境目が存在するのなら、それを壊したのは誰なのだろうか。


もしもそういった壁が存在したのなら、それはかしゆかには全く見えなかった。初めてあ〜ちゃんがかしゆかの家に泊まりに来たあの日を境に、あ〜ちゃんはよくかしゆかの家へ仕事終わりに立ち寄るようになった。のっちと3人で仕事を終えた後、2人と別れて家へ帰路を辿っているとポケットに入れていた携帯電話が震えた。
『ゆかちゃんち、行ってもかまん?』
断る理由のないかしゆかは、すぐに返事を返す。


日に日に回数が増えて、1週間に何日もかしゆかの家へ立ち寄るようになったあ〜ちゃんは、いつも何をするわけでもなく、かしゆかの家でのんびり過ごす。泊まっていく日もあれば、終電が近づくと帰る日もある。ひとりぼっちだったかしゆかの夜は、少しだけ、暖かくなった。


「ねー、ゆかちゃん?」
「ん?」
「呼んだだけ。」


にかっとえくぼを見せて笑うあ〜ちゃんに、かしゆかの胸は、とくん、と小さく跳ねた。あ〜ちゃんのことを、好きだ、可愛い、というのっちに対し、その感情自体がよくわからないでいたかしゆかが、目の前のあ〜ちゃんに胸を躍らせている。かしゆかは、自身の変化に驚くばかりだった。


「呼んだだけなん?」
「そう。」
「そっか。」


2人、ソファーに並んでつまらない深夜番組を見ていた。かしゆかもあ〜ちゃんもそれを耳に入れる気は全くない。ほど良い距離感で、落ち着かせる為のBGMとでも言える下品なトーク。


「嘘だよ。」
「へ?」


かしゆかは、間抜けな声をあげてあ〜ちゃんを見た。絡んだ視線に、ギュッと胸が締め付けられた気がした。あ〜ちゃんの唇が、あの日と同じようにぷっくりしている。半開きになったそれが、かしゆかを誘うかのように。


「嘘じゃけえ。」
「なん…?」
「あ〜ちゃんは、ゆかちゃんが可愛くて仕方ない。」


あ〜ちゃんの白くて綺麗な指先が、かしゆかの頬に触れる。絡まった視線が解けることはない、かしゆかは金縛りにあったかのように、小動物のような目をしながらも、責め立てる瞳から逸らすことが出来なかった。あ〜ちゃんは、そっとかしゆかの太股の上に跨った。身動きが出来ないでいるかしゆかの髪に手櫛を通す。


「あ、あやちゃ…。」
「ゆかちゃん、可愛いよ。」



あ〜ちゃんの方が可愛いよ、この状況から逃れたくて咄嗟に浮かんだその言葉は、かしゆかの口から発されることはなかった。息を吐こうとした瞬間に、咥内に広がったのは、あ〜ちゃんの息。
押し付けられるようなキスをかしゆかは、ただ受けた。


「んっ…、!」
「かわいい、」


こんなはずじゃなかった、
かしゆかは、思った。思うだけで、行動には移せないし、移そうともしない。こうなることをいちばんに望んでいたのは、かしゆかだったのかもしれない。


熱っぽい吐息が咥内に広がって、何度も何度も吸い付くように、あ〜ちゃんはキスを求めた。満更でもないかしゆかだったが、それを受けるだけで自分から求めはしなかった。
唇は、離れる。口の周りを唾液で濡らして、呼吸を整えるかしゆかを、あ〜ちゃんは怪訝そうに見た。


「なんでなん?」
「え…?」
「何で、ゆかちゃんもあ〜ちゃんのこと求めてくれんのよ。」
「えっと…あ〜ちゃん?」
「わからん?」
「何が…?」


強気なあ〜ちゃんは、かしゆかの太股に跨ったまま、かしゆかの肩に両手をついて見下ろしながら言った。


「ゆかちゃんが好き。」


かしゆかが反応を示す間もなく、キスは降ってくる。かしゆかは、少しだけ口を自分から開いた。


「あやちゃ、」
「ゆかちゃん、」
「なんっ」
「かわい。」
「ど、う、して」
「好きだから。」
「んっ」
「ゆかちゃんが、好き。」


キスがしたいと願っていた唇が、今、間髪なく求めているのは、紛れもない、かしゆかの唇。
降ってくる吐息も、零れる唾液も、熱っぽくかしゆかを呼ぶ声も、かしゆかのものに違いなかった。


「ゆかはぁっ、」


単純に、キスがしたくなったらする。
求めたかったら求める。
欲望のままに生きたって誰も文句は言わないのではないか、と、かしゆかは酸素足らずのぼんやりとした思考で思った。




善いやつは貧しくても幸せになれるから、
世の中不公平でも、お前が心配するほど悪くはない。


誰かが言っていた言葉。

救われた気がした。
でも現実はそんなに簡単じゃなくて。


「あ〜ちゃん綺麗だったね。」
そう言って君は笑う。

心底嬉しそうな顔してなに言ってるの。
あんたあ〜ちゃんのこと好きだったでしょ。

ゆかが不満げな顔をしたから のっちは眉を八の字にした。

「のっちは何もしてあげられないから。
あ〜ちゃんが幸せならそれでいいんだ。
皆が笑ってれば のっちもなんとなく幸せになれるから。」

だからいいんだって、
そう言って声を詰まらせていたのは結婚が決まった日だったかな。

そうだね。
いっそ世界中の人が幸せになれればいいのにね。

でもね、のっち。
人ってそれが日常になって平凡に埋もれれば、
そこから新しい痛みを見つけて苦しむものなんだよ。

だから

「…ゆかちゃん、泣かんで」

そう言われて自分が泣いていることに気が付いた。
頬に伝う涙を拭ってくれる のっちの手は優しい。

人一倍臆病なこの子は、人の幸せに自分が入りこむことを恐れてる。
一度得た温もりを失う痛みは、堪え難いものだって知ってるから。

傷付きたくないから 大好きな人の幸せも誰かに委ねて、良かったねって笑っていたいんだ。
でも そんなのってずるいよ。


だけどね、そんなゆかが願うのもたった一人。
君だけの幸せ。

誰かの好きに包まれて、だらしなく笑ってる のっちの顔がみたいんだ。
いつかそんな日がくればいいなってずっと願ってる。

好きだよ のっち。

でもこの想いは伝えない。 私も大概ずるいかな。







最終更新:2010年05月17日 20:32