「樫野さんってさ、好きな人いるの?」
あたしはその質問に、頬杖をついたまま目だけを動かして彼女の方を見上げた。
隣りのクラスの、数学の選択授業の時だけ席が近くの子。名前は…ゴメンナサイ、分かんにゃい。
彼女は何気ない風で、借りたノートを返しに来たついで、って顔をしてるけど。
うっすらと紅潮した頬や、しかめがちになる眉が、微笑ましいくらい彼女の緊張を伝えてくるから。
あたしは気づかないフリをしてあげる。
「好きな人って、…何で?」
「あっ、えっと、樫野さんバレンタインチョコ、義理以外は受け取らないって言ってた、って後輩達が噂してて…」
「…ああ」
「本命は、好きな人からしか受け取らないんだって、みんな騒いでて…」
「ふふっ、みんな騒いどるの?」
あたしは小首をかしげて、悪戯っぽく彼女を見つめた。
途端に、その子の頬がふわっと赤くなる。
…カワイイ。
あたしはゆっくりと立ち上がって、彼女の耳に顔を近づけながら、
「…ナイショ」
人差し指を唇に立てて小さく微笑んで、真っ赤になった彼女の横をすり抜けて教室を出た。
「また一人殺しとる…」
教室を出た廊下に、呆れ顔ののっちが腕組みをしてあたしを待ってた。
「あしらい方が罪深いわ、うちには出来ん…」
「のっちも諦めさせるの上手いじゃろ?」
あたしはのっちの肩を叩きながら、
「幻滅させて諦めさせてあげるなんてアホな優しさ、のっちくらいのもんじゃ」
「ゆかちゃん!」
のっちが眉を八の字にして抗議の意を表明した。四六時中モテたいとほざいてる彼女にとって、不本意な評価だったらしい。
まあそうは言っても。
のっちの足元には、本日の戦利品らしい、赤やピンクのリボンがのぞく紙袋がある。何だかんだ言って、おモテにはなるようで。
「のっち、いっぱいチョコもらっとるじゃん」
「んー、でも今回ゆかちゃんから流れて来たのもあるよ」
「ふうん?」
「ほら、さっきの子も言ってた、本命チョコ受け取らない宣言。あれで渡すの諦めた子が、ついででうちにくれたり」
「ついでなん!?」
あたしは笑った。チョコに込められた本気ってそんなもの?
…でもそれを馬鹿にすることはあたしには出来ない。
あたしはそのバカバカしいようなことに、あたしの決意表明みたいなことをしちゃったんだから。そう、たかがチョコレートに。
「結構ショックだった子いるみたいだよー?」
のっちはチョコの詰まった紙袋を大切そうに持ち上げて歩き出す。
「ゆかちゃんて、浅く手広く、つかず離れず、とっかえひっかえ、花から花へと移りわたるような感じだったじゃん」
何気に人聞きの悪いことを言う奴じゃね。
のっちはあたしの苦々しい視線を、持ち前の鈍感さで華麗にすり抜け、脳天気に続ける。
「それがここんとこさっぱり。…一番最後って…クリスマスイブに振ったやつだよね?」
「…そうだっけ?」
「しかしふつうイブに振るかね?」
「イブだろうと何だろうと、我慢出来んもんは出来んじゃろ」
そう淡々と言いながら、あたしははっと息を呑んで、
「のっち、それあ〜ちゃん知っとる!?」
思わずあたしの声が低く震えた。
のっちはあたしの動揺に気づいたはずだ。
でも今度は持ち前の鈍感さではなく、彼女特有のまっすぐな優しさで、
「あ〜ちゃんは知らんじゃろ」
と何でもない感じで言った。
あたしは小さく息をついた。
あ〜ちゃんには、知られたくない。
あ〜ちゃんは優しいから、きっとクリスマスイブに振られちゃった子を可哀相に思う。もちろんそれであたしを責めたりはしないだろうけど。話せばあたしの気持ちも分かってくれるだろうけど。
でも。ほんの一瞬、わずかでも。
あ〜ちゃんに「ひどいなあ」って思われたくない。
あ〜ちゃんの嫌いな「思いやりの無い人」みたく、一瞬でも思われたら。
それを想像しただけで、あたしの心臓が凍る。お母さんに見捨てられたちっちゃな子供みたく、足元から世界が崩れる。
「あ〜ちゃんと言えば、あ〜ちゃんの今年のチョコ、すっごい力作らしいよ」
のっちが大きな目をくるっと輝かせて笑った。
「あ〜ちゃんの手作り?」
「当然。あーあ、またあ〜ちゃんにはかなわないなあ」
「ゆかとのっち、2人がかりでも、あ〜ちゃんのチョコには負けるね」
あ〜ちゃんのチョコ。毎年毎年、あたしとのっちは自分達のいたらなさを心苦しく思いながら、それをありがたく、うやうやしく頂戴する。
3人のチョコ交換会の中で、飛び抜けて心のこもった、あ〜ちゃんお手製の甘いプレゼント。
…でも今年は。
あたしには、それは少しほろ苦い。
1月にあたしは本屋さんであ〜ちゃんを見かけた。
あ〜ちゃんはお菓子の本のコーナーで、真剣に手作りバレンタインチョコの本を立ち読みしてて。
あたしは、まだ1月に入ったばかりなのに、もう!?と可笑しくて、声をかけてからかってやろうと思ったけど。
あ〜ちゃんがあまりに真剣で。
うーんと吟味するように唇をひき結んだり、首をかしげたり。ほんのり染まった頬やまっすぐな視線。楽しそうに時々浮かぶ微笑。
すべてが。
たまらなく、かわいくて。
あたしは思い知らされてしまった。
…ゆかが欲しいのは、あれだ。あれ以外、欲しくない。
唯一無二のあ〜ちゃん以外、欲しいものなんて無い。
誰かの為に何かしてあげる喜びに微笑んでるあ〜ちゃんが、今思い浮かべてるのがゆかだったらいいのに。
あ〜ちゃんがゆかのことを想ってくれるなら。他の誰の本気もいらない。
あ〜ちゃんだけが、心から欲しい。
…そう、思ったんだ。
その切実な願いは、あたしの何かを狂わせて。
本当に欲しいと思えば思うほど、それに触れる指先が切れそうで、あたしはためらってばかりで。
完璧な計算ずくの甘い言葉なんて、想いの切実さの前では口にするのも浅ましく思えて。
あたしに出来たのは、誰の本気も受け取らないという決意表明。一方的で一人よがりな。
幼くて不器用な純情。遠回しでくだらない誓い。
たかがバレンタインチョコ。そんなもので。
受け取るあたしの本気を、あ〜ちゃんは知らない。
…ああ、きっと。
あ〜ちゃんのチョコは、甘い毒薬のようにあたしを蝕む。しびれるような、苦い悦び。
一口それを食べて、あたしの中の最高に甘い秘密とともに息絶えてしまえたらいいのに。
「ゆかちゃん?あ〜ちゃん待っとるよ。急がんと」
「うん」
あたしは、小さく笑った。
㈪へ続く
最終更新:2009年02月12日 16:04