ガコン、と少し大きな音を立てて、熱を持った缶が私の前に落ちてきた。
自動販売機が並ぶ横にポツンとあるベンチに腰かけてプルタブをゆっくり引くと、飲み口の開く音が静かな空間に異様に大きく響いた気がした。
ふうふうして、少しだけ口にする。
それから自然に洩れたため息のような空気の固まりに、今まで入ってたんだろう無駄な力が一気に抜けていったのを感じた。
そして、引き出された、言葉。
「…なぁにが、大人しくじゃ」
そんな簡単に引き寄せられるわけでも、なかったのに。
そんな強引にできる私でも、ないのに。
空気に消えていった言葉の後、私から出たのは自嘲じみた笑い声を含んだため息だった。






どれくらいそうしていたのか、わからない。
でも私の肩に顔を埋めていた彼女の服に、ぽつりと水滴が落ちてきたのがはっきりと見えたから。
「あんなに晴れとったのが嘘みたいじゃ…」
隣で、楽屋までの静かな廊下を歩く彼女が窓の外を見ながら呟いた。
窓の外の景色は青色を失って、どんよりと曇っていた。
太陽、もすっかり隠れて、今は薄暗い景色になってる。
「…あのさ」
彼女が呟いた後、私も続いて呟くように言葉を出した。
何?って表情でおっきな瞳がこっちを向いた気がしたけど、私は彼女を見ずに、言葉を紡ぎ出す。
「のっちがあっちから落とした物、ほとんどゆかが持っとるんよ」
「……え」
ぴた、っと彼女の足が止まる。それに気付いて私も彼女の少し先で足を止めたけど、視線はずっと、廊下の先に向けて。
「壊れた物もあるけど、ほとんどそのままの形じゃけぇ、拾ってゆかが持っとる」
「……」
「でもさ」
やっぱり、一つだけは拾えなかったんよ。
壊れて、粉々になったけぇ。
「……う、ん」
詰まったような返事で、何が拾えなかったのかを彼女が悟ったのを知る。





「…でもまぁ、割れたものは仕方ないけぇ」
「……」
「本人はちゃんとここに居るし、それだったら良いと思う」
そこでようやく彼女を見る。
彼女は、それはそれは綺麗なハの字眉で私より少し斜め下に視線をさまよわせていた。
「二人とも、さ」
どんなに自分のポジションってものがあるってわかってても、やっぱりそれはそれなんよ。
みんなの為の三人でいる為には、私にもそれなりの役割もあって。
三人それぞれ…それはわかってる。
でもさ。
「その前に、うちらって人間じゃん」
人として、そういう感情を持つっていうのは、当たり前の事なんよ。
「ねぇ、のっち」
「……ん?」
呼ぶ声に反応して、やっとお互いの視線が重なる。
「自分に素直に、ぶつかって?」
何もかも、気にせずに。
お互いがただ自分のポジションに縛られているから。
ただ、それだけの事だから。






彼女が、落ちてしまいそうなら。
私が大きな大きな波で、あの子の所まで落ちないように押し上げよう。
あの子が、痛い程の熱を帯びてしまっているのなら。
私がこの世界の水を全て干上がらせてでも、熱を静めてあげよう。
私が海になって。
落ちないように。
灼けつかないように。






二人が。
それで私が。
幸せに、なるのなら。






「…それで、良いの?」
また歩み始めたら、彼女が小さく私に聞いた。
「ゆかちゃんは、それで良いの?」
まだハの字眉で、私の事を伺っている。
大丈夫、だよ。
そう、笑って応えよう、と思った、時。






…不意に聞こえた、声。






「…あ〜、ちゃん?」
目の前には、私達の楽屋のドア。
静かな静かな廊下に洩れ聞こえてきたあの子の声。
泣いているよう、だった。
それは酷く掠れていたけど、間違いなく彼女の名前を響かせていた。






……ああ、だから、空が泣いたのか。






「行って」
ぐっと、彼女の背中を押してドアまで近付ける。
「行ってあげて」
「でも…」
「これはゆかの仕事じゃないんよ」
さっきも言ったでしょ。
泣いてる太陽の側に、やっと連れてきたんだ。
「側にいてあげて」
私は、大丈夫だから。
そう、さっき応えようとした言葉を彼女に残して。
最後にもう一度、トン、と。
彼女の背中を、押してあげた。






いつの間にか、缶の中の飲み物は湯気を出す力を失っていた。
その代わり、缶を包んでいた掌にじんわりと残る、熱。
飲み口から中を覗くと、そこにはまだたっぷりと中身が残っているのが見える。
もうすぐ、時間かな。
そう思って携帯を手にしたら、丁度のタイミングで携帯が震えた。
いつもはなかなか表示されない彼女の別称がメールの着信と共に画面に映し出される。
「…何だかねぇ」
思わず吹き出す。
でもまだ、それも自嘲に近かった。
「さて、行きますか」
メールは見ずに携帯を閉じ、少し背伸びをする。
それから缶に残った分を一気に喉に流し込むと、温くなった、と言ってもまだ熱を持った液体が少しだけ勢いをつけて体を駆け巡っていったのがわかった。
冷えていた体が、少しだけ温くなる。
…それくらいで良いんよ。私には。
そう、自分に言い聞かせるように、ほ、っと一つ息を吐いて。
私は、二人の待つ楽屋に向かった。






窓の外はもう、見なかった。






END





最終更新:2010年11月06日 16:37