−K-side
私はいつも、相反する二つの感情に占有される。
中庸に戻されることのない思考は両価性を持ったまま、
さらにパラレルに走っていくんだ。
「で、なんとそ、そこで!!」
「あ〜ちゃんが言ったんじゃあ…『なんか、高まっちゃったみたい、親和欲求』」
「ひゃあ〜これはもう心のベストテン第一位じゃね!!!」
ホットパンツから伸びた奔放な足をばたばたさせて、
のっちはうちに来るなりあ〜ちゃんのことを話し始めた。
その様子は恋を覚えたばかりの男の子みたいだ。
「学校に連れてくなんて、また大胆なことやったねえ」
「まあ、ね。あ〜ちゃんがどうしてもって言うから。へへ」
長い年月をかけて、ようやく始まった目の前の恋は、
マグカップに注がれたミルクみたいだ。
あったかくてほのかに甘い。匂いをかぐだけで、なんだかしあわせな気持ちになる。
含んだそれを飲み下すと、白い膜みたいなのが口の中に薄く広がった。
そのしあわせをただ味わっていたいのに、拭いきれない後味が口中を覆う。
いつだってそうだ。
こうやって、私はひとつの感情におさまることができないでいる。
小悪魔なんて言われてそれに乗っかってるくせに、人に嫌われるのが怖い。
自分のことが大嫌いなのに、変なプライドはある。
自分の必要性に疑問を感じるのに、人の気を引きたい。
今だって。
二人のことを心から応援しているのに。
私はそれを手放しで祝うことができないでいる。
昨日、二人は楽しそうにキャンパスを歩いていた。
見慣れない光景にすこし戸惑ったけれど、
それはあまりに自然で、あまりにもいとしい光景だった。
手をつなぐこともなく、微妙に保たれた二人のわずかな距離がより一層、
この恋が初々しくて守るべきものだということを感じさせた。
あの数10cmの隙間に入り込むこともできたと思う。
実際、通りの反対側で姿を見かけたとき、うれしくなって右手が反応した。
…ふとベッドに目をやると、はしゃぎっぱなしののっちは仰向けになって、
私の枕を空中に投げては自分の顔に落として、を無心に繰り返している。
それが楽しいみたい。ひとり遊びが得意な子だなあ。
思わず口元がゆるんでしまうくらい、微笑ましい。微笑ましいのに。
のっちの足に絡まるシーツでできた波が、また感情を別の方向へ連れていこうとする。
『今日ぐらいはさ、甘えてよ』
少し前の夜、響いたのっちの声。
ばかみたいな高い声じゃなくて、低くてやさしい声だった。
同じベッドに同じ人。変だと言われれば変だと思う。
「あ!今日は聞いてもらいたいことがあったんだった!!」
また空中に枕を投げたとたん、のっちが叫んだ。
次いでバサっという枕の落ちる音。
突然の声に思考を止められた。すこし、救われた気がした。
「なに?」
「いや、その…」
今度は急に顔をしかめて、枕を抱っこしながら体を回転しはじめた。
ベッドの端から端までごろごろ転がってる。
「ゆかちゃんにまたこんなこと言うの、申し訳ないんだけど…」
残ったミルクの後味が、喉を乾かせた。
のっちがこういう前置きをするときは、いつだって決まっている。
「あ〜ちゃんが、その」
「い…いかんのよね」
いく?行く?
