嘘。
そうでしょう?
嘘だ。
『想像できない』、なんて。
嘘。
かしゆかは嘘ついてる。
どうしてそう思う?
だって、
だって意識してたじゃん。
つい1週間前まで、お互いに。
そして、今日も。
「別に、あってもいいと思う」
抑えきれなくて、時計のガラスを割ってしまった。
砂が、黒い砂が、体の中心から流れ出てくる。
私は自分の発言に自分で少しだけ驚いたが、それと同時に口にした途端、『あぁ、そっか』と妙に納得した。
やっぱり、やっぱりそう思っていたから。自分とかしゆかの関係が重なる、重なりたいと思っていたからあの本を貸したんだ。
いつからだろうか。わからない。
ただわかるのは、あのライブで自分の心臓が暴れて狼狽した理由が、あの本で全身がざわついて気持ち悪くなった理由が、全てこの気持ちにあるということ。
そう自覚してしまうと、私は過剰な自信を持って、かしゆかに迫っていた。ようやく自分の位置が、形が、はっきりしたから。
「普通じゃないよ。なんで最近、私のこと避けてるの? なのになんで今日、わざわざ家に来たりしたの?」
「変だよ、すごく。…ね、なんであり得ないの? かしゆかはほんとに想像できない?」
「私ね、よくわかんないんだけど、最近かしゆかに近づきたくて、触れたくて掴みたくて、どうしようもない」
ほら、言った。言ってしまった。頭を回して、薄っぺらな防壁を壊して視線を奪って、引き止めて。
「!!や、 な、なに言い出すん!? 」
中の感情に外の表情が追いついていないかしゆかが、生の、膜に包まれていない生のかしゆかで。
もっと見たくて、見せてほしくて、私は体ごとかしゆかに向き直った。私たちの間には、邪魔するものは何もない。
何もないから、かしゆかの体や心の微細な動きが、スローモーションのようにわかる。
忙しく動く瞳とか、瞬き繰り返す睫毛とか、左手を握りっぱなしの右手とか。どう見てもかしゆかが、ただ驚いているだけとは思えない。
…変なの。ついさっきまでは何を考えているかわからなかったのに。わからなくて歯がゆい思いをしていたのに。
自分の軸が明らかになった途端、こうも冷静になれるなんて。
やっぱり、最初から考えすぎなければよかった。
思うままに、自由に。
考えすぎる私は、らしくないから。
やっと理性で整理した表情を作り上げたつもりのかしゆかが、私と目を合わせて口を開いた。
「……も、もー、のっちったらあの漫画に影響されちゃって」
その言葉は誤摩化しで、その顔は苦笑いっていうんだよ。
「そんなんじゃない。かしゆかは、どうなの?」「ゆかは、別になんともな」
「嘘。じゃあなんでこんな、こんな、」
私は間抜けなタイミングで口を半開きにしたまま、かしゆかを見つめた。肝心な時に言葉が出てこない。せっかくいいペースで進んでいたのに。
…そう、進んでいたけれど、どこに? どこに向かって進みたいのだろう。
砂時計のように私の底に静かに溜まっていた黒い砂。流れ出てきた砂は、どこに行く?この黒い砂は、何?
何でもいい。感じるままに、自由に。
かしゆかの頬が淡い桃色に染まっているように感じるのは、恐らく私の願望も影響している。
部屋が静かすぎるから、耳を澄ませば大好きな吐息さえ聞こえそうだけれど、生憎と耳元で心臓の拍動がうるさく邪魔をしている。
体の中で騒がしい砂を一旦落ち着かせるために、私は改めてかしゆかを観察した。
Vネックの薄手の白いTシャツ、胸元から見える黒いレースのキャミソール、かしゆかにしては珍しい気がするフリルの花柄ミニスカート。
メイクはプライベート仕様の薄めで、そのせいか艶のある唇がやけに目立っている。お盆休み前までしばらくの間、私の注意を引き寄せ続けていた、唇。
私が出てこなかった言葉を追いかけずに魅入っていたら、眼前の唇が躊躇いながら動き出した。
「…のっちはゆかのこと、好きなの?」「うん、もちろん」
その問いは明らかに友達同士の意味ではなかったけれど、かしゆかを引き出すためにわざと気づかない振りをして常識通りに答えた。
私は今、生まれて初めて本気で人に意地悪をしているかもしれない。あるいは駆け引き、か。こんな側面が私の中にあったなんて。
私の被害者は握る右手にさらに力を込めて色を白くし、確実な一歩を踏み出す単語を口にすべきか躊躇っている。
ゆらゆら、ゆらゆら、揺れている。可哀想でいて、たまらなく可愛く、揺れている。
触りたい触りたい、掴みたい掴みたい。
