リサイクルショップで買った柱時計の鐘が低く響き渡る。
2時を指し示す針は、花の模様をあしらった古風なデザインで、いわゆる一目惚れというやつだった。
振り子にも蔦が絡みついたような彫刻がしてあり、円になった部分には小鳥のシルエットもある。
年代物らしく中古でも割といい値段がしたけれど、わがままを言って二人で割り勘ということで思い切った買い物をした。
ただでさえこの貸家のローンもまだ残っているというのに、後から考えたら衝動買いもいいところ。
二人で住もうと決めたこの一軒家に移ってからずっと、節約生活が続いてる。
わたしが昨晩焼いた白いパンと、ミルクを食卓に並べる。
一緒に暮らすもう一人には、キリマンジャロを挽いて、お気に入りだという真っ黒なマグカップに注ぐ。
そこから立ち上る上品な香りは、窓から差し込む外の朗らかな陽気に相まって、心を和ませてくれた。
「はい。パンとコーヒー」
「あー、ありがと」
その人は相変わらず寝癖をほったらかして、口に突っ込んだ歯ブラシを力なく動かしていた。
彼女が洗面所でうがいをして戻ってくるころには、わたしも席について食べる用意ができた。
「あ〜ちゃん先に食べててもいいのにー」
「わたしはもう昼ごはん食べたよ。これくらい一緒に食べたいもん」
「いやー嬉しいこと言ってくれるねー」
彼女は休みの日はいつもこの遅い時間に起きる。
二度寝ができないわたしにとっては考えられない起床時間なのだけど。
かといって起きてから晩までご飯なしというのもかわいそうなので、わたしにとってはおやつ、彼女にとっては(かなり遅めの)ブランチの食事をこうやって用意する。
・・・よく考えたらこれわたしが太るよね。
「いただきます」
子供のようにその大きな瞳を輝かせて手を合わせるその姿は、やっぱり可愛さがある。
『綺麗だから、そばにいてくれるだけで良い』
いつか本人に言ったそんな単純な理由も含めて、わたしは彼女が好きなんだろう。
そんな言葉だけでも必要以上に喜ぶ彼女に、「好き」と断言するのはなんだか悔しいから、そう仮定だけしておく。
「おいしー。これ昨日焼いとったやつ?」
「うん。・・・節約しとるけぇ、キリマンジャロこれもう最後の一杯」
「・・・『キリマンジャロ』と『ミケランジェロ』と『しとらんじゃろ』って似てない?」
ミルクを飲んで返事をできないふりをして、その言葉はスルーした。
そして彼女はまたいつもの困った表情をして、パンにかじりつく。
その節約の原因となっている柱時計は、2時を指そうとしていた。
彼女は好きでこんな時間まで寝てるんじゃなくて(半ばそれもあるかもしれないけど)、
今の仕事柄、普段睡眠時間がとれないというのが一番の理由。
だから貴重な休日はこうやってふたりきりで談笑して、時間を共に過ごす。
この時間がわたしにとってはかなりの楽しみで、彼女にとってもそうだといいんだけど。
「・・・あのさぁ」
「うん?」
目の前の人は、大きい瞳でどこか遠くを見ながら、ゆっくり呟く。
「もしこの世界が大洪水かなんかで、近いうちに全部沈むってなったら、どうする?」
「なんじゃそれ。どうしたんのっち」
「そーゆう夢を見たの」
のっちは薄く笑って、コーヒーに口をつける。
その仕草だけなのに、なぜか切なく感じて、わたしは真剣に耳を傾けた。
瞳は潤んで見えたけど、それが欠伸によるものなのか、そうじゃないのか、判断はつかなかった。
「・・・夢ではどうなったん?」
「私は舟を作ってた。洪水から逃げるために、大切な人たちを守りたくって。
毎日毎日朝から晩まで、おっきい舟を作ってたんだけど。
舟ができたーって時に目ぇ覚めちゃった」
「あー、あれじゃ。ノアの箱舟?それにしても消化不良な夢じゃね」
「どうせなら助かるか沈むかしたかったよ」
自嘲的に笑って、手に付いたパンくずをほろうのっちの顔は、久しぶりに寂しそうな表情をしていた。
"大切な人たち"——その中にわたしは入ってるのかな、なんて不安がよぎったけど、気づかないふりをした。
「ノアの箱舟ってよく知らんけど、神様が大洪水起こすんだっけ」
「うん。人間たちに怒っちゃって、良い人だったノアにだけは舟を作れってゆうの」
「じゃーのっちノアじゃん」
「・・・あんたはそこまで善人じゃないしょー」
「えー!」
そうからかえば、すぐに眉を寄せて子供のように頬を膨らませる彼女を見るのがすごく楽しい。
「もし本当にこの世界が沈むんならさ。のっち、舟作ってくれる?」
ほんの少しの期待をこめて、彼女に尋ねる。
「当たり前でしょー。一番にあ〜ちゃん乗っけてくよ。」
何でもないようにそう言ってのける彼女の言葉がすごく嬉しくて。
こらえきれない笑みがこぼれないように、口を固く結んだけど、どうしても口角があがってしまってどうしようもない。
「・・・のっちはあ〜ちゃんおらんとダメじゃけぇね」
「ああうん。確かにそうだわ」
窓からの木漏れ日が彼女の顔を明るく照らして、さらに綺麗だった。
やっぱりのっちは美人で、それなのにいろんな表情をするから見てるだけで楽しい。
「でもどんくらいの舟作ればいいんかなー。あ、そのまえにいろいろ入れる袋とかも作らなきゃ」
後ろの机の上の紙とペンをせわしなく取り出して、冗談なのか本気なのか、舟の設計図を描き出した。
「なにそれ。本当に作るん。」
「いいでしょー描くだけタダ。どうせ暇だし。」
決して上手とはいえない画力で、舟と思わしき形を作り上げていく。
その拙くも愛嬌のある舟は、わたしたちだけの秘密基地のように思えてきて愛着が沸いた。
「こっから触れるもんなら全部詰めていきたいね。」
庭の大きなナシの木も、柱時計も、この古びたテーブルと椅子も、わたしたちを取り囲むすべてのものが愛おしいから。
「何それ。家ごと入る袋でも作るん?」
あなたは笑い眉と眉を寄せて、四角い船の設計に戻る。
「でものっちは、あ〜ちゃんがいてくれれば他はなんもいらんよ」
独り言のようにつぶやいたその言葉は、どんな大きな箱舟よりも、わたしを一番に救い出してくれる。
当の本人は、自分がそれほどの力持ってるなんてみじんも知らないんだろうけど。
End
最終更新:2010年05月17日 21:41