「…無い」
呆然と立ちつくすあたしの肩に、桜の花びらが舞いおりてくる。
4月。春休み明けの学校は、新学期への期待と不安を抱えた少女たちのざわめきに包まれていた。
あたしはもう一度、クラス替えの掲示板を見直した。これで、5回目。
あたしの名字は大本だから、すぐ見つかる。しかも1組だから、数秒もしないうちに目に入った。
2年1組。大本の後に、か…樫野有香…ナシ。に…西脇綾香…ナシ。何度見ても、ナシ。
2人の名前は、仲良くそろって3組のボードに載ってた。
「しかも校舎違うし…」
あたしはこの意地悪な現実から目をそむけたいのに、体が動かなくて、ハチ公像みたく固まったまま、6回目のガン見をした。
「のっち、何しよん?」
明るい声。あたしはぱあっと振り返った。
あ〜ちゃんとゆかちゃんが並んで笑ってる。
「久しぶり〜、のっち、元気にしとった?」
あ〜ちゃんの満開の笑顔。あたしの心がたちまち浮上したけど、
「のっち一人クラス別じゃねえ」
と極めてどうでもよさそうに、脳天気な口調で言い捨てられて、急降下。
ゆかちゃんが心配そうに、
「のっちは高等部からの編入じゃけえ、あんまり友達いないのに…大丈夫?」
「だっ、大丈夫だいりょっ…うぶ」
「…噛んどるし」
あ〜ちゃんとゆかちゃんが、はああとため息をついた。


「…のっち」
あ〜ちゃんがまっすぐにあたしの顔を見つめた。強い、意志的なまなざし。あたしが憧れてやまないまぶしさ。
「3年はクラス替え無いんじゃけえ、避けとらんで仲良くしんさいよ」
「ほうよ、のっち。頑張らんと」
2人からやや上から目線で怒られると…ちょっと、嬉しくなった。
あたしが何か口答えしようと、無い知恵を絞ってると、
「綾香ちゃん、有香ちゃん、始業式はじまるって〜!」
「あ〜ちゃん中等部以来じゃね、同じクラス!」
「めっちゃうれし〜」
2人は同じクラスらしい子達にあっという間に囲まれた。
じゃあ後でね、って感じであ〜ちゃんが手を振って、あたしに背を向けた。
…あ。
あ〜ちゃんのふわふわの髪に、桜の花びらがついてる。
取ってあげよう、と手を伸ばしかけてあたしは躊躇した。
柔らかい髪が春の日差しに揺れていて。手を伸ばして、触れるのがこわい。
手を伸ばしても届かないような。光の中のあ〜ちゃん。
「綾香ちゃん、髪に花びらついとるよ」
「あ、ありがと」
あ〜ちゃんの隣にいた子が何のためらいもなく、あ〜ちゃんの髪に触れた。
花びらが邪険に払われて、ひらひらと落下した。
あたしだったら。あの花びらをこっそりポケットにしまっておくのに。
惨めに頼りなく地面に落ちた花びら。自分が振り捨てられたように思えた。


始業式が終わって、新しいクラスの教室。
あちこちから談笑が聞こえる。中等部から持ち上がりの子が多いから、顔見知りレベルでもまあそこそこ交流がある子がほとんどなんだろうな。
…のっちは違うけど。
あたしは自分の席に黙って座る。
「大本さん、同じクラスだね、よろしく〜」
隣の席の子に話しかけられた。…誰だっけ?見たこと…は、あるけど。まあとりあえず挨拶。
「あ、どうも」
「大本さん部活入ってるの?」
「あ、帰宅部…デス」
「何か入らないの?」
「…はあまあ」
「…私テニス部なんだ〜」
「…そうなんだ」
「……」
…かっ、会話が続かないよお!スイマセン、のっちは残念な子なんです!
微妙な空気のまま途切れがちの会話をしていると、先生がやって来てHRが始まった。
ホッと一息。
情けないけど。あたしは極度の人見知りで。
一人の方がラク。一人でも、平気。…これが本来のあたし。
あ〜ちゃんと出会うまでは、これが本来のあたしの日常だったんだ。


あ〜ちゃんが異常なんだ。それは完璧な計算を狂わす、システムのエラーみたいなもの。あ〜ちゃんが、スイッチを押した。
あたしは(そして多分ゆかちゃんも)あ〜ちゃんの猛スピードに引っ張られて、笑い転げながら世界を塗り替える。
…だから。戻って来た日常が、故障して見える。
あ〜ちゃんがいない日常。そんなの、苦しくて、ありえない。あ〜ちゃんのいない一人は、平気じゃないんだ。

HRが終わると、今日は新学期で授業は無いから、もう放課後だ。
あたしはあ〜ちゃん達のクラスに行こうか迷った。
行ってもいいのかな。
あ〜ちゃんやゆかちゃんほど仲良くなった友達というのが今までいなかったから、距離の取り方が分からない。
よそのクラスになったら、縁遠くなるのかな。あたしから近づいていかないと…あ、でも鬱陶しがられたりして。
ぐるぐると思考の迷走に入る。こんな悩んでる間に、あ〜ちゃん達帰っちゃうかも。
その時。
「のーっち!」
反射的に顔を上げた。