「その、恋愛感情として、てことで?」「そう、だと思う。かしゆかは?」
じっと、かしゆかの唇を見つめる。かしゆかが嘘を言うのか、本当を言うのか。あるいは嘘に近い本当か、本当に近い嘘を言うのか、見極めるため。
「…わかんないよ。考えたけど、わからんかった」
これは多分、本当に近い嘘だと思った。根拠なんてないし、はっきり言って直感。
でも、かしゆかの本当の気持ちは、私は誰よりもかしゆかよりも正確に把握している自信があった。今日のかしゆかは珍しく、わかりやすすぎるから。
そして私に余裕が出てきたから、今日のかしゆかと今までを繋ぎ合わせれば、はじき出される答えは決まっている。いくら鈍感で頭が悪くてマイペースな私でも、これくらいは簡単に解答できる。
「私みたいに、触りたいとか、触られたいとか、思う?」
後はその解答に、自分の側に、彼女を引きずり込むだけ。気づかせればいいだけ。
私は握りしめていた右手を自分のショートパンツから離し、唇に行きかけて思いとどまり、持ち主とは関係ないように真っ直ぐに流れる黒髪に触れた。
願望を差し引いても桃色に染まっている頬とは違い、髪には温度を感じなくて少しがっかりする。早く、温度を感じたいのに。
早く、早く。黒い砂が急き立ててくる。
神経が過敏になりすぎて、かしゆかが息を吸った瞬間が見えた気がした。
「思う、けど」
『けど』、が聞こえる前に、私の両手は華奢なようでいてしっかりした目の前の体を捕まえていた。
温かくて、いつもより強く甘ったるい香りがする。手だけじゃ足りなくて、頬を寄せ合わせて熱を感じ取る。
「思うなら…」
逃さないように、けれど潰さないように、私は両手に力を入れた。途端に、私の全身から黒い砂が流れ出して、かしゆかを覆い尽くす錯覚に囚われた。
それは不気味でも不自然でもなくて、待ち焦がれた、錯覚。これで間違いなく、彼女は気づいたはず。
私は邪魔な視覚を、まぶたで遮った。
じた、ばた。
私の手の中で、砂の中で、かしゆかが文字通りじたばたし始めたのは抱きしめてから10秒後。
さっきまで自分の左手を握っていたはずの右手で胸を押し返されたので、さすがに違和感を感じて目を開けた私は一旦かしゆかを解放した。
「もしかして、嫌?」「ち、がう…違う、けど…!」
ほんの一瞬だけ、私は自分が人生で最大の勘違いをしていたのかと焦ったが、すぐに否定されてほっとした。
が、めったに見ることができないくらい顔を真っ赤にしたかしゆかの目が、数年ぶりに怒りをはらんでいて私の安堵はあっという間に吹き飛ばされた。
かしゆかは身を守るように、あるいは抑え込むように両腕で自分の体を抱いている。
「なん、なん…なんで!?なんであんたは、そんな…そんななんも考えんでいられるん!?」
「?」
話が、気持ちが、読めない。
戸惑う私の視線の先から、かしゆかの両目から、透明で綺麗な水が流れ落ちてきた。
そしてその水を拭うこともせず、構わずに、水よりも勢い良く堰を切ったように言葉が溢れ出てきた。
「私がどんなに考えて、我慢して、今日ここに来たか、わかる? どんなに頑張って、沈めようとしたか」
「なのにどうして、のっちはどうして、いとも簡単に、そんな……」
「どうなるか、わかってるの? どんなことか、わかってる!?」
「…のっちだもん、わかってないよね。…だからそんな簡単に、簡単に、」
それ以上吐き出したくないというように、かしゆかは右手で口を塞いだ。左手はまだ残って、自分の体に巻き付けて離そうとしない。
私はただ茫然と状況を眺めていたが、頭の中で繰り返しかしゆかの言葉が反響するうちに、やはり自分が勘違いしていたことに気がついた。
かしゆかは別に、自身の気持ちに気づいていなかった訳ではない。
気づいて、気づいた上で、何もなかったことにしようとした。私たちの関係を元通りにしようと。
でも、元通りって、どこまで?
…無邪気に3人で笑い合っていた日まで。
目が眩むように暑かった、砂時計をお揃いで買った、あの日まで。
かしゆかが声を手で抑え込んでいる前で、私は錯覚を生んだ自分の両手を拡げて見つめた。わずかに震えて、汗ばんでいる。
もしかしたら、戻れたのだろうか。私がもし、ガラスを割らずに黒い砂を閉じ込めたままにしておけば。
『そうだよね、同性同士とか想像できないよね』、と適当に相槌を打っていれば。
楽しくもないのに、普段みたいに楽しそうに笑っていれば?
