「もういい! 出て行く!」


それだけ、吐き捨てるように泣きながら家を飛び出した。
生憎、その日は雨だった。小雨ではあったものの、梅雨の6月だ。いつ大粒に変わるかわからない。濡れたままバスに飛び乗ると、先に乗っていた女子高生の二人組みがこちらをちらちらと見てくる。綾香は身体を隠すようにポールに凭れ掛かって、灰色に染まった空をじっと見つけた。


行く当てなどなかった。バスが辿り着いた先で降りればいいと思った。しかし、その思いとは裏腹に、綾香が行き着いた場所は、いつものライブハウスだった。
ライブハウスの入り口のドアに手をかけると、鍵がかかっていた。綾香は、ため息を吐いた。ライブハウスに着いた頃から、雨は次第に本降りになっていった。出るにも出られず、綾香は誰もいないライブハウスの前でひとり雨宿りをすることになった。


家を飛び出したものの、咄嗟の判断で手に握ってきたのは、携帯電話と財布とミュージックプレイヤー。ヘッドホンをつけて、カプセルの曲を聴きながら雨が止むのを、ただ待った。
どれくらい経ったかわからない、ずっと降り続ける雨を見つめていた綾香は、背中に異変を感じた。驚いて綾香が振り向くと、更に驚くこととなった。何故なら、閉まっていたはずのドアの中から何者かが出てこようと少し扉が開いていた。そして、その扉を開けようとしているのは、彩乃だったからだ。彩乃は、困ったように綾香を見つめる。綾香は、急いでヘッドホンを外した。


「な、なんでのっちおるん!?」
「それはこっちのセリフよ。あ〜ちゃんこそ何でおるん? 今日カプセルライブないよ?」
「えっ…と、それは…。」


綾香は言いにくそうに、言葉を濁した。彩乃は、おかしく思うと、綾香の衣服が濡れていることに気付く。


「あ〜ちゃんどしたん! 服びしょびしょ!」
「ちょっと、雨…降り始めて。」
「もう、中、入ろう!」


綾香は、彩乃に手首を取られて、そのままライブハウスの中へ連れ込まれた。


誰もいないライブハウスに彩乃と二人きりという環境は、綾香にいつも以上に緊張を与えた。彩乃は、担いでいたベースを床に置くと、羽織っていたパーカーを脱いで綾香の肩に掛ける。


「のっち、いいよ。」
「ダメ、風邪引くから。」


首を振る彩乃の優しさを、素直に綾香は受け取ることにした。


「のっち…何弾くん?」


彩乃が先ほど床に置いたモノが気になった綾香は、尋ねる。彩乃は、自身が置いたベースを見ると、「ああ、」と納得して話し出す。


「ベース。高校で軽音楽始めたんよ。」
「すごいね。練習してたん?」
「うん。もうすぐライブがあるんだけど、なかなか上手く弾けないかられんしゅー。」


彩乃はベースの横に座り込んで、愛しそうに撫でた。綾香は、彩乃の優しげな表情につられて笑う。向かい合って座ると、彩乃が思い出したかのように、「あ、」と言った。


「今、二人っきりだし、ちょうどいいから言うわ。」
「なに?」
「あたしさー、あ〜ちゃんに会ったの、この間が初めてじゃないんよね。」
「えっ?」


驚いた。しかし、綾香は彩乃に会った記憶はなかった。それを察した彩乃は、顔の前で手をひらひらさせて、「あー、違う違う、あ〜ちゃんは知らんと思う。」と、否定した。






「小学校のとき、陸上の大会出てなかった?」
「出てた!」
「あたし、見に行っててさー。そんときに出会ったちょーかわいい子が、あ〜ちゃんだった。」
「えっ?」


思いがけなかった告白に、綾香はまた驚く。一方彩乃は、両手で顔を覆いながら恥ずかしがり、「あーもう、言うつもりなかったのにー!」と体育座りしていた足をじたばたさせた。


「もうこの話おしまい! 次は、あ〜ちゃんの話ね!」
「なんよ、もっと聞かせてよ!」
「嫌だー。」


きゃっきゃっと笑い合うっていた二人だったが、彩乃が遮る。


「ねえ、何で? あ〜ちゃん泣いてたでしょ?」


じっと大きな瞳に見つめられて、綾香は、動けなくなる。「えっと…。」思わず言葉を濁す。その瞳から逃れるように、下を向いた。しかし、彩乃は綾香を逃がしてはくれない。


「あ〜ちゃん?」


綾香の名を呼ぶその声は、優しさに満ちていて、伸びてきたその掌は、綾香の頬を摘んだ。


「にゃんしよん。」
「いやー、あ〜ちゃんは笑ってた方が可愛いなって思って。」


彩乃が手を離すと、綾香は声をあげてけらけら笑った。


「のっち、ほんま面白いわ、あ〜ちゃん、のっちのこと好きじゃ。」
「えー? のっちのがあ〜ちゃんこと好きだよ?」
「負ける気がしませんけど?」
「あたしも!」


綾香は、彩乃となら親友になれる気がしていた。




「雨、止んだねー。」
「そだねー。」


二人がライブハウスを後にする頃には、雨はすっかり止んでいた。彩乃が背負っていたベースは、代わりに綾香が背負う。彩乃が漕ぐ自転車のうしろには、綾香が乗る。


「…さっきね、泣いてたんは、お母さんと喧嘩したからなんよ。」


ぽつりぽつりと、綾香は先ほどの出来事について話始めた。のっちは、静かに、「うん。」と答える。


「受験生なのにライブに通ってるんバレて。もう行かれんって言われて。せっかく見つけた居場所、奪われたみたいになっちゃって。で、家飛び出しちゃったー。バカ、だよね…自分の立場なんか、わかってるくせにさ…。」


綾香は、こつん、と彩乃の背中に自分のおでこをぶつける。


「…あ〜ちゃん、」
「ん?」


自転車が走り抜ける住宅街は、街灯がぽつぽつと光を点す。家からもれた灯りと共に、笑い声も、路地に聞こえる。


「あ〜ちゃんが孤独を感じたら、いつでも連絡してよ。」
「のっち…。」
「のっちのこと、有効活用して。」
「…うん。」
「少しくらいは力になれると思うから。」


少ない言葉を一生懸命繋げていく彩乃は、今の綾香にとったら、とても逞しかった。消えそうな綾香を見つけて、繋ぎとめてくれたのは、彩乃だった。
彩乃だったんだ。







最終更新:2010年11月06日 16:26