『今日の夜8時半。学校のプールサイドに来て(鍵はあけておくけえ)』
あ~ちゃんからの、久しぶりのメール。
最後のメールのやりとりは、あたしが1週間前に送信した『あ~ちゃん、怒っとる?』で、それっきりレスは来なくて。
あたしはへこむを通り越して、もはや陥没レベルに落ち込んでた。
だから、メールが来た時、あたしは自分でも目が落っこちるんじゃないかって勢いでガン見して、もう何十回もその短い文章を読み返した。
それから、時間が経つのがじりじりするくらい遅くて。やっと、約束の8時半。
スニーカーの足音を夜の世界に響かせながら、あたしは駆けこんで、勢いよくプールの更衣室のドアを開けた。
息を整えながら、プールサイドに出る。不気味なほど静かだ。風の無い、ねっとりと暑い空気。揺らめく水面の光とかすかな水音が、重い静寂をかき乱す。
あたしは、あ~ちゃんの姿をさがした。
…いた。
あ~ちゃんは、向こう端の飛び込み台の上に腰かけて、足をぶらぶらさせていた。
ライトが逆光で、顔の表情が見えなくて。あたしは駆け寄りたいのに、何となく近づけない。
「…のっち」
久しぶりの、あ~ちゃんの声。少し突き放すように響くけど、語尾に甘さのある、独特の声。
あ~ちゃんは足をぶらぶらさせながら、まっすぐにこっちを見てる。壁を作ってる時の、あ~ちゃんの雰囲気だ。こういう時、あたしは身動きがとれない。
あ~ちゃんは、歌うように続けた。
「うち、指輪落っことしてしもうたんよ」
「…え?」
「のっちから借りた指輪。のっちのママのなんじゃろ?大事なものなのに、プールに落っことして見つからんのんよ」
「……」
「…のっち、プールん中、捜して」
そう、ツンとした口調で静かに言ったきり、あ~ちゃんは黙った。
あたしは夜のプールを見下ろす。水は黒く、たゆたっていた。底が無いかのように見える。闇が溶け込んだような色。妖しく光る揺らめきが、あたしを誘う。
…そんなん。拒否権なんか、あるわけないじゃろ。
あたしは少しのためらいもなく。プールに飛び込んだ。
ざばん、と大きな水音がした。わきあがる水泡。肌を刺す冷たい水に、心臓がどきどきする。
プールの底に沈んで、暗い水の中を泳ぐ。プールサイドのライトが、水中で屈折して輝く。…きれいだ。そして、とても静かで。
はじめて見た世界。少しこわいけど、でもとてもきれいだ。…あ~ちゃんにも、見せてあげたい。
水中から顔を出すと、あ~ちゃんがプールサイドでうずくまって、
「のっち、のっち!もういいけえ、もういいけえ、早う上がって!!」
と叫んでいた。
あたしは驚いて、ばしゃばしゃと水音を立てながら、急いであ~ちゃんの側へと向かい、プールから上がった。
水滴をぼたぼた落としながら、あ~ちゃんの側に寄って、手を伸ばすと邪険に払いのけられる。
あ~ちゃんはうずくまって体をぎゅっとこわばらせたまま、
「…っ、何でそんなことするんよ?!」
「あ~ちゃん?」
「溺れたらどうするんよ?!」
「溺れる、って…プールじゃけえ、いくらのっちがアホでも溺れんよ」
「でも、真っ暗じゃった…水の中ののっちが、全然、見えんかった…」
あたしはもう一度、あ~ちゃんの肩に手を伸ばす。震える肩。あたしの髪からも腕からも水滴が落ち続けてるから、あ~ちゃんを濡らしてしまうことに一瞬躊躇したけど。
結局あたしはあ~ちゃんの髪と、肩をそっと撫でる。今度は、払いのけられなくてあたしはほっとする。
「…のっち、嘘じゃけえ」あ~ちゃんは鼻をすすりながら言う。「のっち、うちの言うこと、いちいち全部きかんくってええんよ」
「でも、プールん中きれいじゃったよ」
あたしの間の抜けた返事に、あ~ちゃんは呆れた、という顔をして。
あ~ちゃんはぎゅ、っとあたしの制服をつかんだ。あたしから滴り落ちる水滴が、あ~ちゃんの髪も制服のブラウスもすっかり濡らしてしまっている。
いつもはつんと鼻をつくプールの匂いが。何だか、やけにどきどきさせる。
あ~ちゃんはあたしの肩に額を寄せて、うつむいたままぽつん、と言う。
「あ~ちゃんのことなんか、嫌いになりんさいや」
「…なれんよ」
「嫌いにならんと、嫌いになるけえ」
「…じゃけえ、なれんけえ」
あ~ちゃんは、強い言葉とは裏腹に、あたしの背中にまわした手にぎゅ、っと力をこめた。
…どっちなんよ。
あ~ちゃんの心は、のっちには読めない。
さっき見た、夜の水中世界みたいに。水面はきらきらと輝いてるのに、底が見えない。揺らめく水に光は乱反射して、ゆらゆらとほの暗く光る。
…よく分からないけど。でも、きれいで。
ああ、もう。もどかしいんだ。夏の夜って、なんだか何かをもてあましてしまうんだ。
ほら。さっきまで冷んやりと濡れて心地よかったブラウスも、蒸し暑い熱帯夜のせいでねっとりと生温かくなって。ゆっくりと、お互いの体温が上昇する。
あたしはあ~ちゃんの頬に手をやって、少し顔をかたむけて口を近づけると、あ~ちゃんは急いで体を離して、ぷいっと横を向いた。
「当分、のっちとはキスをせん」
「…へ?!」
あたしがキスする体勢のまま固まってぽかんとしてると、あ~ちゃんは「のっち、マヌケ面しとるよ」とふふんと鼻を鳴らして笑った。
「え、なんでなんで…?」
「理由なんて無いけえ!」そんな理不尽なことをめっちゃふんぞりかえって言った後、「せん、言うたらせん!絶対絶対せんけえ!」
…もう、何なんよ。
「…でも」あ~ちゃんはそっぽを向いて続けた。「…手は、つないでええよ」
そう言って。あ~ちゃんは、目をそらしたまま、手を伸ばしてきた。
…ああ、もう。まったく。もどかしいなあ。
この手を押さえつけるのは簡単だけど。プールに突き落とされそうだから。…今日のところはこのくらいの感じで。
あたしは、そっと、手を重ねた。
終り。
最終更新:2008年10月10日 05:03