愛なんて信じなかった。恋なんてセックスのことだと思ってた。
恋愛にのめり込むタイプなんかじゃなかった。


『どうせ騙すつもりでいたなら死ぬまで騙してよ!この嘘がつけない嘘つき!』



[違う、違うよ]



ハッ、と目が覚める。外はまだ暗い。朝になれば嫌でも日の光が入ってくるこの部屋だ。まだまだ夜なことをわからせてくれる。のっちは枕元の携帯に手を伸ばす。デジタル時計は03:51と表示されていた。

…なんだ、まだ寝たばっかじゃん。

そう思いながらのっちは布団に潜り込んだ。寒くて冷たくなった足の先を擦り合わせるようにして、また眠ろうと目を閉じた。
閉じて気付いた。嫌な夢を見たこと。心臓にまとわりつくような罪悪感を払拭できないまま、気付けば2年も月日がたっていた。

…なにを、今更。

そう思って自分を正当化しようとしたが、そんなものは脆くも崩れ去った。
時間は残酷だ。時間が解決なんてしてくれなかった。それなのにどんどん進む。いまだに2年前の出来事を夢に見ては、のっちの胸は「痛い」と鳴いた。
眠れない身体を起こし、のっちは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しグビグビと飲んだ。冷たい水を身体に入れて、冷静になって早く忘れたかった。そんな都合のいいように人間は出来てないし、忘れる、なんて無理なことだと痛いほどにわかっていた。
まだ暗い部屋の中を見渡すと、昨夜かしゆかが届けてくれた手作りのケーキがテーブルの上にあった。“早めに食べてね”と添え書きしてあるそれを指でつまんで一口食べて、冷蔵庫にしまった。それはむせ返るほどに甘くて、のっちはまたミネラルウォーターをグビグビと飲んだ。
相変わらずのっちは何も言えないまま、かしゆかも何も言わないまま、二人は変わらない日々を過ごしていた。2年の月日がたつ前に…。そう思っていたが、あっという間に2年が過ぎた。結局のっちは、失うことの恐怖に勝てなかった。それに、単純にかしゆかの全てを愛してしまった。


『もう誰のことも好きにならないで』


2年前に聞いた言葉が鮮明に思い出される。
のっちの胸はまた「痛い」と鳴いた。





のっちには苦い記憶があった。それは人から見たらたいして苦くなんてないのだろうけど、のっちにとっては大変なことだった。なぜなら、それだけ想いが大きくて、のっちにとって苦痛の域に達してしまったからだ。今となってみれば、それほどの気持ちではなかったかもしれないが、当時は相当なダメージを受けた。夜な夜な呼び出され、小鳥のように鳥かごに閉じ込められ。のっちの心は確実に衰弱し、身体には傷痕が増えていった。酷い恋愛だった。
2年前、のっちには恋人がいた。それは恋人と言うにはあまりにも一方的のような気もするけど、拒否できるほど強くなければ、大人でもなかった。だから、確かに二人は恋人だった。だけど、案外あっさり気持ちは揺らいだ。単純なことだ。かしゆかに出会ってしまったからだ。
一度に多くのことを考えられるタイプじゃない。うまくやれるタイプでもない。嘘も得意じゃない。だけどのっちが選んだのは、傷つけないための嘘。それが一番傷つくのを、のっちはわかっていなかった。そもそも、その嘘は誰を傷つけないためだったのだろうか。




「死ね!顔も見たくない!」


腫れた左頬の痛みに耐えながらのっちは謝った。「ごめん、ごめんね」と必死で謝った。
だけど返ってきた言葉に、のっちはハッとして謝ることができなくなった。


「なにがごめんなん?戻ってくるなら許してあげる。そうじゃないなら謝んな!」


目の前で泣きじゃくる恋人の肩を抱くことも、涙を拭ってあげることもできなかった。
のっちが黙ったのを見て、目の前の恋人はもう一度右手を上げた。だけどのっちの左頬が痛むことはなかった。


「かしゆかが羨ましいよ。こんなにのっちに想われて」


変わりに胸が痛んだ。
だけどのっちはその胸で、かしゆかを強く想っていた。こんな別れの場面でさえ、切に想うのはかしゆかだった。戻る気など、一切なかった。
結局その嘘は、自分を守るための嘘で、恋人のためではなかった。かしゆかを傷つけないための嘘で、恋人のためではなかった。のっちは最低だ。でも、それでものっちは、そうまでしてかしゆかを手に入れたかった。恋人に嫌われて罵られて、例え陰口を言われて周りに言い触らされようが、そんなのどうでもよくて。ただ、かしゆかだけが欲しかった。





昔の苦い記憶を思い出して、のっちは小さく笑った。呆れるように、自分自身を嘲笑うかのように。こんな夜中に、あんな夢を見て、そんで胸が痛いくらいに虚しくなった。
あれだけ人を傷つけたのに、あれだけ多くの苦しみの中にいたのに、どうしてまた人を好きになってしまったんだろう。単純だ。それがかしゆかだったから。単純すぎるその答えに、のっちはまた笑った。


