side.N
約束は破らない。
振り向くなって言われたから。
言われてすぐ、目を瞑った。伝わりもしない意思表示。できるだけ強く。
一層彼女の震えた声は良く聞こえた。ドアを押して出ていく時の音も。
店を出るまでの絨毯の上を歩く音だって、良く聞こえた気がした。
彼女が最後に呟いた言葉は、あたしと彼女の全部だった。
目は瞑らなきゃよかったな。全部見えてしまった。呟いた彼女の泣き顔も、店を出ていく後ろ姿も、全部あたしには見えてしまった。
あの行儀良く並んだボトルのラベルでも眺めていれば良かった。そうしとけばきっと、声を噛み殺す喉がこんなに痛くなることもなかった。
早くも後悔ひとつ。思い描いたシーンには程遠い。
後悔するのはどっちかな。
言えなかった方か、言わずにいられなかった方か。
いつか答えは出るのかな。それとも、そんなものはないのかな。
暫くカウンターの一点を見つめた。滲む。目が痛い。でもまばたきはあまりしたくない。
彼女はどんな気持ちで言ったのかな。なにか言ってあげた方が良かったのかな。
それとも、すぐに抱きしめてあげれば良かっただろうか。
それってなんか意味があったかな。なんか変わったかな。
「なにかお飲みになりますか?」
視線をゆっくり上げれば、いつの間にか目の前に彼は立っていた。あ〜あ、涙目でしっかり目が合っちゃったよ。
彼は無表情だった。馴れ馴れしく慰めるでもなく、冷たく放っておくでもなく、そこに立っている。
何もなかったかの様に、さも当然の事の様に、仕事をする。カップを洗う。
いつだったかな。この空気をとても心地好く感じたことがあったな。
彼の優しさは、触れない優しさ。自分自身を飲み込む優しさ。
きっと気付かれ難い、それなのに本人はひどく疲れる優しさだ。
きっとそう言えば、不器用なだけです、なんて言うだろう。なんとなく分かってきたんだよ、意外とあんたの事も。
「なんかあたしでも作れるようなやつ教えてくださいよ」
「……まだ早いです」
一度ちらりと此方を流し見た彼は、緩く口角を上げた。
「…………ケチ」
気付いてるんだよ。さっきから甘ったるい香りがしてるから。
やっぱりそれは、あったかくて甘いから?
「サービスです。一日に二度出すのは初めてです」
置かれたカップ。さっきと同じ、柄の大きい白くて重みのあるもの。
「ありがとう」
湯気の立つココアをゆっくりと口へ運ぶ。
さっきよりずっとあっさりしていて飲みやすく作られていた。
side.K
小階段の前で一呼吸。
高鳴る鼓動と上昇した体温を、少しずつ調えてみる。
血が昇った頭で彼女の前に出ようものなら、喚き散らす自分の姿が目に見える。
結構さ、抑えがきくんだよ。意外とお利口さんなんだよ。あたしの頭の中。
きっと思ったままに動いた方がよっぽど楽だ。それも分かってる。
でもそうなった自分の姿を想像すれば、簡単に歯止めがきく。
客観的にみてみれば、それはとても美しくない。
あたしが思うあたしの在るべき姿は、理想の塊そのものであって。いい加減嫌になるよ、扱いづらい。
でも最近は気付いてきてる。というより、自分を騙す必要はもうなくなった。
あたしはそんな大した女じゃない。
あたしがいない間、あの二人はどれくらい一緒に居て、どんな話をしたんだろう。
『暫く会いに来ないで下さい』
あのメールは同時送信。約束をちゃんと守ったのはあたしの方なのに。
つい昨日のことだ。彼女をみた。日付が変わったから一昨日か。
職場の前の通りの向かい側。あたしが勤める古書店とは対照的に、ひっきりなしに客を飲み込むフラワーショップ。
相も変わらず迂闊なやつ。嬉しそうな顔で店から出てきた彼女の手には、黄色い薔薇。
それ、あたしに渡すんでしょ?
それでそれは、そのままの意味なんでしょ?
