アットウィキロゴ
ドライヤーで髪を乾かす私の視界の端には、ゆかちゃんの春コートとバッグが。
私の中に違和感があるのは、それらが初めて見る新作であるせいではなく、今ここにあることそれ自体のせいだ。
つまり、今日は夜遅い上がりで明日も朝早くから仕事なのに、ゆかちゃんが私の家に泊めてほしいと言ってきたせい、ということ。
私には断る理由なんて皆無なので、二つ返事で承諾した。この場合の二つ返事はもちろん、『はいはい』ではない方の意味。
何かあったのかな、と違和感と共にさっきから考えているのだが、それももう止めることにした。
嬉しいから。
普段は、“休日だから”とか、“明日の仕事が午後からだから”とか、特別という程ではないけれど何らかの訳が付いて2人で過ごすことが多い。
それはこういう関係なら当たり前で、むしろこういう関係だからこそ、会える訳があるときに会おうとするものだ。
だから、たとえ訳がなくても。
つまり、今日のように時間が限られている場合、別々に過ごす方が絶対に都合がいいのにも関わらず、ゆかちゃんが私に会おうとしてくれたことが、単純に嬉しい。
だってまるで、一緒に生活しているみたいで。
1人の時間と2人の時間の境界が、曖昧になっていくみたいで。
最初は尖っていた私たちの関係が、角が取れて丸くなっていくみたいで。
嬉しい。

そんなことを考える間にすっかり乾いた髪を整えてリビングに戻ると、ゆかちゃんはソファーに座って携帯をいじっていた。
ゆかちゃんは私をちらりと見て、躊躇なく携帯を閉じて無造作に横へ放った。
そんな些細な動作でも、今日の私の心は嬉しさで妙に浮き上がってしまう。
少しでも長い間そばにいたい私は、ゆかちゃんに寄り添うように隣に座った。
ソファーの背にだらしなく体を預け、深呼吸をする。すると浮いている心とは対照的に、体は泥のように沈んで驚いた。
予想以上に疲れているらしい。
それを知ってちょっと残念がる心を慰めつつ、私は口を開いた。
「アイス食べる?それとも、もう寝る?」
歌にダンスにトークにと、私たち3人ができること全てをこなした今日としては、もう寝てもいい時刻になっていた。
なにより、心の反対を押し切って泥の体がそう訴えている。
私はわざと壁時計を見るふりをして、隣の人に悟られないよう、あくびを口内で噛み殺した。
それから隣の人へ目を移せば、黙って俯き、腿の上で両手を開いたり閉じたりしている。
長い髪が作る黒幕で横顔が隠れ、今の姿勢では表情は見えない。
やっぱり何かあったのかな。
再度口を開こうとした私を振り向いたゆかちゃんは、想像に反して笑顔だった。特に陰は見当たらない。
「うん。もう寝よっか」
やはりゆかちゃんも疲れているのだろう。それを示した言葉に、私の心は心配が消えて安心と失望で、体は完全に安堵で満たされる。
そんな矛盾を抱えた私は、ゆかちゃんに了解の微笑みを返して立ち上がった。
…つもりだったが、中腰になった瞬間に後ろから右腕を引っ張られ、ソファーへ引き戻された。
「?」
意外な行動を取った人へ顔を向けると、さっきと同じ笑顔で見つめられる。
「今日は、もう寝よ?」
そして同じ言葉を繰り返される。私の右腕に置かれた手に、軽く力が入った。
私は思わず、何度か目をしばたたかせる。その数秒の間に、テレビがついていない静かな部屋の空気を読みなおすも、結論は変わらない。
「うん、だから」
歯磨こうよ、と言いかけた私を黙らせるように、ゆかちゃんは空いている手の人差し指を私の口に当てた。
当てたまま、掴んだ腕で私を引き寄せると同時に、ゆかちゃんからも体を寄せてくる。
私に近づく顔からすっと笑みが消え、瞼がゆっくりと閉じていき、半開きにした口の奥に小さな舌が見えた。
「だから…?」
私の唇に辿り着く途中でゆかちゃんがそう囁くから、舌の動きが至近距離で、かつスローモーションで私の眼前に晒された。
それは、体を取り巻く泥を吹っ飛ばすには余りある程、蠱惑的で。
浮かれ上がった心の衝動のまま、私は紅く誘ってくる舌を自分から捕らえにいくことにした。


