彼氏は、今まで一度も出来たことがない。何故なら、付き合いたい、と思えるほど好きになれないからだ。しかし、ゆかに行為を寄せる異性は、たくさんいた。
今日も、また。
「ゆかちゃん、付き合ってくんない?」
高校受験に成功する為、ゆかは塾に通っていた。勉強熱心な母親の薦めで、自宅から電車で数駅の有名進学塾に通うことになった。ゆかは、勉強が嫌いでもなければ、好きでもなかった。親は、ゆかが有名進学校に進学することを夢見ていた。親、といっても普段から会話も少ない。両親は共働きで、帰りも遅い。ゆかが塾から帰ると、家に誰もいないのが当たり前だった。コンビニ弁当や、外食が毎日のように続いた。
ゆかの通う塾の若い講師は、ゆかに好意を寄せているようだった。授業が終わると、決まってゆかを呼び出し、この言葉を言う。樫野さんと呼んでいたはずが、いつの間にかゆかちゃんに変わっていた。
受験前日、講師は、ゆかにこう言った。
「受験が終わったら、ご飯にでも行かない?」
「……。」
「ゆかちゃんのこと本当に好きなんだよ。」
ゆかの心は、笑っていた。バカだなって思った。誰かひとりに、好きだなんて、面と向かって言うなんて。ゆかは、あざ笑う。
けれど、ゆかがまだ経験したことのない気持ちを、塾講師は、知っていた。誰かを愛するということを知っていた。
やろうと思えば、何でも起用にこなしてしまうゆかは、あっさり受験に合格した。
しかし、塾を辞めてからも相変わらず塾講師のゆかへのアプローチは続いた。入学式を終えて、数日経った頃だった。ゆかが、授業を終え、ひとりとぼとぼと帰宅しようとしていると、門にひとりの男性が立っていた。塾講師だった。
ゆかが眉を顰めると、講師は、にやりと笑みを浮かべゆかの元へ近づいてくる。叫ぶとか、誰かに助けを呼ぶとか、考えなかった。それどことろか、ゆかは、講師に興味を抱きつつあった。“何故、ゆかを好きなのか”、“好きとはなんなのか”。試しに講師と付き合ってみるのもアリだと考えていた。
下校時間、門にスーツ姿の男性が立っているのは、さすがに不自然である。数名の生徒がひそひそと話す声が聞こえた。
ゆかの前に講師が立った。講師は、ゆかの手首を取ると、そのままゆかを引き連れて門を出ようとした。急に怖くなった。このままどこに連れて行かれるのだろう、ゆかの心はざわめいた。声も出せなかった、
「おっさん、なにやってんの!」
門を通ろうとしたら、ひとりの女の子がゆかと講師に向かって言った。
「その子、嫌がってんじゃん! 離してあげなよ!」
「……誰だよ。お前。」
「誰でもいーじゃん、嫌がってるんだから離せって。」
「……。」
彼女は、講師を、大きな瞳で睨みつけた後、その瞳をゆかに向ける。鋭い瞳に、ゆかは動けなかった。
「ねえ、嫌なら嫌って言わんと。」
「あ…、はなして、」
ゆかに、「はなして」といわれ、塾講師は、驚いて目を少しだけ見開くと、何も言えずにゆかの手首を離した。曖昧な対応しかとらなかったゆかに、初めて拒絶された講師は、急に顔を青くしてゆかの元から去った。ゆかは、笑った。馬鹿馬鹿しいと思った。
ゆかは、彼女を見た。きちんと捉えた彼女の顔は、パーツがはっきりとしていて、黒髪ショートボブが似合う細身の美人だった。きれいな顔立ち。ゆかは、何故だか彼女から目が話せなかった。
「……ちょーしのりすぎたかな?」
彼女は、ゆかにまじまじと見つめられて、戸惑った。そして、眉を垂らして頭をぽりぽりと掻いた。
先ほどまで、綺麗な顔立ちをますます美しく魅せるかのような、強い目。そんな顔をしていた彼女が、急に見せた子どものような笑顔。ゆかの胸がきゅ、と締まった。
「ううん、ありがとう。」
「ならよかった、じゃあ。あたし行くわ。」
それだけ言うと、彼女は駆け出した。
その日からゆかは、名前も知らない彼女のことが気になって気になって仕方がなかった。知っているのは、同じ学校だということだけだった。
ゆかは、彼女を探した。もう一度会えたらお礼を言いたい。そして、彼女のことをもっと知りたい。想いは募る一方だった。
しかし、ゆかの想いは、報われないまま、夏休みを迎えようとしていた。
終業式を終え、お昼を過ぎた頃にゆかは学校を後にした。終業式の為、下校時間がいつもより早くなる。校門を出てからも、同じ制服を身に纏った生徒たちの姿を何人も見た。ゆかが、青々とした木々を木陰に、バスを待っていたときだった。騒がしい自転車の二人乗りをする姿が、こちらへと向かってくる。ゆかは、一瞥して視線を元に戻した。
