「ほんとにいた。大本さんだよね?ちょっといい?」
背後に聞こえた声は、欲しいそれよりも随分低かった。
前に聞いた、男の人にしては柔らかいあの声だった。
もうずいぶん心を開け放してしまった後だから、
突然現れたその姿にうろたえることもなかった。
起き上がると、もう頬は乾いていてかさかさした。
「びっくりさせちゃってごめん。俺誰かわかる?三年の…」
名前も知らない顔に、私は思わず首を縦に振る。
訝しげな顔を見た彼は、ああ、と人なつこい笑みを浮かべた。
「いつも聞いてたからさ。のっちはよく五限をさぼるんよって」
その笑顔からはなんの敵意も感じられなかった。
言葉の中に生きている彼女の姿を思い浮かべながら、
私はただ、黙ってうなずいた。
ほんとはこんなの不本意なんだけどね、と言いいながら、
彼は私から三メートルほど離れた位置に座った。
「大本さんが誤解してるとよくないと思ってね」
「あや…西脇のこと、あれ俺のせいなんだ
なんか、初めて見たときからずっと好きでさ。
俺が頼んだんだよ。好きじゃなくてもいいから、付き合ってほしいって。
もちろんそんなことできないって断られたんだけど、
俺どうしてもあきらめがつかなくて。
結局、向こうの根負けで付き合うことになった。
でもそれには2つの条件があった。」
「一つは、期限は三ヶ月。それでも好きにならなかったらあきらめること。
もう一つは、二人のことをある人間にだけは絶対知られないようにすること。」
コンクリートに落とされていた視線をこちらに向けて、
その人は小さく笑った。
「君だよ、大本さん」
ベンチから伸びた足を大きく投げ出して、
時折笑いながら、でも真面目な顔をしながら、
すこし大げさに話す様をぼうっと見ていた。
「女の子だし、仲良さそうにしてたからおかしいと思ったんだ。
俺は大本さん俺のこと好きなのかって聞いたら、彼女は答えなかった。
形だけだけど…一応付き合ってる間の彼女は、
ちゃんと俺に向き合おうとしてくれた。
別に好きでもないのに、電話くれたりなんかお菓子作ってくれたりさ。」
「一緒にいるうちに、だんだん彼女の壁が崩れてくのがわかった。
時折見せてくれる本当の彼女は、俺の想像よりもはるかにかわいくて、
素敵な女の子だった。
でもさ。そしたらわかっちゃったんだよな。
彼女の中にとても大切で、触れたくても触れられない誰かがいるってことを。」
「ショックだったよ。あともう少しだと思ってたから。
でも俺もばかだった。今考えたらさ。
話はいつも君や樫野さんのことばかりだった。
俺はてっきり彼女が友達を思って、俺にアピールしてんのかって思ってたんだぜ。
ばかだよなー。でも君もたぶん、俺とおんなじくらいばかで鈍いんだろ?」
「あーごめん。今のは言い過ぎたかな…。まあ、怒らずに聞いてよ。
ちょっと前のことだけど、今の人のこと、俺より好きなのかって聞いたんだ。
そしたら彼女、そういうのは比べるものじゃないって言った。あれにはまいったよ。
だって彼女、俺のことなんて好きでもなんでもなかったんだぜ。
やさしいにも、ほどがあるよな。」
「で、ここからが本題だよ。昨夜、彼女がうちに来た。
泣いてたからてっきり俺のとこ戻ってきたのかと思った。でも違った。」
「あのときの質問の答え、間違ってたってさ。彼女、こう言ったんだよ。」
「誰とも比べられないって。誰よりも大切で誰よりも一緒にいたいって。」
「のっちのことが、ずっとずっと好きだったって。」
…彼の声色は穏やかで、ゆっくりと話す口調は、
まるで何かの歌を聴いているようだった。
耳の中で繰り返されるその歌の残響は、
しだいにあのやわらかくて甘い声に変換されていく。
昨夜頬についた傷が、ゆるい風になでられてむずがゆかった。
「もうね、ズコーだったよ。でもその泣き顔、とても真剣でとても強かった」
「だから。もう泣かせたりすんなよ。
次こんなことあったら、西脇は遠慮なく俺がもらうからな」
せつなく揺らせながら、
でもその目は誰かを想う強くてやさしい目をしていた。
「…だめです」
「あ〜ちゃんは、誰にもあげられません」
声を出さずに笑って見せた。
私の表情の変化に気づいて、彼もまた表情をゆるめた。
「言っとくけど、これは俺の自主的な行動だからね。
話すよって言ったら、絶対だめだって言われたんだから。」
「傷つけてしまったのは自分のせいだからって。
だから言い訳する資格もないんだってさ。
のっちは自分なんかよりもっと悲しい思いをしてるって。」
「おいおい、何泣いてんだよ」
「…最初から泣いてます」
「西脇の恋人はきっと大変だぞ。ライバル、50人は下らないぞ。」
「…全員倒します」
「ははっそれ聞いて安心したよ。あ、言っとくけど俺西脇には指一本触れてないぞ。」