藻掻いて藻掻いて苦しんでいるのっちを救い出してくれたのはかしゆかだ。“ありきたりで幸せな恋愛”が、どうした。そんなことに臆病になってる場合じゃないのに。だけど、どうやったってその不安は消せないでいる。かしゆかは、それでよかったのか、と。
結局は愛情表現だった昔の恋人のことも、のっちは嫌いになれなかった。それどころか許してしまった。ただ行き過ぎただけなんだ、仕方のないことなんだ、と。愛は狂気。そんな言葉があるくらいだ。不安でしょうがなかった。


ミネラルウォーターを馬鹿みたいにグビグビ飲んで、眠れないベッドの上に座って部屋を眺めた。この部屋には2年の間に増えたかしゆかの私物や、二人で買った思い出の品物、邪魔者扱いされる漫画にギター、買いすぎだよと怒られる洋服。全部それらからかしゆかを思い出すものばかりが散らばっていた。部屋には2年の間に昔の恋人がいた形跡など跡形もなく消えたのに、いつまでたっても胸の中からは消えてくれない。心臓にまとわりつくような罪悪感は、一生消えないのだろうか。
のっちはひとつため息をついた。







「馬鹿!死ね!浮気者!」
「違う、」
「違くねーよ!」
「ごめん、そうじゃない」


最後の最後まで思いやってあげられなかった。確かに馬鹿だし、死ねばよかった。だけど浮気、じゃなかった。浮気で済めば、こんなことにはならなかった。


「ごめん、のっち本気になった」


散々罵倒していた恋人は泣き崩れて、その腕をのっちに伸ばした。恐る恐る触れてみると予想に反して、恋人は優しい温度でのっちを抱いた。


「    」





最後のあの時、結局のっちはその長い腕で恋人を抱き締め返すことはできなかった。かしゆかに出会ってなかったら、あんなふうにはならなかったのだろうか。…違う。そうじゃない。早いか遅いかの違いだ。あの頃の二人には未来なんてなかった。気付いたのは、早いか遅いかの違いだ。
最後のあの時、泣きながら抱き締められたあの時、あいつはなんて言ったっけ?ミネラルウォーターを飲みながら記憶を辿る。答え合わせはすぐにできた。


「傷つけてばっかで、ごめん。大好きだった」


ミネラルウォーターを飲み過ぎたのだろう。きっと身体の中の水分量は決められてるのだろう。
眠れないベッドの上。のっちは静かに泣いた。流した涙は無情にも熱かった。






昔の記憶をそっと胸にしまうようにして拭った涙。一体誰を想って泣いたのだろうか。いや、きっとかしゆかだろう。思い出すことすら、いけないこと、のような気がした。2年前に別れた恋人と、2年続いたかしゆかとでは、距離も温度も違っていた。あの時みたいに好きの反対が増えることは2年たっても一向になかった。
あの時、想われることの恐怖から救ってくれたのはかしゆかだ。まったく違う温度で愛してくれたのも、近すぎない距離も、のっちには心地よかった。
ただ、2年の月日がたって未来を考えるようになった。そんな時のっちはたまらなく不安になってしまう。のっちとかしゆかの、向かう先が違っていたらどうしよう、と。2年の間にのっちは寄り掛かることを覚えすぎてしまった。自分にとって都合のいい温度、距離、だったのじゃないだろうか、と。かしゆかは、どう思うのだろうか。不安は募るのに、口に出せないのっちは臆病者以外の何者でもなかった。


デジタル時計の表示は04:12に変わっていた。のっちは布団に潜り込んだ。

…明日、かしゆかに会いにいこう。ちゃんと、話してみよう。

冷たくなった足の先を擦り合わせて、のっちは目を閉じた。
昔の恋人が瞼の裏で笑った。“馬鹿じゃないの?あたしのこと振っておいて、なにやってんの!”まるでそう言っているみたいに、小さく笑った。“頑張りなさいよ!”と、かつての恋人が言った気がした。




…違う、違うよ。

のっちはきつく目を閉じた。騙すつもりなんかなかった。ちゃんと好きだった。だけど、ごめん。かしゆかは、違った。かしゆかとは、違った。
“もう誰のことも好きにならないで”と言われた。その約束はすぐに破った。守る気もなかったし、約束したつもりもなかった。あの時すでに、のっちはかしゆかが好きだった。


「ゆかが守ってあげる」


2年前のその時。傷ついた身体も心も、その強くて真っすぐな人は全部全部、受けとめてくれた。ゆかを頼ればいい、ゆかは味方だよ、と。当時ののっちを泣きたくなるほどに優しく包み込んだ。


「やっぱかしゆかは、違うよ」


呟いた言葉にのっちは決心した。いや、心なんてとっくの昔から決まっていたのかもしれない。


愛なんて信じなかった。恋なんてセックスのことだと思ってた。
恋愛にのめり込むタイプなんかじゃなかった。
だけど、かしゆかだけは、違ったんだ。




end






最終更新:2010年02月06日 20:01