「え、なん? のっち急いでるんだけど。」
『だから、戸締りはちゃんと…。』
「わかったからおかーさん! ちゃんとするから!」
『もう。こんな心配したくないから、あ〜ちゃんと一緒に住みなさいって言ったのよ…。』
「だいじょーぶだって、あ〜ちゃん今日もうち来るし。」
『あ〜ちゃんがいなきゃ本当、彩乃はダメね。』
「…そーかもぉー。」
忙しく靴箱の上に置かれていた鍵を手に取ると、携帯電話を耳に当て、にやついた顔を抑えながら、のっちは自宅に鍵をかけた。
新しい新居に越してきた。ひとり暮らしを始めて、もう1ヶ月になるというのに、母親からは、毎日のように電話がかかってくる。実家にいたときに、あれほど放任されていたのが嘘のようで、のっちは毎回笑いそうになる。
4月も終わりに近づいた今日も、空は青かった。見上げると思わず目を細めてしまうほどの、春先とは思えない日差し。3階建てアパートの一室にのっちは住んでいる。設備はそれほどいいとも言えないし、建物自体そんなに新しくもないが、のっちは、気に入っていた。階段を駆け下りると、駐輪場がある。駐輪場には、高校時代を思い出す、あの自転車が持ち主を待っていた。少し剥げた塗装と、ところどころに見当たる錆が、愛用してきた年数を物語っている。今日も、愛しの愛車に飛び乗ると、専門学校へ向かう。
中学、高校で全くと言っていいほど人間関係を築けなかったのっちに、友達が出来た。彼女の名は、アキコという。入学式のとき席が隣同士になって、眠りそうになっていたのっちを、小突いてくれた、金髪ショートカットの女の子がアキコだった。話してみると、音楽の趣味もあって話していても楽しく、何かと頼りになる存在だった。出会ってまだ数週間。だけれど、のっちはアキコには何でも話せた。初めて他人に“彼女”のことを打ち明けたのも、アキコだった。
「のっち、女の子と付き合ってるんだ。」
「…へぇー。」
「えっ! 驚かんの!?」
「別に。人のことに興味ないから。」
のっちは、アキコのこういうところが好きだった。似ているようで、似ていない。わかりあえるようで、わかりあえない。のっちは、ひとと関わるのが少しだけ、好きになった。
「じゃあ、今日も彼女、家来るんだ。」
「うん。」
「…ねえ。」
「へ?」
「ヤッたり、すんの?」
のっちの顔は、急に赤らむ。耳まで赤くしているのっちを見て、アキコは呆れたように笑う。アキコの顔を見て、恥ずかしさが増したのっちは、じたばたと地面を鳴らした。悶えるのっちを見かねて、アキコは、「もういーから。」とそっとのっちの背中を撫でた。アキコは言った。「本当に彼女のこと好きなんだね。」
授業を終えた、のっちとアキコは、自転車置場へ向かった。
「…さっきさ。」
のっちが、急に立ち止まるものだから、アキコも立ち止まり、のっちを見た。
「アキコ、『本当に彼女のこと好きなんだね。』って言ったじゃん。」
「ああ、言った言った。」
「本当に好きだよ。」
「え、なに、惚気ですか?」
「違うよ、決めたんだ、去年の誕生日に。」
「…なにを?」
夕暮れ時の自転車には、いつも背中にぬくもりを感じていた。のっちが自転車を漕ぐときの半分以上は、誰かがうしろにいた。関西に出てきてからは、滅多にそれがなくなってしまい、寂しく思う。
進学先の学校が違っても、週4日は、あ〜ちゃんと会っていた。今日の晩ご飯は、あ〜ちゃんが手料理を振舞ってくれる。のっちは、胸を躍らせながら自転車を漕いだ。すると、ポケットの携帯電話が震える。
『あ、のっちー? 今日の晩ご飯何がいいん?』
「カレー!!」
『またぁ? 先週も食べたじゃろ。』
「だってあ〜ちゃんのカレー、世界一うまいんだもん!」
『ハイハイ。じゃあ先週と具、変えるわ。』
「あ〜ちゃん神! 大好き!」
『…どーいたしまして。』
あ〜ちゃんとの電話を終えて、自宅へ帰宅する途中、コンビニエンスストアが目に入る。のっちは、せっかくあ〜ちゃんが料理を作ってくれるのだから、ジュースでも買って帰ろうと思った。自転車を止め、店内に入ると、真っ先にコールドドリンクの棚へ向かった。何がいいかな、のっちは棚の前で腕を組んで考える。手に取ったのは、あ〜チャンの好きな炭酸飲料と、りんごジュース。そして、もうひとつ、コーヒー牛乳。両手に3つ抱えてレジへ向かおうとすると、同じようにドリンクの棚へ向かう、同じ年代くらいの女の子と、すれ違う際にぶつかりそうになった。慌てて、「すいません、」というと、彼女は小さくお辞儀をした。のっちは、そのままレジへと向かう。
「コーヒー牛乳、ない…。」
何故だか、耳に残った。
その言葉に、聞き覚えがあった。
ハッとして振り向いた。全てが、スローモーションのようだった。
「えっ…。」
のっちの視線の先には、ひとりの女の人がいた。艶やかな黒髪のストレートロングヘア、すらりと伸びた2本の脚。
彼女も、のっちを見ていた。目が合った。
「ゆかちゃん…っ!」
のっちは、その場に手に持っていたドリンクを落として、ゆかの元へと駆け出した。ゆかは、驚いて目をぱちくりさせた後、しっかりと駆け寄ってくるのっちを受け止めた。
『…なにを?』
『のっちのことを好きだった子がいて、のっち、その子のことも大好きだったんだけど、やっぱり今の彼女のことが大好きだったから、別れなくちゃいけなくて。』
『うん。』
『その子にひどいことして傷つけたから、その子に恥じない恋愛する。彼女のこと、しあわせにするんだ。』
「ごめん、ごめんね、ゆかちゃん…。」
ゆかの腕の中で泣きじゃくるのっちを、ゆかはただ抱きしめていた。
のっちは、去年の誕生日に吹き込まれていた、ゆかからの留守番電話に返事をしなかった。それは、ゆかのためでもあったし、自分自身のためでもあった。甘えたくなかった。誰にも。
「…やっぱり、ゆかは正しかったね。」
「えっ?」
ゆかが、のっちの懸命な謝罪には触れずに、別のことを話すものだから、のっちは、思わず泣くことを止めて顔を上げた。ゆっくりとゆかが、のっちの背中で結ばれた指を解く。お互いの表情がしっかり確認出来る距離まで離れると、ゆかは言った。
「言ったじゃん! 別れてもゆかとのっちは、また、出会える気がするって!」
ゆかは、嬉しそうに笑う。その瞳は、潤んでいるのに、今にも零れそうなほどなのに、ゆかは、笑う。
だれも。本当の愛なんて知らなかった。知らないまま、大人になろうとしていた。愛に飢えていた。愛が足りなかった。
でも、愛なんて、見つけたら簡単だった。
「ゆか、のっちのことアイシテルよ?」
「のっちだって、ゆかちゃんのことアイシテルんだからね!」
ほら、ここにも愛は存在する。
最終更新:2010年11月06日 14:19