のっちが室内の微かな音に気がついて目を覚ますと、ゆかがキッチンに立っているのがぼんやりと確認出来た。コンタクトを外した裸眼では、ぼんやりとしか確認出来ないゆかの姿が、のっちには儚げに思えた。
朝食を済まし、身支度を整え、2人でゆかの部屋を出る。そしてのっちの愛車である、真っ黒の自転車にのっちが跨ると、当たり前のようにゆかはうしろに乗った。のっちの腹部に腕を回して、背中に身体を預けるように密着させても、のっちは何も言わなかった。
「ねえー、のっち。」
先ほどから、何ものっちは言葉を発していない。暫く様子を窺っていたゆかだが、痺れを切らしてその背中に話しかけた。応答はない。のっちは無言で自転車を漕ぎ続ける。
「……昨日、嫌じゃった…?」
ぴたりとくっついた身体から、聞こえた声はのっちがまだ知らない弱いゆかだった。その声を聞いたのっちは、何だか罰が悪くなって、「嫌じゃなかった。」と小さく答えた。
「ただ、恥ずかしかっただけ。」
「ほんと?」
「本当。」
「ゆかのこと嫌いになってない?」
「ならないよ。」
「何で?」
「わかんない。ゆかちゃんのことが好きだから?」
「そっか。」
会話が終わり、再び無言のまま自転車は進む。この大通りを進んでいけば、2人の通う高校へと着く。ちらほら、同じ制服を身に纏った学生を見かけるようになった。
すると、のっちの視界に、とあるカップルが入った。あ〜ちゃんと、松本だった。のっちは気付いた、2人の手が繋がっていることを。うしろに乗っているゆかに、それを悟られないように、あ〜ちゃんに、うしろにゆかを乗せていることが気付かれないように、のっちはペダルを踏む足を強めた。急に早まった速度に、思わずゆかはのっちの後頭部を見た。不思議に思って、のっちの身体で見えなかった前方をちらりと身体を覗かせて確認する。ゆかが身体を少し乗り出したとき、ちょうど、あ〜ちゃんと松本の横を、のっちとゆかの乗る自転車が追い抜いていった。そのとき、ゆかの視線は、確かにあ〜ちゃんと交わった。通り過ぎたあとも、2人の表情は、何とも言えない表情をしていた。松本が、あ〜ちゃんに「聞いてる?」と尋ねて、やっとあ〜ちゃんの視線はゆかから離れた。
「のっち。」
「ん?」
「もっと自転車丁寧に漕ぎんさいよ。速い!」
「あー…ごめんごめん。」
のっちは、平謝りをした。ゆかは、それに気付いていながら何も触れなかった。
自転車置場に着いたところで、やっとゆかは自転車のうしろから降りる。乱れたスカートの折目を整えて「ありがと。」とにこりとお礼を言った。
「今日、どうするん?」
「ご飯一緒に食べるよ。」
「そうじゃなくて、夜。」
てっきり昼休みのことだと思い込んでいたのっちは、目を丸くしてゆかを見た。
「ゆかんち来るん? 帰るん?」
「あー…。」
「どっちなん?」
「…いこっかな。」
のっちが間を置いて返事をすると、ゆかは口元を弛ませながら「じゃあ帰りにスーパー寄ってね。」とだけ告げて、スタスタと自分だけ先に教室に向かった。そんなゆかのあとを、慌てて愛車に鍵をかけて追いかけて行く姿は、まるで飼い犬のようだった。
一人暮らしをしているせいか、ゆかは料理が上手かった。家では家事など一切しないのっちは、横でゆかが今晩のおかずであるハンバーグを捏ねるのを「すげー!」と歓喜の声をあげながら眺めていた。合わさった具を、今度はのっちも一緒になって形を整えながら楕円状に作っていく。フライパンが熱されたところで、ハンバーグをフライパンへ投入すれば、じゅわあ、という肉汁が溢れる音がした。
焼きあがったハンバーグを2枚の皿に綺麗に並べていく。付け合せの野菜は、ゆかの皿には乗っていなかった。のっちは、ゆかが野菜嫌いであることを知った。
2人で精を出して作ったハンバーグは、最近食べたどの食事よりも美味しく感じた。綺麗に平らげたところで、珍しくゆかの携帯電話が鳴った。
のっちの視線は、自然と鳴り続ける携帯電話へと向けられる。それを遮るかのように、テーブルに置いていた携帯電話をゆかは素早く手に取った。「ごめん、ちょっと。」それだけ告げるとゆかは、携帯電話片手にベランダへと出て行った。
ゆかが、このような行動をとったのは初めてのことだった。のっちは、ゆかのまわりにヒトを見たことがなかった。お昼休みは勿論、帰りも、のっちが見てきたゆかはいつもひとりだった。携帯電話が鳴ったのも、初めて聞いた。のっちは、一口食べては箸を休めながらゆかの帰りを待った。
「ごめん、食べててよかったのに。」
電話を終えたゆかが室内へ戻ってくると、先ほどから減っていない料理を見て言った。
「ゆかちゃんと食べたかったんだもん。」
「どしたん? 今日、可愛いよ。」
優しく微笑んで、円らな瞳を三日月型に曲げたゆかは、席に着いた。
電話の相手が、気になってたまらないのっちは、ちらちらとゆかの表情を窺う。そんな心情では、箸も進むはずがない。
「どうしたんよ? さっきから落ち着きないけど。」
「えっ。」
「電話がそんなに気になるん?」
のっちは図星だった。図星過ぎて、開いた口が塞がらなかった。間抜けな顔をしているのっちを見たゆかは、くすりと笑った。
「う、うん。」
ゆかの視線に圧倒されたのっちは、思わず口を縦に振った。「んー。」と顎に手を添えて考え込んだゆかは、漸く口を開いた。
「やっぱ教えん。」
「なんでなんー!」
「何でも。」
「ゆかちゃんのばかー。」
「じゃあもう家入れてあげん。」
のっちは笑っていた。ゆかと笑いあうことで、あ〜ちゃんを忘れようとしていた。そういった努力は、確実にのっちを孤独から救っていく。
「ゆかちゃーん。」
「んー?」
「やっぱりだめ?」
「だぁーめ。」
2人のけらけらした高校生らしい笑い声が、部屋に響いた。
最終更新:2010年05月17日 20:36