「あーさむい…」
まだ明けて間もない空に、白い息が溶けていった。
今でもときどき、こんな冬の朝には目が覚めてしまうよ。
よく晴れてるのに、まだ太陽の光が強くなくて、
なんだかあいまいにぼやけた青い空。
公園から続く長い坂道を見下ろしながら、
思い出さないようにしていた記憶を、ゆっくり紐解いてゆく。
それは今日と同じくらい、とても寒い朝のことだった。
◆
「のっち」
朝ごはんの片付けをして、外に出る仕度を始めてる。
私じゃなかったら、すこし固いことには誰も気づかないくらい、
いつもみたいに呼んでくれる君の声は、やさしくてやわらかい。
「うん?」
また布団にくるまりながら、後姿を見つめてみる。
背中越しに何か言いたげな空気が伝わってくるよ。
「話が、あるんよ」
何を言いたいかは、分かっているつもりだった。
確かに持ち寄った愛情と、その先にある不安を。
行き詰った思いに、打ちひしがれそうになる現実を。
ずっと一緒にいたから。いや、心から君を思ってるからかな。
さすがに、わかるんだよ。
「…うん」
細い肩に、こみ上げそうになる思いを抑えながら、声をしぼるのに。
だめだな。いざってときになると、ちゃんと声が出てくれない。
「あ、でも…もう行かんといけん」
腕につけた時計を見ながら、目を伏せていう口。
すこし考えるしぐさをして。君はタイミングを外した。
立ち上がってカバンを手に取る。
玄関へ行こうとする後姿に、わかってるって言ってあげたい。
「あ〜ちゃん」
やっと出た声は君の名前を呼んだ。
「のっちわかってるよ、だから…」
乾いた声が頼りなかったのかな。
振り向いてこちらに寄ると、私の髪をやさしくなでた。
頬を触って、唇が近づいた。
あ〜ちゃんの表情は、とてもやさしいのに。
心の中にたたえた抑えようのないやりきれなさが、唇の端からこぼれてる。
いつの間に、こんな顔をさせるようになってしまったんだろう。
…目を閉じる。静かだ。
キスって、こんなに静かだったんだな。
「…もう、行くね」
あ〜ちゃんが開けたドアからは、朝の陽射しが差し込んで。
それが後光みたいに、いとしい君の身体を包んでた。
消えていこうとする後姿を。
目に焼き付けるには最高の風景だった。
それからしばらくは会えなかった。
できないままだった。
いつもみたいに帰ってくることも、こっちから帰ることも。
長い間一緒にいたから、明確な言葉とかちゃんとしたきっかけは、もういらないと思った。
それを言わせることが、どれだけつらくて、どれだけ傷つけてしまうことか、
よくわかってるつもりだったから。
どうしようもないんだ。好きなことはわかってる。
だけど、それだけじゃどうしようもないこともある。
蛇口から流れてくる水は、なんにも濁ってなくて冷たい。
顔をじゃぶじゃぶ洗ってその潔さに救われた気がした。
顔を拭くタオルひとつとったって、君が選んだ柔軟剤の匂いがするよ。
言ってないことがたくさんある。
いつも一緒にいてくれてありがとうって。
どれだけ楽しかったかわからないって。
でもそれを伝えてどうなるっていうんだろう。
それに、本当に言いたいことはそれだけじゃないはずだった。
…不意に携帯を手に取る。
やっぱり、会いたい。
「会いたい」
そのたった四文字に、心が壊れそうなくらい胸がくるしくなった。
どんな気持ちでその四文字を打ったかと思うと、
今すぐにそばにいって、抱きしめてあげたい衝動にかられた。
わかってるよって。のっちは言った。
何をわかってるんだろう。全部のことをわかってるのかな。
でも、その言葉を信じたいと思った。
『…ずっと一緒にいられるよね?』
何年か前、抱きしめられて思わず口に出したことを思い出した。
自分の言葉に、自分で胸がつまった。
できれば、ずっと一緒にいたいよ。
だってあなたは。
いつもあったかくて大きくて。
やさしくてちょっと恥ずかしくなるぐらい素直で。
こんなに思ってくれる人は、もう一生会えない。
それぐらい。誰よりも私のことを大事にしてくれてる。
誰も許してくれないかもしれない関係に、
一緒に逃げようって泣いたこともあった。
でも。
それはできなかった。
その小さな頭の中の不安や悩みを、
一緒に考えてあげることすら、私はできなかった。
ずっと一緒にいたい。