唇を触れ合わせた瞬間に、深く舌を差し込む。唇は二の次で、まずは獲物を狙う。
しかし獲物は奥へ逃げていき、追いかける私をからかうように先の部分だけで突ついてくるばかり。
空いた左手で頭を抱えようとしたら、頭にも逃げられた。
隙間から漏れるくぐもった声にけしかけられる私は、自然と前のめりになる。
そのまま体を押し倒す寸前で吐息とともに口を離され、行き場を失った2人の唾液が、ゆかちゃんに貸した水色のTシャツに垂れた。
捕らえられなかったことに気落ちする私に、蛍光灯の灯りで艶やかに光る唇が衝撃的な言葉を浴びせた。
「今日はね、したくないの」

一瞬、意味がわからなかった。
心中でおうむ返しに反芻して、理解した途端、
一気に、熱が引いた。
血の気も、引く。
「あ、ごめん」
あまりに引きすぎて、自分でも阿呆みたいで呆れるリアクションが出た。
だって、この関係になってもうすぐ9ヶ月目に入る今の今まで、これ程予想できない展開で断られたことなんてなかったから。
しかし思い返せば、確かにゆかちゃんは『もう寝よ?』と言っていたではないか。
勝手に勘違いした私の、阿呆。
忙しく反省する頭の中で、私を阿呆にした衝撃的な言葉がこだましている。
すると完全に動きを止めた私を見て、ゆかちゃんは苦笑して言った。
「のっちのばか。気づいてよ」
また一瞬、いや今回はしばらく、意味が理解できない。
そんな私に考える隙を与えず、明らかに湿り気を帯びた瞳のままのゆかちゃんが近づいてきた。
力が抜けた私の下唇をあの舌で優しく舐め、口全体を何度も食むように唇が動く。
おやすみの挨拶にしては濃厚な、キス。
再び心が期待に飛び跳ねる気配を見せたので、私が慌てて大好きな唇から逃げたら、今度はゆかちゃんがお預けを食らったみたいに動きを止めた。
「じ、じゃあなんでこんな…」
脳内で依然としてこだましている言葉と、目の前の出来事が結びつかない。
あからさまに動揺する私を見て、ゆかちゃんは呆れた声で言った。
「だーかーら。“今日は”、したくないの」
ゆかちゃんに“今日は”の部分をやけに強調され、私は必死に思考を巡らした。

今日は…?
今日、今日は…あまり時間がなくて、
なのにゆかちゃんが来てくれて嬉しくて、
それで…?
なかなか解答が出ないで焦る私に突き刺さる視線が、徐々に痛くなってくる。
それで、何故かゆかちゃんが、ちぐはぐで、
なんでちぐはぐ…?
今日、今日は…
「あ」
解答に辿り着いた私の口から、また阿呆みたいなリアクションが出た。

今日は、4月1日。
4月馬鹿の日。嘘をついても許される日。本来なら午前中だけ許されるのだが、細かいことは気にしない。
そうか。そういうことなら、先程からのゆかちゃんのちぐはぐな言動も説明がつく。
しかしそうだとすると、今日はもろに特別な日で、特別な訳があって家に来てくれたということで…。
目の前で少し拗ねていたゆかちゃんは、全てを理解した私と目が合うと、にこりと満足げに笑った。
…してやられた。
今日は特別な訳なんてないと、1人で嬉しがって、1人で浮かれてしまった。
私が可愛く感じて止まない姫は、私をそう単純には喜ばせてはくれないみたい。
小さなため息を一つ。
やれやれ。
しかし別に、私がしてやられるのは珍しくも何ともないので、素直に姫の遊びに乗ることにした。
その意思を表明するために、私は桜色の唇を追いかけながら細い体をソファーに押し倒した。
すでに私の心はさっきの落胆を忘れ去り、体は嬉々として熱を作り始めている。
そんな準備態勢の私を見上げてくる目の上で、微かに眉根が寄せられた。下を見れば口元も心なしか、尖っている。
私はこれ以上阿呆になるのを防ぐため、不満そうなゆかちゃんに聞いてみた。
「どしたの?」
「ここが、いい」
低めの声で即答されたので、構わずに続けようとした私の額に、堅い抵抗が。
ゆかちゃんの右手が、グーの形で額に当てられている。同時に睨まれて、はたと気がついた。
頭で言葉を反対に変換する。
そういうことか。
ゆかちゃんを真似て私は苦笑し、グーの右手を取って華奢な体を起こしてあげ、寝室へ向かった。
「今日はずっと、そんな感じ?」
2人で向かう途中、繋いだ手を揺らしてゆかちゃんにそう聞くと、無言で上機嫌な笑みを返された。
いつになく楽しそうな、私を首ったけにして狂わせる、姫。
そんな表情をされたら、本当にさっきの落胆なんて、どうでもよくなった。




