あーしあわせだなあ。
窓から射しこむ陽に目を細めて廊下を歩いた。
次の六限が終わったらまたあの笑顔に会える。
そう思ったら、足取りが軽くなった。
冬なのに陽があったかくて風もない。
けど、空気はたしかに冷たくて、吸い込むと背筋が伸びる思いがする。
君が生まれた月だ。どこか似てる気がするね。
…思いがけない形で始まった恋は、
想い続けてる時間が長すぎてすっかり焦れてしまった私を、
それを取り返せといわんばかりに、ひどく浮かれさせた。
いや、そりゃ実際浮かれるって。
ずっと好きだった子がこっちを向いてくれて、自分のためだけに笑ってくれる。
一緒にいるのにもメールするのにも、いちいち理由なんかいらないし、
君は理由なくいつも隣にいてくれる。
あ〜ちゃんは明るくてふわっとしてて。
かわいくって甘いくらいに女の子だけど、ちょっと強気で芯が強い。
それになにより、誰にでもやさしくって思いやりのある子なんだ。
あ〜ちゃんって声に出したら、足取りはまたいっそう軽くなった。
そうだ。こうやって、私の靴をいつも軽くさせてくれるんだ。
生物講義室から続く廊下を抜けて、
外付けの階段を降りようとしたときだった。
「…あや、ちょっと待って」
少しの強さとためらいを感じる声が頭上から聞こえてきた。
そんなに大きくはないけど、聞き手を引きつけるくらいの切実さがそこにはあった。
「付き合ってるってほんと?」
あーなんか、修羅場っていうの?
修羅場ってほどでもないか。やーでもけっこう深刻っぽいな…。
ゆかちゃんなら、きっと面白がって聞き耳をそばだてるんだろうけど、
生の感情のぶつかり合いっていうか、私はこういうのちょっと苦手だ。
とりあえず水を挿すと悪いから、面倒だけど階段は昇らないで教室に帰ろ。うん。
その時だった。
「ほんと」
聞こえてきた声に、心臓が固まった。
あと一時間後に私の名前を呼んでくれるはずのその声は、
少しの戸惑いを含んで、くぐもっていた。
「そいつのこと、好きなの?」
「うん」
うん、という言葉が発せられる間に、迷いがなかった。
それにいくぶん救われた気がして、吸い続けていた息をやっと吐くことができた。
「…俺のときより?」
「そういうの、比べるものじゃないと思う」
同時に肺に流れ込んだ空気は冷たくて、私の呼吸はまた自由を失った。
あ〜ちゃんの声色は少し固かったけど、なんていうんだろう。
情みたいなものが混じっているように聞こえて、
それがただのクラスメイトに対するものとは明らかに違うことを示していた。
「こういうの、困る」
「ごめん、でも俺…」
「授業始まるし、もう行くね」
去っていこうとする足音が2つぐらい響いた。
その音を追いかけるように震えた声が重なった。
「俺、まだ好きなんだ」
足音は、数秒だけ止まった。
それから少しの間をおいて、また彼女の歩みを刻んでいった。
人の彼女に何言ってんだとか。私の彼女に手出すなとか。
こういう場面じゃてっきり血は頭に上るもんだと思ってた。
だけど体中の血は、頭に上るどころか、
全身から引いていって固くなった心臓に戻ろうとしてる。
足元がすくむ。指先が驚くくらい冷たくなる。
だって、彼の声は祈るようにも感じたから。
その気持ちはきっと、本当に誠実な思いなのだろうから。
