のっちは、電車を駆け下りて、人混みを掻き分けながらホームを走った。左手をちらりと見て時刻を確認すると、約束の時間よりも10分過ぎていた。急激な朝の冷え込みに、布団から抜け出るのにもたついたことが、遅刻の原因だろう。きっと律儀な彼女のことだから、もう来ているだろうな、と思いながら、のっちは待ち合わせ場所である、駅前の広場の時計台の前へと急いだ。


時計台の前には、少しふんわりしたワンピースに、小ぶりの手提げ鞄を両手で持っている、黒髪の毛先に緩くパーマのかかった女の子がいた。遠目からでもすぐに、あ〜ちゃんだとわかった。
走ってくるのっちの姿に気付いたあ〜ちゃんが、遅刻してきたのっちに、いーっと歯を出してきた。それでものっちが着いた途端に、「ごめんなさい!」と深々と頭を下げると、「気にしてないけえ。」と行って頭を撫でてくれた。下げた頭に触れたあ〜ちゃんの掌は、こんなに寒い日でも暖かい。


「どこ行く?」
「あ〜ちゃんお腹空いたけえ、何か食べたい。」
「じゃあ、パスタでも食べにいこっかー。」


並んで歩き出すと、あ〜ちゃんの髪の毛が揺れて、その拍子にあ〜ちゃんがいつも使っているシャンプーの香りがのっちの鼻を擽った。久しぶりのその香りに、のっちは懐かしく思い目を細めた。


暫く歩いていると、洒落た生パスタのお店へ入った。のっちは以前から店の前を通る度に、あ〜ちゃんと来たいな、と思っていた。ドアを開けると、からんからんと、入店を知らせるベルの音が鳴り、白いシャツに黒のエプロンをつけた、黒髪ポニーテールの似合う、きれいな若い女性店員が奥から出てきて、「2名様ですか?」と尋ねた。のっちが「はい。」と返事をすると、その店員は、「どうぞ。」とにこりと微笑みながら席へ案内してくれた。
案内されたテーブル席へ、のっちとあ〜ちゃんが向かい合って座ると、女性店員が、本日のおすすめの説明をした。説明を一通り聞き終えた後、のっちはカルボナーラ、あ〜ちゃんはミートソースの定番メニューを注文した。女性店員がオーダーを紙に書いて、厨房へ戻ると、あ〜ちゃんはにこにこして嬉しそうに笑う。


「のっちとご飯食べるの久しぶりじゃね。」
「そうだね。」


今日は、土曜日。いつも昼休み、放課後は一緒に過ごしていた2人だが、あ〜ちゃんに彼氏が出来てからというもの、その時間はゼロに減ってしまった。休日に会うことも、なくなってしまった2人だけに今日のこの時間は、本当に貴重である。


「のっちとは、ずっとあ〜ちゃんは友達でいたいとおもっとるけえ…。」
「…うん。」
「よろしくね。」
「…こちらこそ。」


伏せ目がちに告げられた、あ〜ちゃんの想いにのっちは静かに頷いた。


「…あ、ブレスレット!」


いきなりあ〜ちゃんは、目をキラキラさせてのっちの手首を見た。時計に重なるようにつけているものは、あ〜ちゃんから貰ったブレスレットだった。のっちは照れ笑いを浮かべながら、あ〜ちゃんに見やすいように顔の横にブレスレットをもってくる。


「つけてくれとったんじゃ!」
「当たり前よー、あ〜ちゃんにもらったし。」
「ほらー、あ〜ちゃんもつけとるんよー。」
「ほんとだ! おそろだね!」




あ〜ちゃんも同じく自分の腕についているブレスレットを見せてきて、のっちは素直に喜んだ。と、同時にのっちはあ〜ちゃんの指先を確認して、何もついていないことにほっと胸を撫で下ろす。
2人共が嬉しげにブレスレットを見ていると、先ほどの女性店員が両手に注文の品を持ってきたので慌てて腕を引っ込めた。