「…まじですか?」
「や、一回だけな、手つなごうとして…」
「…まじですか?」
「心配すんな。好きな人としかつながないって、ちゃんと断られたよ」
「あーあ。おまえ愛されてるなあ。悲しくなっちゃうよ。
まあ、大事にしてやってくれよ、な。」
『なんでのっちだけ、その彼のこと知らなかったの?』
ゆかちゃんの言葉が耳の奥で響いていた。
その言葉を手の中に握り締めて一度だけ強くうなずくと、
彼はくやしそうにして見せながら、私の背中をぽんと叩いた。
−A-side
ひとしきり泣いて熱くなった頬は、
私をなかなか覚ませてはくれなかった。
部屋に帰ることもできず、屋上に行く勇気もなかった。
誰もいなくなった教室はもう暗くて、今の自分によく合っている。
机にあごを乗せてみる。冷えていて気持ちがいい。
そのまま頬を寄せて感触を味わった。
知られたくなかった。
嫌われたくなかった。
傷がついたのは私じゃないのに、のっちのことを思うとかすかに痛む。
まだ腫れてるかな。今ごろどこにいるだろう。
…記憶の中ののっちは、照れたように笑いながら、
私の心の底を探れなくてじたばたしてる。
私に嫌われないように、でも私を一人占めするために。
ちょっと拗ねて見せただけでも、のっちはいつも大真面目だった。
別に敵なんていないのに、必死になって守ろうとしてくれた。
もっと素直になればよかった。
甘えた顔を、なかなか起きない手足を、
充分に抱きしめてあげればよかった。
目の前がぼやけて、何も聞こえない。
真っ暗な中で、私はただ固い机に何度も何度も頬をすり寄せていた。
「こらー。もうお外真っ暗だよ」
声だけでわかった。
聞こえてきた声は、照れたように笑っていた。
暗がりの中に突然現れた姿は、
私をめがけて想像よりも速いスピードで近づいてくる。
そのスピードは、私の前でぴたりと止まった。
少し手を伸ばせば触れられる距離感は、いつものそれと同じだ。
「それ、のっちの机じゃん!」
「そういうのは、本物にしてくれないと。」
近づいて見えた顔は、やっぱり照れくさそうに笑っていた。
「もう、いいんだよ」
まずいことを言ってないか、怒らせてないか。
傷つけてないか、嫌われてないか。
手を伸ばしては何度も重ねられたためらいや、
つたのからまるような思いが、目の前ののっちの照れ笑いを作っている。
「のっち」
両腕をあなたの脇の間に差し込んで。
机にそうしたように、頬を首筋にすり寄せた。
少し緊張したけど、戸惑わなかった。胸が震えだけど、怖くはなかった。
「もう、話せないかと思った」
そう言うと、腕が背中に回されるのを感じた。
「もう、名前呼んでくれないかと思った」
そう言うと、回された腕は強められて、体温が上がっていくのを感じた。
「のっち?」
「…ん。」
同じように寄せられた顔をのぞくと、瞬時に腕の中に引き戻される。
「もうちょっと待って。動かないで」
腕の角度を変えたり強めたり弱めたりしながら、
私の髪に背中に何度も触れる。
「なんか、夢みたいだから。」
今まで一番近い距離で聞こえたのは、
子どもみたいに甘えた声だったから。
ためらってる時間はもうない。
のっちがまた照れて何か言いかけるその前に、
私は急いで唇を近づけた。
(おわり)
■おまけ
−K-side
「…よくできました。」
パチパチパチ、と手を叩きながら、
私はすっかり落ちきった肩に向かって歩いた。
「樫野か…聞いてたの?趣味悪いなあ」
先輩は振り向きながら、弱く笑った。
ちょっと強引だけど、悪者になりきれない憎めない人だ。
「あーあ。俺もあ〜ちゃんって呼びたかったなあ」
「え、でも先輩あやって呼んでたじゃないですか。しかもけっこう得意気に。」
ああ、あれね、と言って先輩はまた頼りなく笑う。
「俺、呼ばせてもらえなかったんだぞ。なんか嫌だからって」
先輩きっと、それのっちのこと思い出してしまうからですよ。
そう思ったけど、弱ってるところにさらに追い討ちをかけてしまう気がして、
私は黙って聞くことにした。
「なー樫野ー」
「はい?」
「俺のこと、抱きしめてくんない?」
「いいですよ」
「ちょ、まじで!」
顔をパァっと明るくさせてよろこんでいる様が、
いつもの誰かを思い出させた気がして、つい私は答えてしまった。
「何、真に受けてんの」
にやっとした表情が一瞬で崩れて、眉がハの字になった。
ん…?
ああそうか。私はすべて納得がいった。
「ふわぁ…樫野はきついなあ」
「やっぱあ〜ちゃんだな」
やさしくてすこしばかなその人は、
いじけて口をとがらせながらそう呟いた。
やっぱりそうだ。
だからあ〜ちゃんは、この人に心を許したんだね。
(おまけおわり)
最終更新:2009年02月12日 17:27