音楽室の、ドアを開けた。
夕暮れが徐々に闇色に浸食され始めたうす暗い音楽室。ほの暗い茜色の中に、あ〜ちゃんはいた。
ピアノのそばでいじいじと佇んでいたあ〜ちゃんは、あたしの顔を見ると、
「…手紙、見たん…?」
とばつが悪そうな顔をした。
「…見た」
手紙の端っこに隠されていた、小さな小さな字。
『…本命じゃけえ。』
あ〜ちゃんはピアノの鍵盤を、ためらいがちにぽろん、ぽろんと叩く。
うつむいた横顔。逆光にふち取られた、柔らかな髪。
あたしはあ〜ちゃんの横顔が好きだ。古い宗教画から抜け出したような、愁いをおびた優しい表情をする。
「…やっぱ、家に帰ってから読んで、って言っとけばよかった」
あ〜ちゃんはくしゃっと笑ってみせた。
ゆかが落ち込んだり、困ってる時に見せる、「へっちゃらだよ」の笑顔。
こんな時でも、あ〜ちゃんは自分のことより、ゆかのことを気にかけてくれてる。あたしの負担を減らすように、自分は平気なふりをする。
「ゆかちゃんが、今回のバレンタイン、本命は受け取らんって言ったけえ、うち困ったんよ」
あ〜ちゃんはぷくっとふくれて、おどけて見せた。
けど、お茶目な口元とは裏腹に。目が潤んで震えてる。
「ほんとの事言ったら、ゆかちゃんは受け取ってくれん。何も言わんかったら、いつも通り、受け取ってはもらえるけど…。ズルいじゃろ、そんなん」
あ〜ちゃんの声が、震えた。それでも、あ〜ちゃんは笑おうとする。
「うちは、ズルいんよ。うちのチョコだったら絶対受け取ってもらえるけえ、何も言わんかったけど…やっぱり、そういうのいけん」
あ〜ちゃんは、笑おうとする。
でも、もう笑顔が作れなくて。
こわばった頬を、夕闇に溶けるように、静かに涙が伝っていた。
「ゆかちゃんには、ズルをしちゃいけん。うちの、一番大事な気持ちをごまかしちゃいけん。ちゃんと、伝えんと、いけん」
あ〜ちゃんはあたしを涙の光る目で、まっすぐ見た。
「…うちは、ゆかちゃんが好き」
その言葉は。
キラキラと至高の輝きを放ちながら。
まっすぐに、あたしを射抜いた。
「…あ、でもね、あ〜ちゃんが勝手に伝えたかっただけじゃし、ゆかちゃんは気にせんでいいけえ」
「…あ〜ちゃん」
「うちはゆかちゃんがただ好きで、もうそれだけで、いい。ゆかちゃんは変わらずにそばにおってくれたらいいけえ」
「…あ〜ちゃん」
「…玉砕覚悟、じゃけえ」
あ〜ちゃんはそう言って、今日一番の大きな笑顔を見せた。
…ああ、もう、この子は。
いっつも気持ちが先走って、勝手に決めちゃって、あたしについて来いって無茶苦茶を、満面の笑顔で言うんだ。
あたしの論理的思考も冷静的判断も計算的策略も、何もかもぽーんと、すっごくメチャクチャな一言で軽々と超えてしまう。
あたしのひねくり回した言葉(のっち曰わくキメぜりふの宝庫らしいけど)なんて、ストレートな豪速球でこっぱみじんにされてしまう。
あたしは、もう言葉が見つからなくて、かろうじて、
「…そんな覚悟、決めんくって良かったのに」
と、呟いた。
「…え?」
あ〜ちゃんがきょとん、とあたしを見る。
あたしは怪訝そうなあ〜ちゃんの表情がおかしくて、少し笑いながら、
「ゆかにふられると思っとったん?あ〜ちゃんが?」
「…ゆかちゃん?」
「そんな心配、せんどっても良かったのに」
あ〜ちゃんは相変わらず、キョトンとしてる。頭の回りに無数の「?」が飛びかっている。
…そっか。ストレートなあ〜ちゃんは、婉曲的表現や遠回しな言い方が苦手で、いつもはゆかが通訳してあげとるんじゃけど。
自分の気持ちの通訳なんて。恥ずかしくて、ゆかには出来ない。
…それに、もう言葉なんか役に立たない。
だから。
あたしはそっと、あ〜ちゃんの肩に手を置いて。ゆっくりと顔を傾けて。
ぽかんと目を見開いたままのあ〜ちゃんの、その咲きかけた蕾のような唇に。
そっと、あたしの唇を重ねた。
一瞬。
時が、止まったような気がした。
降りそそぐ無数の花びらのような、白く輝く光に包まれているようで。あたしは、くらくらして。
何もかも溶け去るくらいのまばゆい光の中、腕の中にいるあ〜ちゃんがただ一つ、確かなものだった。
…ゆっくりと、唇を離すと。あ〜ちゃんは、まだ呆然と目を見開いたままだった。
あたしはくすっと笑って、あ〜ちゃんの頬を軽くぽんぽんとたたいて、
「…じゃ、のっち待っとるし、ゆかは先に教室戻っておくけえ」
音楽室のドアを開けて出て行こうとした時。背後で、
「…っふぎゃあああああっ…!?」
と、真っ赤になったあ〜ちゃんがへたりこむのが見えた。
…もう、全く。可愛いすぎるじゃろ、あ〜ちゃん。
なんて余裕かましておきたいところだけど。
音楽室を出た途端、あたしもその場に崩れ落ちた。
…何なんよ、何なんよコレ…!?絶対、ゆかの顔、今真っ赤だ。
あ〜ちゃんとキスしてた間、至福の静寂に満たされていた心臓が、今さらながらばくばくと脈打って、あたしはうずくまって深呼吸をする。
…だって。
触れると血を流すかもしれないと恐れていたのに。
重ねた唇は、ただただとろけそうに甘かった。あんなに、柔らかいなんて。…ありえん、じゃろ。
それは、確実に致死量を超えた、甘い毒薬。
キスなんて、何度もしてきたのに、今さら。…何だってこんな。
「…ヤバい。ゆか死ぬかも…」
あたしは天を仰いで、救いを求めた。
You are the reason I die,
You are the reason I live.
…生きるも死ぬも、キミ次第。
終わり
最終更新:2009年02月12日 17:12