いいよ、別に。相手があの子なら。そりゃそうなるでしょ。あ〜ちゃんが出てくれば。
二人してあたしになんかお構い無しだったんだから。
だからさ、そんなことはどうでもいい。強がりだなんて分かってる。本当はずっと一緒にいたい。でもそれは多分叶わない。
だからあたしが欲しいのは、すんなりと納まる納得のカタチ。
矛盾だらけのあたしの頭の中を、早くなんとかして欲しい。期待と不安を繰り返すのはもう沢山。
花なんて要らない。中途半端じゃ一番の消化不良を引き起こす。そんなものは今のあたしにとっては優しさでもなんでもない。
ばっさり切り捨ててくれなきゃ困るんだよ。最後くらい、かっこつけてくれなきゃ困る。
何れにせよ答えは二通りしか用意されてないのに、解かなきゃいけないことが多すぎる。
大体さ、アンタ一体どっからよ? 先ず一番最初に、なんでだったのって話だよ。
随分一緒にいたのに、なんでそんな簡単に『別れよう』なんて言えたの。その理由を聞かされたって、駄々をこねるあたしはどこにもいないのに。
冷静になってみれば簡単に理由の存在になんて気付く。でもあんなにいきなりじゃ、こっちが面食らうのは当然だ。
あたしはどういう存在だったのか。今どうであるかなんてどうでもいい。
少なくとも彼女のいるところへ向かうのに、選択を強いていたのであれば、それでいい。
一息吐いて、様々な思考を巡り巡らせて、結局小さな事実に鼓動をまた早くする。
この扉を開ければ大好きな人がいる。もういいや。はやく顔が見たい。
side.A
イルミネーションなのか街灯なのか分からない。それくらい視界がぼんやりしていて光がふわふわ浮かんでいた。
まばたきの度に色が変わる、形が変わる。知らない世界にいるみたい。それは実際そうなのかもね。
興醒めなのは、あの青い光の点滅が、今からどう変わるのか頭が理解してること。
信号待ち。綺麗だね、なんて声が隣から聞こえる。温かそうに身を寄せ合うカップルが指差す先、至る所に新しい年を表す数字。キラキラ光ってる。
交互に描かれた白と黒の帯。俯くあたしの視線の先。
いつの間にか信号は青になってたみたいで、次々に人が歩き出しその内の一人があたしの体にぶつかっていった。
振り向くその人の手には、今年の干支を象った大きな人形。その手には年号のプレートを誇らしげに掲げている。
それ、誰かへのプレゼント? あたしの知り合いと同じくらい、センスないね。
申し訳なさそうな顔のその人は、あたしが小さく笑うのをみてホッとした表情になった。
よく見ると優しそうな人。小さく頭を下げて「すいません」と告げると、また人混みに紛れた。
謝ることないのに。ボーッとこんなとこ突っ立ってるあたしが悪いんだよ。
ぼんやりと一人、街を漂う。
また一年が始まった。もう二度とない365日。今まで何年も生きてきて、年越しで何かが変わったなんて感じたこと無かったのに。
あっという間だったな。こうやって自分自身と向き合わされると、思い出すのは楽しかったとか幸せだったとかそんな漠然としたものばかりで。
夢みたいな時間だったから、全部があたしの原動力だったから、そんな当たり前のことに感謝するのは忘れてたのかな。
三人でいられること、支えてくれてる人達がいること、応援してくれるみんながいたこと。
満たされていたから。身の回りに感謝してばかりだったから、過ぎていく時間は恐怖でしかなかった。
手に入れたものを全部永遠にするにはどうすれば良い? そんなことばかり考えてうろたえて。どうせいつかは必ず終わるんだって諦めて落ち込んで。
でもあたしになんか御構い無く、勿論世界はまわってるし。
だからこそ、全然関わったこともない誰かから、こんなに簡単に笑顔を貰ったりもできるし。
もう人混みに消えたあたしの一瞬に、ありがとうと返事をした。
これからはもう、時計の針は都合良く進んではくれない。
あ〜あ。ゆかちゃんにも会いたかったな。なんて、図々しいにも程があるけど。
もうお店に着いたかな。どんな会話してるだろう。のっちのことだから、言う必要のない様な事までばか正直に話しちゃうんだろうな。
経過はどうあれ、こんな時どうすれば一番良い結果を招けるのか彼女は無意識に分かってる。人が必要だと言う嘘や隠し事、彼女には似合わない。
ゆかちゃんは、怒ってるかな。最低だって言われても仕方ないことしたからな。
ごめんね。最後の最後までゆかちゃんには甘えたなやつで。それを伝えるのも早すぎたよね。
どうせ今に全部バレる。もしかしたら既にそうだ。
あたしはこれから笑うから。これから先ずっと。
そうしなきゃ二人に合わせる顔がない。きっとどっかで繋がってる。
三人が一緒にいられる理由なんかなくなっても、三人の中から誰かが消えることなんてないんだ、って今はもう分かってる。
なにを慌てて、なんで終わりだなんて表現してたのか。
すっと顔を上げる。また点滅を始めた青い信号。
あたしは慌てて右足を一歩踏み出した。
〜続く〜
最終更新:2010年11月06日 17:46