「あ〜ちゃん!」
あたしは忠犬なみのスピードで、あ〜ちゃんの元へ駆け寄る。嬉しくて息が上がる。
ゆかちゃんがくすくす笑ってるけど…気にしないふり。
「ど、ど、どしたの、あ〜ちゃん?」
「…また噛んどる。あのね、これからね、クラスの子とカラオケ行くんよ」
…あ。
あ〜ちゃん達しか目に入ってなかったけど、後ろに何人か取り囲むようにいる。その中の一人が、
「みんな今日カラオケ行ぐぅ〜?!」
「イェー!」
…す、すごい盛り上がり。あたしは若干ひき気味だけど、その盛り上がりの中心はあ〜ちゃんで。
「あ、あ〜ちゃん、aiKo歌って〜!」
「綾ちゃん、歌超うまいもんね!」
あ〜ちゃんを中心に笑いが広がる。あ〜ちゃんは笑顔全開で、お日様みたい。
…そっか。あ〜ちゃんは太陽で、そして…のっちだけの、太陽じゃない。
あ〜ちゃんは、のっちがいなくても故障しない。
「のっちも結構DIVAじゃけえ。ね、のっち?」
あ〜ちゃんが一点の曇りの無い笑顔であたしを見つめる。キラキラの、大輪の花みたいな笑顔。
あたしは自分が暗くしおれた花みたいに思えた。
「…あたし、今日用事あるんじゃ。ゴメン、帰るね、また誘って」
あたしは早口で一方的に言って、あ〜ちゃんの側をすり抜けた。


「はああ…」
屋上の柵にもたれて、盛大なため息をついた。
年中ヒマ人なあたしに用事があるなんて、もちろん嘘。
あたしは屋上の柵をつかんで、伸びをして空を見上げた。
春の空は輝きに満ちて。柔らかく、そして新しい予感に溢れていて。あ〜ちゃんを思い起こさせた。
あたしは目をつぶる。固く固く目を閉じても、浮かんでくるのは、さっきのあ〜ちゃんの笑顔。
今の私には痛いほどのまぶしさだけど。その痛みすらどこか甘い。
あ〜ちゃんの笑顔は、たった数時間顔を合わせなかっただけで、どうしようもなくあたしを甘くうずかせた。
「あ〜あ、情けないなあ…」
「…情けないのはあ〜ちゃんの方じゃけえ!」
ぎくり、と振り向くと。目を三角にして、毛を逆立てたあ〜ちゃんがいた。
「コラーー!この嘘つき!何が用事がある、よ!」
こ、鼓膜が…。
あ〜ちゃんはお構いなしに、
「そうやってすぐに避けよるけえ、友達がおらんようになるんよ!のっちのバカ!」
あ〜ちゃんはギャンギャンまくしたてると、
「もう…あんまり、うちに心配かけさせんといてよ」
そう言ってあ〜ちゃんはあたしの隣で柵にもたれた。


「…心配、してくれたん?」
どうしよ。…めちゃくちゃ嬉しい。
「…のっちがどんよりしとったら、救いようがないけえ。アホの子のうえ暗いなんて、ほんまダメじゃ」
…あっそう。
ちょっといじけそうになったら、あ〜ちゃんがあたしの制服の裾をつまんで、
「…のっち、ほんま大丈夫?」
「う、うううううん、大丈夫!」
「また噛んどるよ」
だって。急に優しい顔するから。
「今日は何か気後れしちゃったけど、…またカラオケとか誘って」
「のっちもクラスに早よう友達作りんさいよ!」
「が、頑張る」
「でもお昼は一緒食べよ?ゆかちゃんも喜ぶし」
あ〜ちゃんはへへって笑って、
「ねね、のっち、春休みのうちに背ぇ伸びたん?」
あ〜ちゃんはぴとっと体を寄せて、あたしを見上げた。柔らかい感触。シャンプーの甘ったるい香り。あ〜ちゃんは背伸びして手で比べながら、
「ふふっ、のっちのがおっきいね」
と上目使いで、甘く笑った。


その瞬間。あたしの中のプログラムが一斉にエラーを起こした。回路が、ショートした。何かとんでもないものがインストールされた。
スイッチを押したのは、あ〜ちゃん。
その張本人は脳天気に、
「じゃ、みんな待たせとるけえ、行くね?ばいば〜い」
上目使いでちっちゃく手を振るあ〜ちゃんにとどめをさされて、あたしはずるずるとへたりこんだ。
脱力したまま、空を見上げる。心臓がバクバク言ってる。なんだこれ。…ヤバい。絶対ヤバい。
あたしの中の覚醒されたプログラムは、すさまじい速さで完璧な答えをはじき出した。
その答えはゴシック体のでかでかとしたフォントで、体中を駆けめぐる。
結論。故障じゃなくて。もう、どうしようもなく。


好きだ好きだ好きだ…


「ヤバいなあ、ほんと…」
ありふれたスピードを超えて、恋は始まる。


終わり







最終更新:2008年10月12日 20:35