でも、それができなくなるってわかっているなら、
手を離すべきなのは、私でしかない。
なんだか部屋にいられなくて、家の前の公園でぼんやりする。
昨夜は、眠れないかと思ったのに、意外にもよく眠れた気がした。
それもたぶん、君が私のことを思いながら眠ってくれたからなんだと思う。
でもね。早く目が覚めたってしょうがないよ、こんな朝は。
ただ来るのを待つだけになってしまうから。
変なメールをした次の朝はだいたい早くから来てくれてた。
困ったような笑顔を浮かべて、何も言わずに抱きしめられてくれた。
そんなことを思い出した。
…会いたいって言ってしまった。
それはもしかしたら反則だったのかもしれない。
あ〜ちゃんに言いたかったことを思い出そうとした。
人生を変えてくれてありがとうだったっけ。
本当に大好きだったよ、だったっけ。
自分で苦笑いだ。そんなことじゃないよね。
早朝の誰もいない公園に、自分の足音だけが響いていく。
砂を蹴って。
わかってるよって言ったけど、本当は君と乗り越えたかった。
君に本当にしあわせになってほしいって。
ずっと、いつかは手放さなければいけないって思ってたけど、
できればそれを自分の手でそうしてあげたいって。
二つに分かれてしまった自分をくっつけるために。
会いたいって送ったんだよって。
刺すような冷気になんかひるまない。
もっと大切なことが、これから待ってる。
朝早くに乗ったいつもの電車は、誰も乗っていなくて、心細かった。
何を考えたらいいかな。きちんと、何を話すか考えた方がいいの?
のっちの家に続く坂道を登りながら、いろんなことを思い出した。
思い出していたら、知らずに涙が流れていた。
この思い出を続けることは、どうしたらできるんだろう。
頬が濡れて、風がよけいに冷たくなる。
胸の真ん中あたりがすうっと身体の中心に集まっては、あふれ出してくる。
今まであきれるくらい泣いてきたけど、こんな涙を私は知らない。
のっちがいたら。やさしく拭いて、手であっためてくれるのにね。
坂の上に公園が見えてくる。
まだ誰もいないはずのその場所に、似つかわしくない人。
見慣れた後姿に心臓がつぶれそうになった。
コートのポケットに手を突っ込んでは石を蹴ったりして。
ときどきしゃがみこんで、砂を指でいじって。
よく晴れた空に向かって両手を伸ばして深呼吸なんかしてる。
手を伸ばしたい衝動にかられるのに。その名前を呼びたいのに。
声が出ない。足も動かない。
その姿があまりにもいとしいから。これ以上苦しめられない。
これ以上引っ張って、最後にもっとずっと悲しい思いをさせるなんてできない。
身体は知らずに後ろを振り返っていた。
上ってきた坂道は途方もなく急に見えた。
息を吸い込んだ。むせかえって、咳に気づかれないように。
小さく、すこしだけ。
もう少しの勇気があれば、叶ったのかもしれない。
だけど、もうあげられるものはない。
今の私は。
あなたのために、黙ってこの坂を下りることしかできない。
◆
あの日と同じように砂を蹴って、大きく息を吸い込んだ。
むせかえらないように注意しながらね。
結局、君はこなかった。こなかったことになってる。
でも気づいてたよ。
最後のあの日、ちゃんと君はそこにいてくれた。
鼻先をかすめる匂いに、気づかないわけがなかった。
だから両手を高く上げて、深呼吸をして。
君と一緒にいられた最後の空気を、自分の中に溶かしたんだよ。
…今となっては。
会うことができなかったあの日のことなんて、
ずっと思い出さないようにしてたけど。
もし、あの時会えていたら、
もしかしたら、私は今とは違う人間になっていたのかな。
君と私は何かを見つけることができていたのかな。
そう。
結局、願いは叶わなかった。
でも、あ〜ちゃん。
君が答えとして出してくれたものは、ちゃんと心に届きました。
それで、届いてるってことがちゃんと伝わってるって信じてるよ。
それでね、いつか思い出してくれる?
いつまでも、忘れないでいてくれる?
ねえ、あ〜ちゃん。
あ、そういえば、もう呼ぶこともないけど、あ〜ちゃんって、いい呼び名だよね。
願ったようなきれいな形じゃないけど、
違う形でいつまでも、きっとつながってるって。
それぐらいは、願ってもいいかな?
(おわり)
最終更新:2008年12月06日 02:11