「のっちぃー! もっと飛ばしてー!」
「もう無理だから! 漕げん!」
「そう言わんと、あ〜ちゃんのこと好きなら頑張れるよ!」
「そんなあ、無茶だってば!」
もう一度、見た。
自転車を漕いでいるのは、あのときの彼女だった。
うしろに乗っているのは、可愛らしい女の子だった。彼女の腰に腕を回した女の子と彼女は、まるでカップルのようだった。
ゆかの前を軽快に通り過ぎたあとも、ゆかは、ずっと彼女を見ていた。たとえ、自転車を漕いでいる彼女の姿は、女の子で見えなくなってからも、彼女を見ていた。
それから暫くして、ゆかは彼女に恋をしたのだと悟った。
女の子に恋をするなんて、と思ったゆかだが、人をろくに愛したこともないゆかが、誰かを好きになるなんて珍しいこと。ゆかは、この片想いを貫くことにした。
のっちは、ゆかの電話の相手をしきりに気にしていた。窓ガラス越しに、のっちがこっちを見ているのを、ゆかは知っていた。
『…で、上手くいってんの?』
「まあ、“付き合ってる”し。」
『俺も上手くいってるよ。今日くらいヤりたいと思ってんだけどさ。』
ゆかは、男って単純だと思った。頭の中、そういうことしかないのかと思った。
ゆかは、のっちを見た。のっちは、ゆかと目が合うと咄嗟に視線を逸らす。ゆかは、くすりと笑みを零した。そして、のっちを哀れむ。
「…もうちょっと、ヤるの待ちなよ。」
『えー、俺、結構我慢の限界なんだけど。』
「そういうの、女の子ってがっつかれると嫌なんよ。引かれるよ。」
『そっか…。じゃあ今日は素直に樫野サンの助言を受け入れるとするよ。』
…ゆかは、何をしているのだろうか。
電話を終えると、ゆかは、ベランダから室内へ戻る。のっちは、電話の相手を気にしていたが、ゆかは誤魔化した。
自分を苦しめてまでも、のっちを好きなんだ、と思うと、ゆかは複雑な心境になる。
のっちから拒絶された、あの日を境に、ゆかとのっちとの連絡は途絶えた。
もっと縋ることも出来た。会いに行くことも出来た。少しでも恋人同士でいれた、それがたとえあ〜ちゃんの代わりだったとしても、ゆかはのっちと付き合っていたことを誇りに思う。
のっちが、勘違いをしたままならそれでいいと思った。そうでなければ、ゆか自身、のっちを忘れることが出来そうになかった。いい、機会だった。
進学校に通っていたゆかだったが、学校を辞めて実家に帰ることにした。親にも内緒で決断したものだから、母親は頭を抱え、父には怒鳴り散らされた。約1年間、アルバイト生活をした後、ゆかは、関西に出ることにした。広島を出る気持ちはあまりなかったゆかだったが、新境地で、新しい生活をしてみようと試みた。両親には、案の定反対された。ゆかは聞かなかった。
仕事は、すぐに決まった。ゆかは、女性客を中心に賑わう、お洒落なバイキングスタイルのレストランで働くことになった。飲食店の仕事は、覚えることも多く、多忙で休みも少ない。しかし、ゆかはこの仕事が好きだった。
休憩時間、ゆかは近くのコンビニエンスストアに出かけることにした。何故だか急にコーヒー牛乳が飲みたくなった。羽織だけ羽織って、裏口から店を出て、徒歩数分のコンビニまで歩いていく。
空は、雲ひとつなかった。青く澄んだ空は、高校時代を思い出した。空を見上げると、ゆかは、のっちを思い出す。高校時代のような胸に込み上げる強い想いは、もう感じることはないけれど、ゆかは、暫く空を見ていた。
コンビニに着くと、ふらふら雑誌のコーナーに向かう。ファッション雑誌をぱらぱらと捲って、再び棚に戻すと、コールドドリンクの棚へと向かった。棚の前で、ゆかより先にドリンクを選んでいる女の姿があった。ゆかも同じように棚に向かい歩いていると、彼女の2歩後ろにきたところで、いきなり彼女が振り向いたため、ゆかとぶつかりそうになる。「すいません、」ぼそりと彼女が謝ったので、ゆかはお辞儀を返すことで返事をした。
棚に、コーヒー牛乳はなかった。
「コーヒー牛乳、ない…。」
ゆかは、一瞬でフラッシュバックした。
のっちと、会った、あの日のことを。
胸騒ぎがした。思わず、振り返らずにはいられなかった。
「ゆかちゃん…っ!」
空は、青かった。
ゆかは、のっちに、また、会えた。
最終更新:2010年11月07日 02:44