まてよ…ああ、そういうこと。
よりによって、そんなこと、か。
口の中に広がった白い膜が次第に苦くなっていく。
なかなか剥がれようとしてくれない。
『…気持ちいい?』
押し倒されたときの真剣な目。
空へ伸びてるみたいに自由で奔放だった手。
耳元で発せられたその言葉の熱さに、私は何かが外れてしまったんだった。
でもそんなことでは今は何も外れなかった。
あの夜、のっちはこうも言った。
『傷舐め合ってるだけじゃよ』
両手で握りしめたマグカップは、もうあたたかくはなかった。
「…イかないって、まあそういうのは体調とか体質とか関係あるだろうし」
「うーん。でも、前はちゃんと…」
のっちは相変わらずベッドの上を回転しながら時折壁に頭を押し付けてうなっている。
前はそうだったんなら、やっぱり精神的な問題なのだろうか。
自分の中に感じた違和感を見捨てて、こうやって考えが広がっていく。
いつだってこうだ。
何かひとつの感情に支配されることを恐れ、すぐに色んな思考を交錯させる。
思い当たるふしがあった。すこし息を吸い込んで、切り出していく。
「あ〜ちゃん、なんか気づいてない?」
「ちょっと前だけど…あの夜のこと、それとなく聞こうとしてきたよ」
「のっち、なんか言っちゃった?」
「え!!」
のっちの動きが止まる。目をカッと見開いた。
フリーズしたままぶんぶんとかぶりを振っている。たぶん嘘はついてないのだろう。
「ゆかちゃーん」
「あ〜ちゃんに嫌われてたらどうしよう。。うぇーん」
眉を八の字にさせて情けなく目をうるませている。
『…イヤ?』
八の字になった眉がまた脳裏をよぎった。
抱きしめられた腕は思いのほか強かった。罪悪感を消すために。
あ〜ちゃんへの深い愛情が、精一杯の抵抗を続けさせていたのがわかる。
まただ。二人のことを考えようとすると、また記憶が邪魔をする。
「そっかそっか。ごめんね。」
思考を打ち消すように、そう言ってのっちの頭をぽんぽんと叩いた。
今日初めて触る。正確に言えば、プライベートで触るのはあの夜以来だった。
形のいい頭はなでるのにちょうどいい大きさで、
なでているのになでられているような気持ちになる。
あ〜ちゃんはこんなヘタレなところもちゃんと愛してくれとんよ?
だから心配ないよ。仕方のない子じゃねえ。
そう言おうとしたとき、自分の中に何かが閃くのを感じた。
ああ、きっとそうなんだ。
傾きかけた陽射しを背にして向けられた、
このすこし苦しくてせつなくて、それでも恥ずかしいくらいやさしい視線。
今の私は、きっとあのときのあ〜ちゃんと同じ目をしてるんだ。
だからあのとき、潜り込めそうな二人の間の距離を見つめながら、
上げかけた右手を下ろしたんだ。
持っていたマグカップをテーブルに置いた。
カタン、という音でまたひとつの感情を棚上げにしようとする。
自分の思いを客観的に認識してしまうと、思考は思いのほかシンプルになる。
頭と身体がきれいにつながって、見える世界が途端にクリアになっていく。
のっちからそらせない視線。あれに、また触りたい。
同時にもうひとつの思考にも答えが出た。こっちも答えはシンプルだ。
あのあ〜ちゃんに、うまく取り繕う方法なんてない。
一度投げてしまった石が起こした波紋は、もう消えることはないだろう。
私がきちんと説明するまでは。
でも、どちらの答えも、現実に導くことはできなかった。
その回答は、前提条件を満たせていない。
あ〜ちゃんを傷つけるわけにはいかない。
「ゆかちゃんどーしたん??」
「なんかつらそうな顔しとるよ」
無邪気な声に思考が止められてしまう。
おずおずと私の顔をのぞきこんでは、不思議そうにしている。
この人は変なところだけ勘が鋭い。
たぶん何の他意もなく発せられる言葉が、中に入って私をかき乱していく。
どーしたん、って。誰のせいで何を思ってどうやってそれを打ち消すか。
捕らわれてしまわないように、最適解を出せるように。
あなたのために、考えてるんだよ。
「頭いいくせに、顔には出ちゃうんだもんね」
いったい、何が出ているのだろうか。
それが何か気づいてくれたら、考えを止めることはできるのかな。
いけない。ここで沈み込んでしまったら、もう引き返せなくなる。
両価的な思考は得意な方だから。
「のっち」
「は、はい」