…校舎に予鈴が響いた。
二月の空気は澄んでいるから、それは容赦なく響き渡っていく。
『…あや、ちょっと待って』
それは私の知らない呼び名だった。
『比べるものじゃないと思う。』
その言葉は、適当な相手に向けられるものじゃなかった。
配慮のある彼女らしい言葉だと思った。
私にも、彼にも。
ここからだと廊下から漏れた音しか聞こえないのに、
鳴り響く鐘の音は私の心臓をやけに強く打ちつけて、
しばらく鳴り止まなかった。
「あ、かっしー。のっち知らん?」
にこにこしたあ〜ちゃんが廊下から窓越しに現れたのは、
終礼が終わってみんなが次々と部活へ消えていった頃だった。
「あーなんか急用とかいって先帰るって」
「ふーん…変なの」
「どうせゲームかなんかじゃろ」
きょとんとしてしばらく考えるように手を口元にやった後、
もう、と言いながらふわふわの髪を揺らせて廊下に消えていった。
「…もう行ったよ」
「はー」
斜め左上から合図の声が聞こえて、私は立ち上がった。
つい一時間前まで軽かった足は、鉛みたいに重くなった。
その声はちょっとあきれていて、でもどこかやさしさを含んでいた。
頬杖をついたゆかちゃんは私を見上げながら、
ちょっと困ったような顔をしてる。
「でさ、さっきの続きだけど…あ〜ちゃんの元彼って知ってる?」
「知ってる」
「…えええ。そうなの!?」
あまりの即答に声が大きくなったから、ゆかちゃんがしいっと人差し指を立てた。
その所作があまりに落ち着いていたので、よけいに慌ててしまう。
「その人、どんな人?何組?誰?」
「かっこいいの?やっぱ黒ぶちメガネ?」
「二人はどこまでいっとったん…?」
口をついて次から次へと出てくる質問に、ゆかちゃんは何も答えなかった。
のっちあのねえ、と言ってかばんに教科書をつめながら言葉を続けた。
「そういうの、本人に聞いたら?」
ってそんなさらっと言うけど。
簡単に聞けるなら、避けたりしないよ…。
すっかり落ちきった私の肩にぽんと手をやって、
ゆかちゃんはしょうがないなあって言いながら立ち上がった。
「じゃあヒントだけね」
「なんでのっちだけ、その彼のこと知らなかったの?」
呆気に取られる私を背に、
ゆかちゃんは片手をひらひらさせて廊下に姿を消していった。
「もう、なんで今日置いて帰ったん」
部屋に来るなりあ〜ちゃんはそう言い放った。
狭いベッドに腰かけた重みでスプリングがきしむ。
なんて返せばいいかな。言葉を失ってしまう。
寝転んで宙に浮かせたPSPを持つ手に、
汗がじっとりとまとわりついていく。
「あ〜ちゃんよりもゲームの方が大切なん」
黙ってる私に向かって悪態をついた。
その顔ですら、いとしくて仕方ないのに。
「もう、なんか言うことないん!?」
振り上げられた手のはずみでPSPが宙に舞った。
つい、頭に血が上る。
あれ、さっきまでまいってたはずなのに。
つかまれた腕はすぐにあ〜ちゃんの細い腕をつかみ返した。
体を回転させるとあっさりと体勢は逆転する。
すっかり組み敷かれたあ〜ちゃんの体は、
予想よりも小さくて、よけいに胸をしめつけた。
なんか言うことないん。それはこっちのセリフだった。
つかんだその手も小さくて。
…この手を最初につないだのは?この髪に最初に触れたのは?
