お昼を知らせるチャイムが教室内に響いた途端、のっちは机の上に開かれただけで活躍することのなかった教科書とノートを机の端にまとめてから席を立った。お弁当とミュージックプレイヤーが入っただけの軽いリュックサックを背負って、足早に教室を出た。


「すいませ、」


教室から出ると、女の子とぶつかりそうになる。のっちは、女の子の顔を見ずにとりあえず謝った。すると、


「のっち、」


振り向かずに駆け出そうとしたのっちの足を、静止させたその声は、愛しい、あの声。立ち止まらずにはいられなくなったのっちは、恐る恐る振り返った。


「…あ〜ちゃん。」


のっちとあ〜ちゃんが会ったのは、一緒に帰ってあ〜ちゃんの家の前でバイバイをした、あの日以来だった。メールでの連絡のやり取りは、互いに素っ気無さを感じられるが、相手が生きていることを確認出来る程度には、していた。のっちは言葉が出なかった。


「…もう、元気になった…?」


先に口を開いたのは、あ〜ちゃんだった。のっちは、慌てて「うん、」とだけ返事をした。いろんな言葉が喉に突っかかっているのに、そこから先へは出てこない、のっちの気持ち。


「ならよかった…。」


あ〜ちゃんは、心の突っかかりが取れたかのように、深く息を吐いた。のっちは、あ〜ちゃんが自分のことを気遣ってくれたのに、と自分自身を責めた。情けなくて、眉を垂らしながらも、ごめんね、いろんな気持ちを抱えながら、あ〜ちゃんの身体へと手を伸ばした。


「綾香? 終わった?」


低くて、太い声がした。のっちは、伸ばしかけた自らの手を慌てて引っ込めて、背後から聞こえた声の主の姿を確認した。松本だった。


「あ、うん。」


のっちをちらりと見て、申し訳なさそうに返事をするあ〜ちゃんの元に松本が寄り添う。のっちの隣をスッと通り過ぎて、当たり前のようにあ〜ちゃんの隣へ並ぶ。


「もしかして、のっち?」


のっちのことを視界に入れた松本は、馴れ馴れしくのっちを呼んだ。沸々と湧き上がる何かが、のっちを狂わしそうになる。それを震えながらも、握り締めた拳で制御する。何も言わず、のっちは松本の問いに、こくりと頷いた。


「綾香から、話、聞いてるよ。のっち、可愛いし本当にいい子なんだよ、って。」
「ちょっと、松本くん恥ずかしいけえ。」


見つめ合った2人は、楽しそうに笑いあった。あ〜ちゃんがせっかくのっちのことを褒めてくれているのに、それを聞いたのがあ〜ちゃんの彼氏からだなんて、嬉しくなかった。


「…じゃあ、のっちもう行くから。」
「あ、のっち!」
「…ん。」
「来週にでも、ご飯食べにいこ?」


振り向き際に、少しだけ頭をこくりと動かして返事をしたのっちは、2人の前から立ち去った。






あ〜ちゃんと松本と別れたあとに、携帯電話を確認すると、案の定ゆかからの着信とメールが入っていた。
『もう、ご飯食べるよっ!』
怒りの絵文字付きで送られてきた、それを確認すると、のっちは駆け足で保健室に向かった。ゆかのお昼休みのリズムは決まっていた。保健の先生が出張の日は、保健室で過ごして、あとはいつもの人気の少ない裏庭。朝にもらったメールには、『今日の集合場所は保健室!』と書いてあった。


がらりと、保健室のドアを開けると、ベッドに腰掛け、腕を組み、待ちくたびれた、と喚くゆかがいた。急いでドアを閉めて、ゆかの隣に座ると、のっちは「ごめんごめん、お腹減ったなあー。」とリュックサックから急いで弁当箱を取り出した。すると、ゆかがのっちの弁当をひょいっと奪った。


「何で遅れたか理由言わんと、お弁当はあげん。」
「ゆかちゃん!」
「悪いことしたら、お仕置きじゃろ。」


のっちの弁当箱を取り上げたまま、頬を膨らまして理由を尋ねるゆかにのっちはため息を漏らす。空腹には勝てないのっちが、口を開いた。


「…あ〜ちゃんが教室に来たんよ。」
「あ〜ちゃんが?」
「うん、彼氏と一緒に。ウザイよねー。見せびらかしにきたのかっつーの。」


ハハハハ、と大声で豪快にのっちは笑ってみせた。ゆかも一緒に笑い流してくれると願って。しかし、ゆかからは何の声も聞こえなかった。のっちは、笑うのを止めてゆかを見た。ゆかは、真っ直ぐのっちを見ていた。


「…本当にのっちは可哀想。」
「でしょー?」
「ゆかは、本気でいっとるんよ?」
「…わかってるよ!」


のっちが声を荒げる。その声に驚いたゆかは、身体をビクつかせた。


「でもどうすればいいの? あ〜ちゃんは、松本と付き合ってるんだよ? ゆかちゃんに何がわかんの? ゆかちゃん、のっちに何かしてくれるの? ゆかちゃんにはわかんないよ、」
「わかるよ。」


震えるのっちの身体をゆかは抱きしめて、のっちの叫びを遮るかのように耳元で言った。


「わかるんよ、のっち。」
「なんで…。」
「それは教えれん。」
「なんでよぉ、ゆかちゃん、いっつも…。」


抱きしめられた身体は、のっちを安心させるのに十分な温度だった。ゆかは、それ以上何も答えなかった。のっちが落ち着いたことを確認してから、ゆっくりと腕を解く。


「…ありがと、ゆかちゃん。」


ゆかにお礼を告げながら、のっちは薄っすら涙の滲んだ目尻を擦った。


「ねえ、ゆかに何かしてほしいことある?」
「え?」
「さっきいよったじゃろ。」
「えー、冗談だよ。」
「何でもするよ、ゆか。のっちの為なら。」


いつもの小悪魔的要素たっぷりで、のっちに意地悪ばかりするゆかの、この堅実な対応にのっちは驚いた。ゆかの反応が面白くなってきたのっちは、控えめに聞いた。


「…例えば?」
「んー、あ〜ちゃんの代わり、とか?」


それは、以前ゆかがのっちに言った言葉とすごく似ていた。


——ゆかが、あ〜ちゃんになってあげよっか?


「…どういうこと?」
「のっちとあ〜ちゃんは、いっつも一緒にいたでしょ? だからゆかが一緒にいてあげる。」
「そんなん、今も一緒におる、」


のっちが戸惑っていると、ゆかはのっちの耳元に唇をぴたりとくっつけた。熱っぽい息が、耳にかかってのっちは逃げようともがくが、ゆかの腕がしっかりとそれを制した。


「寂しくなったら、ちゅーも、えっちもしてあげるんよ。」


一瞬にして、かあっと赤らんだ顔が、ゆかを見た。普段通り変わらず、にこりと微笑んだゆかは、何事もなかったかのように弁当を食べ始めた。


暖房で温もりきった保健室内が、また、体温をあげた。








最終更新:2010年02月06日 20:49