「うわー、美味しそう!」


テーブルに置かれた料理を目の前に、あ〜ちゃんが歓喜の声を出した。のっちは嬉しそうに頬を弛ませてあ〜ちゃんを見ていた。


パスタを頬張っていると、あ〜ちゃんが「あのね…。」と控えめに話を切り出した。


「のっち、また、一緒にお昼食べん…?」


突然の言葉に驚いたのっちは、パスタを食べようとした手を止めてあ〜ちゃんの顔を見た。


「あ、あんね? ずっと一緒に食べてたけえ、なんか、今更一緒にご飯食べんなるんも、変じゃけえ…一緒に食べん?」


あ〜ちゃんは、恐る恐る、一生懸命言葉を選びながらのっちに伝えていた。その姿がのっちには、とても可愛く映って、素直にその言葉に喜んだ。あ〜ちゃんとまた、一緒に屋上でご飯が食べれる、誰もいない、2人だけの空間、のっちにとっては宝物のような時間をまた、


「のっちも、…!」


“一緒にご飯食べたい”
その言葉は、のっちの脳裏に浮かんだ、“あ〜ちゃんと松本が楽しそうに笑いあう姿”によって、消えた。きゅっと堅く結んだ唇が、どうしてもその言葉を発することを、許してはくれなかった。


「…あ〜ちゃんは、彼氏と食べたほうがいいよ。」
「何でよ、あ〜ちゃんはのっちと食べたいんよ?」
「彼氏が、悲しむけえ…」
「松本くんとは、お昼休み一緒に過ごさんでも大丈夫よ、松本くんだって、あ〜ちゃんと付き合う前は友達と食べてたわけじゃし、」
「ごめん!」


あ〜ちゃんの言葉を遮った、のっちの『ごめん!』は、あ〜ちゃんの心を痛めた。


「のっち…?」


控えめに名を呼ぶあ〜ちゃんが、のっちは堪らなく愛しい。


「ごめん、のっち、ゆかちゃんと食べるから…。」


のっちの口から、誰か他の名が出てくると思わなかったあ〜ちゃんは、言葉に詰まった。


「ゆかちゃん…?」
「ほら、こないだあ〜ちゃんも会ったじゃん、ストレートヘアの美人な子。のっち、友達になったんよ。」
「そう、なんじゃ…。」
「ゆかちゃんがいるから、のっちは寂しくないよ、あ〜ちゃん、松本くんと過ごして?」


のっちにとって、作り笑顔になんてお手の物だった。
あ〜ちゃんに作り笑顔をしたのは、出会って間もない頃だった。何でこの子はこんなにも自分に構うのだろうか、鬱陶しささえ感じていたあの頃は、もう遠い記憶だった。

いつ、好きになってしまったのだろうか。
その頃は、あ〜ちゃんに彼氏が出来ることなど全く予想していなかった。いつも隣にいることが、当たり前だと思っていた。

傍にいてくれるのなら、一生片想いでいいと思ったのはいつだろうか。
だれものっちからあ〜ちゃんを奪っていかないのだと、心のどこかで思い込んでいた。


暫く黙り込んでいたあ〜ちゃんが悲しげな表情をして、喋り出す。その眼には、薄っすら潤んでいるようにも見えた。のっちは、それを気付かないフリをした。


「…わかった。でも、また誘うから、そのときは一緒に食べてくれる?」
「うん。いつでも誘ってね。」
「ありがとう。」


天使のような笑顔が、のっちに向けられた。





「あー、美味しかったねえー。」


パスタを食べ終わった2人は、身を小さくしながら店を後にした。ぬくぬくと暖房の効いた店内から出ると、一層肌を刺すような冷え切った風が身にしみる。こんな寒い日は、どちらともなく身を寄せて歩いた。


「あ〜ちゃん、寒くない?」
「のっちこそ。」
「のっちは大丈夫だよー。」
「本当に?」
「のっちは風邪引いてもいいけど、あ〜ちゃんに風邪引かれたら困るし。」
「何でよ?」
「だって、あ〜ちゃんは成績優秀だから休んだら学業に支障が出るじゃん? のっちはそれがないし! それにのっちと出歩いて風邪引いたら、松本くんにのっち殺されちゃうからあー。」
「のっちは、心配しすぎじゃ。」
「へへへ。」


笑う際に吐く吐息が、白いことに気付いた。


「あ〜ちゃん、息が白いよ!」


のっちが眼を大きくして言うと、あ〜ちゃんが、「ほんとじゃねー。」とにこにこしながら答える。何気ない、どうでもいい会話に笑える。楽しい。それは中学時代の、出会った頃の2人のようだった。







最終更新:2010年02月06日 20:56