傾いたバランスが元に戻れたのか。かしゆかが望むように。
「…ないで。簡単に、うんとか、さわ……たいとか、言わないで…考え、てよ」
言い終わると同時に立ち上がろうとしたかしゆかの体を、私は反射的に無理矢理ソファーに押し戻した。
その拍子にしっかりしたはずの目の前の体は容易くバランスを崩して倒れ、肘掛けに背を預けている形になる。
まだ水が乾かないまま驚いて見開かれた瞳を捉え、私はもう一度捕まえに行くことにした。
だって、考えすぎる私は、らしくない。
「考えないわけ、ないよ。考えたに決まってる。頭がおかしくなる程、考えたよ。この気持ちが何なのか」
「…でも、でもさ。じゃあ聞くけど…考えたら何か変わるの? 解決すんの?」
「どうなるかなんてさ、わかんないよ。でもわかったら、わかったとしたら、この気持ちをなくせるの?」
顔が、頭が熱すぎて、体中が熱くなりすぎて、自分でも何が言いたいのかわからなくなってきた。
喉が渇いて呼吸がしづらい。喉だけではなく、全身が乾ききっている。考えるのをやめたら、落ち着いていた砂が暴れだしてきたみたいで。
何も返せないかしゆかは、前の私よりも茫然としているように見える。両腕が、身を守るのも抑え込むのも諦めて、ようやく上半身を支えている。
それでも私が手を伸ばしたら、仰け反った上体をなんとか倒れないように腕が保った。
私は被さるように、彼女に近づいた。
「さわ……触らないで。それ以上近づかないで、お願い」
「…どうして?」
「……」
「ね、どうして?」
「変わっちゃう、から」
「……」
「……」
「もう、変わってるよ」
乾いた砂が突き動かすままに。
私は顔を寄せて、
観念した目が閉じられるのを見届けて、
私を魅了する唇に自分のを重ねた。
お互いが小刻みに震えていて、
でもひどく熱くなっていることがかろうじて感じられるくらいの、
本当に触れるだけの。
唇を離して見つめたら、さらに泣き出しそうになるのを堪えて、かしゆかが聞いた。
「これ、何?…何なの、のっち…」
これは、私たちの感情は、考えは、
今から入ろうとしている、関係は、
何?
かしゆかの言葉の裏も、聞こえた。
「これはね」
考えすぎる彼女には、
慣れない嘘を。
必要な嘘を。
嘘とも言い切れないくらいの、
良い嘘を。
「キスだよ。キスっていうんだよ、ゆか…ちゃん」
ゆか、とは言い切れなかった。
言ってしまうと、あまりにも薄っぺらい関係だけが先走りする気がして。
わかってて、言っている。のっちは、わかっている。
この瞬間、私たちの立ち位置が、役割が、性質が決まった。私たちの関係を円滑に進めるために必要なもの。
私は、考えすぎる。
のっちは、考えない。
そして2人とも、今日からこの感情や、関係について、特に先のことについては、話すことはしないと。
それでも私は、往生際悪く、こう吐き出さざるを得なかった。涙は、いつの間にか止まっていた。
「なんで、なんだろ」
なんで、惹かれるの。
なんで、同性。
なんで、あ〜ちゃんではないの。
なにより……どうして、今さら?
今度はのっちは嘘も言わずに、困ったように、しかし吹っ切れたように笑った。
つられて笑おうとしたら、私の中の冷静な私が囁いたせいで、動けなくなった。
これを、望んでいたんでしょう?
あなたが想定したシナリオには、あったはずでしょう?
のっちが笑みを浮かべたまま、もう止まっている涙の痕を拭ってくれた。優しくて、少し不器用な手つきで。
そうかも。そうかもしれない。
一欠片も期待がなかったとは、言えない。
耳まで赤くなったのっちから視線を外すと、寝室のベッドにある黒い砂の砂時計に目が止まった。
もう、焦って引っくり返す必要はない。以前のような意味では、考える必要はなくなったのだから。
私の時計のガラスはのっちに砕かれて、砕いてもらって、流れ出た灰色の砂の中に溺れることになったのだから。
ずっと、そうしたいと思っていたように。
抱きしめてくれるのっちに身を任せて溺れたら、数分前までが嘘みたいに穏やかな気持ちになった。
————to be continued————
最終更新:2010年05月17日 21:35