不意に名前を呼ばれて、はい、なんて答えて。
正座したのっちは言いつけを聞く子どもみたいだった。
「こうなったら、もう隠し通すしか道はないとゆかは思うよ」
「あ〜ちゃんが何か聞いてきてもとぼけ倒すこと」
「そしてできれば、あ〜ちゃんがそんなこと思う隙もないくらい、愛してあげること」
うん。これがベストではないけど、ベターには違いない。
「…」
「ちゃんとできる?」
「…自信ない」
「こら」
しょぼんとした様子に負けないように。私は言葉を続けた。
「イかないなんて、些細なことを気にしないこと」
「あ〜ちゃんはのっちのことちゃんと好きでしょう?」
「それを信じんさい」
「…」
のっちは神妙な顔つきで、じっと私の目を見ている。
だけど、のっちのことをちゃんと好き、のくだりで確かに目が明るくなった。
もう少し。もう少しだ。
「あ〜ちゃんは誰のために、何を脱いだか」
「それが、大事なんだよ。ちゃんと守ってあげなきゃ」
言い切って、放った言葉が喉の奥の白い膜に貼り付いていくのがわかった。
『…浮気じゃね、これは』
『傷舐め合ってるだけじゃよ』
また蘇る、伏せられた目と強い手。返事はしなかった。
誰のために、何を脱いだか。
そう。それが大事なんだ。
堰を切って出た言葉がおさまって、私は大きく息を吐いた。
二つの大きな問題のひとつには答えが出た。正解じゃないけど、現実解だ。
感情に逆らって、自己否定を繰り返す作業の跳ね返りは大きく、なんだかひどく疲れた。
そもそも逆らったと認識している時点で、私個人の答えもまた二つに割れているんだ。
これでいい。どうせひとつの思いには定められない。
ベッドにうつぶせになってまだ何かぶつぶつ言ってるのっちの隣に身を投げた。
妙に頭がさびしい。あ、枕。
せっかく横になったのに、私には枕もないんだ。
そう思ったら泣きたくなった。でも今泣いてはいけないとも思った。
枕もない上に泣けない私は、ただぼうっと天井を見つめるしかない。
その光すらまぶしくて左腕で目を覆う。
「…ありがとう、ゆかちゃん」
予期せずあたたかい空気に包まれる。
頭を持ち上げられて差し込まれたものは、さっきのっちに取り上げられた枕だった。
包まれるやさしい感触が、眠気を誘う。
布団をかけてくれる。お腹の上あたりをぽんぽんと叩く。
まるでのっちに寝かしつけてもらっているようで、すこしおかしかった。
布団ごしに感じる手から、やさしさとすこしの困惑が伝わってくる。
「おやすみ」
最後にそう言って、何度か布団から出ようとした後、のっちは身体を起こした。
考えを繰り返すことに必死で、態度まで取り繕う余裕はなかった。
のっちのことだから、きっと何かを察したはずだ。
その実体はわかっていなくても、何かがあることは、きっと伝わってしまってるね。
ごめんね、のっち。
でも、それぐらいは受け止めてもらってもいい?
今日は疲れたから。片側の気持ちを否定するもう一人の自分は、もう寝てしまったから。
あの夜と同じようにいくつかの言い訳を用意して。
「…行かないで」
私はのっちの腕をつかんだ。
カーテンから光が漏れたかすかな光とすーすーと立てられた安らかな寝息が、
まだ完全な朝ではないことを知らせてくれる。
右手にやさしい感触。あったかいな。
指と指がしっかり絡んだつなぎ方が、まだそれに甘えていいと言ってくれている気がした。
「ん…」
不意に打たれた寝返りで、のっちの温度が伝わってくる。
昨夜、のっちは触れてはこなかった。
だけど一度だけ強く抱きしめられて、何度か髪をなでてくれた。
一晩中ずっと、手を握っていてくれた。
布団の隙間から鼻腔をついた甘い匂い。きっとあ〜ちゃんがつけたそのしるしさえ。
鈍い痛みを刻むくせに、同時に安堵を与えてくれる。
…ああ、これか。匂いだ。
あ〜ちゃんはきっと、これに気づいたんだね。
「むぅ…」
何か言ってる。むにゃむにゃ、という音が聞こえる。
そしてその言葉ともつかない音の間で、
「あ〜ちゃん」という発音だけがはっきりと聞こえた。
…ほんとうに。
つめが甘いよ、のっち。
目が覚めたら、笑顔でのっちの背中を押してあげられるように。
私の匂いを消してから、ちゃんとあ〜ちゃんに返してあげられるように。
私は今のうちに少しだけ泣いておくことにした。
(つづく)
最終更新:2009年01月28日 20:59