まわりは中学生特有の思春期真っ只中だというのに。それとは無関係に、あ〜ちゃんの日常は過ぎていった。先生からも褒められることが多く、任せられた仕事は責任を持って果たした。友達もたくさんいる。同じクラスだけではなく、休み時間となればクラス外の友達もあ〜ちゃんを尋ねては、教室へとやってくる。あ〜ちゃんは、人気者、だった。
けれど、その平凡で穏便で、誰もが羨ましがるような人生を、つまらない、と感じるのも、あ〜ちゃんだった。
「あの子…。」
帰り道、友人数人と下校していると、見覚えのあるうしろ姿が、ゲームセンターへと消えていくのを見かけた。
「ああ、大本さんじゃん。」
「やっぱり? あ〜ちゃんもそう思った!」
あ〜ちゃんは、自分の思っていたことが正しかったとわかると、ぱあっと笑顔を見せるが、喜ぶ間もなく、別の女の子が話を続けた。
「帰りにゲーセンとか行ってたんだ。」
「友達、おらんもんねー。」
「なに考えとんか、わからんしー。」
友人たちがゲームセンターを覗きながら、大本の話をするのを、あ〜ちゃんはただ黙って一歩うしろを歩きながら聞いていた。
次の日、あ〜ちゃんは休み時間になると、席を立った。
「あ〜ちゃんと、友達になろう。」
それが、平凡で穏便で、誰もが羨ましがる人生を、変える一言だったなんて、誰が予想しただろうか。
「俺と付き合って。」
高校生活も2年目となった初秋、想いを寄せていた彼から告白された。あ〜ちゃんは、浮かれる気持ちを抑えて、のっちが待つ自転車置場へと向かう。この込み上げる喜びを誰に聞いてほしいかと言えば、間違いなくのっちだ。のっちしかいない。のっちは、きっとあの大きな目を更に大きく見開いて、驚いたあとに、「おめでとうっ!」と一緒になって喜んでくれる。あ〜ちゃんは、信じていた。
しかし、予想は外れた。
いつものように、ふたりでひとつの自転車に乗る。掴まる体は、確かにのっちなのに、何故だかのっちではないように感じられずにはいられなかった。つまらなそうに返事をするのっちに、次第に苛立ちさえも覚えた。
あ〜ちゃんは、寂しくなった。降りる、と言った。すると、のっちは、あ〜ちゃんを引きとめた。今日は、人生でいちばんのっちに伝えたい日だったのに、素っ気無い背中に、あ〜ちゃんは泣きそうになった。
いつ伝えようか。逸る気持ちは、押さえられそうにもなかったのに、のっちの態度が原因で、あ〜ちゃんは結局言えずに家の前に着いてしまった。どうしても、今日、言わなきゃ。その想いが、あ〜ちゃんに一歩踏み出させた。
「のっち…聞いて?」
「あ〜ちゃん、松本くんと付き合うことになった。」
のっちは、あ〜ちゃんの眼を見てはくれなかった。
「……おめでとう。」
けれど、あ〜ちゃんはその一言だけで十分だった。心の緊張を解すのに、のっちの“おめでとう”は、十分過ぎた。大好きなひとが、喜んでくれた。それだけで、十分だった。
松本くんと付き合いだして暫くした頃から、あ〜ちゃんは、のっちの異変に気付いた。避けられている気がする。それを受け入れたくなかった。のっちには、ゆかちゃんという、髪が長くて綺麗な女の子の友達が出来た。何となく親密な関係を羨ましく思うのも、また、事実だった。のっちの隣にいるのは、いつもあ〜ちゃんだと思っていたのに。急に寂しくなった。
いてもたってもいられなくて、家を飛び出した。あ〜ちゃんは、自分のせいでまたのっちが夜遊びをするようになってしまったのではないかと思った。のっちが、心配だったのも、事実で。
のっちの家の前に着くと、玄関から出てきたのっちと鉢合わせることになった。そのまま公園まで歩いていく。
久しぶりに顔を合わせるのっちは、あ〜ちゃんの知っているのっちではなかった。知っていたとしても、中学時代の荒れていたのっちととても似ていた。
泣くつもりなんて、なかった。なかったのに、自然と声が上ずった。ひんやりとした空気を吸い込むと、胸が余計に苦しくなっていく。涙溢れる目を擦っていると、急にぬくもりに包まれた。
「のっ…!?」