「…なんか、あったの?」
さっきまでの膨れっ面はいつの間にか消えて、心配そうな顔になってる。
大きな目がよりいっそう大きくなった。
私はそこに映った自分の姿を見つめた。
「あ〜ちゃんこそ、なんかあった?」
「…別に、なんもないよ」
口が割られることはなかった。なら、割るまでだよ。
強引に引き寄せると体は急に固くなった。
固く閉ざされた目。震えるまつげ。
この顔を、他に誰が見たっていうんだろう。
私以外の、他の誰に見せたっていうんだろう。
「…やーめた」
そうだ。やめだやめだ。こんなの。
こんなふうなの、やっぱだめだ。
あ〜ちゃんは黙ったまま動かない。
ぼうっとして、視線を宙に泳がせてる。
その反応が、妙に勘に触った。
「初めてでもないくせに」
言葉の残酷さに気づいたのは、それが君の耳に届いてからだった。
たぶん、頬の一発でも殴られた方がよかった。
「…初めてじゃなかったら、だめなの?」
あ〜ちゃんは突然、私に覆いかぶさるように身を寄せた。
その口元はやけに大人びて見えて。ゆっくりと近づいてくる。
こんな気持ちじゃなかったら、どんなに幸せだろう。
観念して、目を閉じた。そのときは、自分でも気づかなかった。
喉の奥にひっかかった異物が、
耐え切れず吐き捨てられるほど大きくなっていたことに。
「あや」
たった二文字の言葉に、あ〜ちゃんの動作が固まった。
握られた手は力を失って、震えはじめた。
「…聞いてたの?」
あからさまな動揺が彼女を貫いていくのがわかった。
何て言うだろう。
「最低…!」
スカートの裾を直してそう言って立ち上がると、
あ〜ちゃんはベッドに所在なく転がった私の携帯を投げつけた。
ごつんという音が聞こえたと思ったら、
無邪気なストラップが薄い皮膚を突き破って、
頬に鈍い痛みが走った。
だけどあ〜ちゃんはそれにすら動じなかった。
私を睨みつけ、両手を強く握り締めて部屋を出ていこうとする。
小さな背中がふと立ち止まる。
「…あ〜ちゃんは、のっちがたくさんの人から好かれてるの知ってる」
「たとえばそれが昔でも、誰かと何かがあったんなら」
「そんなの嫌で、考えただけで泣きそうになる」
でも、と君は続けた。
「そんなことでのっちを責めたりはせん」
「だって、のっちが選んでくれたんだもん」
最後に振り返ってこう言った。
「のっちは、そうじゃないの…?」
バタン、という音とともに私が欲しくてしかたない背中は視界から消えた。
その瞳は揺れていた。
なんだか傷ついたみたいな目をしていた。
今日も五限はさぼり。
さすがにこんな見つかりやすいとこで堂々とさぼってんのは私ぐらいだ。
ベンチに預けた背中がちょっと痛い。
屋上っていっても四方はフェンスで取り囲まれていて、
よけいに自由を奪われた気持ちになる。
網の目の隙間から見上げた空は高くて、陽は相変わらずあったかい。
でも喪失感と戦うには、今日の陽はちょっとやさしすぎる。
『のっちは、そうじゃないの…?』
最後に見た顔は、私が見たことのない顔だった。
色んな思いを集めて歪ませたような、そんな顔だった。
こんなことになるんだったら、キスしたかったな。
甘くって、とろけるようなやつだよ。
照れながら、でもきっと目つむってくれただろうな。
少しだけ赤く腫れた頬に当たる風は、冷たくなった。
こんなことになるんだったら、思いきり抱きしめたかったな。
好きだよって気持ちを込めすぎて、どきどきが伝わっちゃうんだよ。
いきなり何するんって怒りながら、
でもきっと、やさしく抱きしめ返してくれたよね。
冷たい面積はどんどん広がって、やがて耳にたどりついた。
あ〜ちゃん。
なんてかわいい呼び名なんだろ。
あ〜ちゃん。
呼んだだけで頬がゆるむような。
強くて潔いきれいな名前を包んで、みんなが呼ぶその呼び名。
何回呼んできただろう。その呼び名で、よかったのに。
その呼び名を口にするけで、あんなにも足は軽くなったのに。
風は前髪を揺らせるついでに、まだ乾かない頬を冷やし続けた。
でも、冷たいからって、拭いたりはしないよ。
しばらく止まりそうにないから。
止まらないうちは、君のこと考えてられるから。
どれくらい時間が経っただろう。
頬をなでる風はいつのまにか冷たくなくなっていた。
それは、何かの終わりを知らせてるようで、胸が痛んだ。
突然、頭の後ろから声が聞こえた。
それは、聞き覚えのある声だった。
「…あ、やっぱりここにいた」
(つづく)
最終更新:2009年02月12日 17:15