこにのっちの舌が入ってきたから噛んだ。のっちは咄嗟に離れて口元をおさえた。

「びっくり…したぁ」
「痛かった?」
「ううん、別に」
「のっち」
「うん」

ざらざらしてて温かい。

「……好き」

のっちは嬉しそうに笑った。
久しぶりにヤっていい?と、なんだかスイッチが入っちゃったらしいのっちに久々に抱かれた。それでもゆかの考えは変わらなかった。
ゆかよりお金を稼ぐのっちなんか、嫌い。たくさんの人に愛されるのっちなんか、大嫌い。
ねぇのっち。どう?ゆかを見下す気分は。そこには良い景色が広がってる?
ゆかが今見てる景色は酷くて、吐き気がするよ。








「あ、のっちだ」

その視線の先はビルの巨大なスクリーン。そこにはのっち達の新曲のCMが一瞬流れてた。それを見上げてあ〜ちゃんは笑った。

「凄いねぇ、もう有名人よのっち」
「天狗になっとるわ」
「そう?でも友達が有名人ってなんか嬉しいね」

ゆかはあ〜ちゃんの手を繋いだ。あ〜ちゃんは首を傾げた。
強く握ると「どうしたんね」とまた笑った。ゆかは「なんでもないよ」と言ってそのまま歩きだす。
今日は二人で映画を見るんだ。そして美味しいイタリアンのお店でご飯を食べるんだから。
昨夜のっちにこの事を電話で話したら羨ましがってた。「良いなぁのっちも行きたいなぁ」って、甘えた声を出して。
名古屋のホテルの部屋で暇でゴロゴロしてるって言うからつい長電話になってしまって二時間は話してた。美味しい天むすいっぱい貰ったから持って帰るね、とか。名古屋の女の人はヴィトンのバックを持ち過ぎ、だとか。意味もない会話。
でもなんだか楽しかった。
同棲を始めてから、こんなに会わないでいたのは初めてだったから。

のっちは楽しそうだ。仕事にも慣れてきたみたいだし、苦手なお喋りも少しずつ克服していってるみたいで。
あのルックスで、それなりに愛嬌があるのなら日本では人気者でしょ。
ゆかはまだ何にも慣れちゃいない。のっちの後ろ姿は、もうぼやけ始めてるって言うのに。

「ねぇ、ゆかちゃん」
「…」
「もし辛いんだったら言ってね、あ〜ちゃんで良かったら力になるけん」
「……あ〜ちゃんはゆかのこと好き?」
「うん、好き…あー何言わすんね恥ずかしい」
「そっか、だったら付き合ってよ」

自分でも驚くくらい暗い声だった。
地下鉄のホーム、乗るはずの電車がベルを鳴らし扉が閉まる。振り返ったあ〜ちゃんの柔らかな髪の残像。抱き締めて、気が付いた。
あ〜ちゃんがゆかを拒んでいる事に。

「…っ」

突き放されて、ハッとする。その瞳は大きく揺れていた。
「ばか」と吐き捨て、あ〜ちゃんは走り去る。今来た道を、逃げるように。エスカレーターを掛け上がって姿が見えなくなるまで、ゆかは身動きが取れず。
周囲の視線を感じながら、掌を見つめて自分を嘲笑った。恥ずかしい。何やってんのこんな公衆の面前で。ばか。


家に帰ると、そこにはのっちの姿があって仰天。
傘を手に持ってんのに雨に打たれてずぶ濡れなゆかを見て「ばか!」と怒鳴った。
ばかばか、って、二人に言われなくたって分かってるよ、そんなの。服を脱がして柔らかいバスタオルで包んでくれるのっちに、ゆかは堪え切れずに泣いた。胸から溢れだす痛みは言葉となってのっちにぶつけられた。

「もうやだ、歌手なんて辞めてよ、のっちなんか嫌い、別れてよ、もうやってけない、無理だよもう、ゆか、好きな人が出来たんだから…ゆか、ゆか、」
「分かった」

のっちは強くゆかを抱き締める。

「辞めるよ、嫌なら辞める。かしゆかが我慢する事は何一つないよ」

「ばか!」

ゆかが、拒んだんだ。
また大好きな人に今にも消えちゃいそうな悲しい顔をさせてしまう。
もう、無理かもしれない。

「…そっか」

ギターを抱え、鍵を投げ付けのっちは部屋を出て行った。


最後に見たのっちの泣き顔は、

やっぱり綺麗で、儚かった。




19:END






最終更新:2010年01月19日 19:31