急に抱きしめられて、咄嗟にのっちの名前を呼んだ。離れていたふたりの距離を取り戻すかのような抱擁が、綾香は、嬉しくてたまらなかった。嬉しくて、のっちの背中に腕を回した。なのに、回した途端に、離された。あ〜ちゃんが驚く間もないまま、のっちは残酷なことを言った。
「…ゆかちゃんとヤッた。」
「え…?」
「のっち、ゆかちゃんとセックスしたんだよ。」
気がつけば、手が出ていた。乾いた音が公園内に響き渡り、興奮してひどいことをたくさん言った気がした。のっちからもたくさんひどいことを言われた。のっちが、何でこんなことをあ〜ちゃんに告げるのか、あ〜ちゃんはさっぱり分からなかった。分からないから、ただ、のっちは変わってしまったとしか思えなくて、今すぐ松本くんに会いたくなった。
のっちと公園で別れたあと、あ〜ちゃんの足は、松本の家へと向かった。松本は、突然の彼女の自宅訪問に、浮かれるまま部屋に上げた。あ〜ちゃんは、松本に何があったのかは、話さなかった。話さない代わりに傍にいてほしかった。なのに、
「ちょっ…なに、」
ベッドに並んで腰掛けていただけだったのに、松本は、あ〜ちゃんをそのままベッドに押し倒した。
「俺が、慰めるから。」
降ってくる松本の体に抱いた感情は、嫌悪感。
「いやっ…!」
「…あやか?」
「やめて、お願いだから…。」
なんでなんでなんで。泣きたくなった。これから続く行為は、容易く想像出来た。想像出来たから、あ〜ちゃんは拒絶した。のっちがゆかちゃんとした行為を、今から自分が体験するのは、気持ち悪くて吐き気がした。
高校を卒業した今は、高校時代が嘘とでもいうかのように、平穏だった。17歳の1年は、あ〜ちゃんにとっても濃い1年になった。
相変わらずのっちとは、仲良くやっている。いつの間にか、のっちのご飯係が定着してしまったあ〜ちゃんだったが、満更でもなかった。のっちの喜ぶ顔が見たいだけだった。エプロンを身につけて、この部屋で料理をするのも、半年になる。今日の夕食は、のっちのだいすきなカレーライスだった。あ〜ちゃんがのっちの住む部屋で、帰りを待ちながら調理していると、決まってのっちはジュースを大量に買って帰る。小さなパーティーのはじまり。
携帯電話が鳴った。また、「あ〜ちゃんジュース、何がいいー?」って、あの甘えた声で電話をかけてきたのか、そう思いながら通話ボタンを押す。
『あ、あ〜ちゃん?』
「なんよ、ジュースはペプシがいいっていっとるじゃろ?」
『違うんよ、今日ね、友達連れて帰ってもいい?』
「ともだち?」
『うん! もう決定事項なんだけどさー。じゃ、またあとでね!』
「ちょっと、のっち!」
あ〜ちゃんが、詳しい話を聞きだす前に電話は切られた。のっちの友達が来る。どうしよう。そもそも、その友達は、のっちとあ〜ちゃんの関係性を知っているのか。そこがあ〜ちゃんは気がかりだった。
「あ、カレー!」
おろおろしている暇はない。美味しいカレーを作りあげないと、のっちにもその友達にも申し訳ない。あ〜ちゃんはカレー作りに集中することにした。
30分ほど経った頃、がちゃり、と玄関で物音がする。あ〜ちゃんは濡れていた手をタオルで拭いて、エプロンをばさりと脱ぎ捨てて、玄関へ向かった。のっちの友達って誰だろう? どんな子なんだろう? そんな疑問を抱きながら。
「ただいまー。」
「おかえりー。あれ? 友達は?」
「ん? ほら、早く。」
「……久しぶり。」
のっちの後ろから、ひょっこり現れたのは、
「ゆかちゃん!!」
あ〜ちゃんは驚いて、思わず、ゆかの肩を持った。ゆかは、照れ笑いを浮かべて、頷いた。
「ゆかちゃんね、この近くのレストランで働いてて、たまたまコンビニで会ってさ。それで、ご飯おいでよーって誘って誘って、やっと来てくれたんよ。」
「そうなんじゃあ…。」
「…ゆかも、いいん?」
「当たり前じゃけえ! みんなで食べようよ!」
ひとりでも、ふたりでも、ない、空間。楽しさが、嬉しさが、またひとつ増えていく。
空は、今日も、青かった。
最終更新:2010年11月07日 02:45