「あっ…やだ…ぁあ、んん…」
綺麗に艶かしく捩る肢体をベッドに組み敷いて、私は自分が持つもの全てを駆使してゆかちゃんを愛でる。
手、指、唇、舌、吐息、時に視線さえも利用する。
いつも声を抑えないゆかちゃんも当然、今日の遊びを存分に利用して、より大胆に声を上げている。
何故なら、ゆかちゃんでも恥ずかしがる直接的な言葉を口にしなくても、欲しい刺激を私に完璧に伝えることができるから。
「やめ…も、ぅん…っふぁ」
部屋の空気が濃密になればなる程、喘ぎ声は大きさと頻度を増し、それがまた空気を濃く重たくしていく。
そして2人ともむせ返るような熱気に飲まれて、沈んで、普段以上に興奮していく。
汗で湿る肌に、水で濡れる中に、触れている部分が焼けただれそうに熱い。
その熱に浮かされながら、私はゆかちゃんが発する単語を懸命に脳内で変換して愛撫を続ける。
「や、だ…それ…はぁ…ゃ、やだ…だめ!」
が、際限なく奮い立つ自分の高揚感のせいで頭が破裂する予感に襲われ、つい指の動きを止めてしまった。
いや違う。
高揚感とは違う何かが、私の頭を締め付けている。
「…あの、ゆかちゃん」
突然刺激が止んだせいで、ゆかちゃんが怪訝な眼差しを向けてきた。
体に覆い被さっている私は、真下から見上げられる中で息を整えつつ、その何かを表す適切な表現を探す。
「なんか…」
ベッドに来てからずっと、遊びを楽しむゆかちゃんの声が耳に入ってきて、
しかもそれを自分が出させているかと思うと、
いくら頭で意味を反対に変換していても、まるで、
まるで、
「いけないことしてるみたいな、気分なんだけど」
今どんな表情をしているかわからない私を、ゆかちゃんは浅い呼吸をしながら数瞬見つめた後、破顔した。
「ふふ。うん、だって、いけないことしてるもん」
じっとりと潤む瞳を細めて、薄赤く上気した顔で、場にそぐわない屈託のない笑みでそう言われ、
私は自動的に、受け取った言葉を変換しようとして、
背筋が凍りついた。

今の意味を反対にすると…?
“いけないことは、していない”
でもそれは、本当?
反対にして、いいの?
反対だとしたら、
私たちがしていることは、いけなくない、こと?
それとも、いけない、こと…?
どちらの意味を、指しているの?
ゆかちゃんは、今日はずっと“そんな感じ”、とほのめかしていたけれど。
すらりと躊躇いなく出てきた今の言葉は、本当に“そんな感じ”の延長線上にあるのだろうか。
今日の、4月馬鹿の遊びの、延長線上に。


全身が固まったまま黙っている私を見て、ゆかちゃんも言葉の逆を察したようで。
顔が裏返されたみたいに、笑う面が戸惑う面に取って代わった。
自分の言った意味が私にどう取られたのか、そもそも自分がどういうつもりで言ったのか、忙しく思案する瞳が揺れている。
私たちを包んでいた熱い霧が散り、それにつられて、触れている箇所が温度を吸い取られるように、徐々に冷えていく。
ゆかちゃんの唇が、何か言いかけて言い淀んで動くのが目に止まり、私は我に返った。

いけない。
考えすぎるのは、揺れるのは、ゆかちゃんの役目。
私はそれを、何も言わずに止める役目。
この関係が始まったあの日に、そう決まったはず。
私が揺れては、いけない。

ゆかちゃんの代わりに誤摩化してあげようとして口を開いたら、私の真下で揺れている瞳の中に怯えが走った。
そんな目を、しないでほしいのに。
もうすぐ9ヶ月目に入るのに、まだそんな目をさせてしまうなんて。
私は口を閉じて、瞼も閉じて、考えた。

もしかしたら、そろそろ限界なのかもしれない。
体を重ねながら、時間に任せて、私たちの境界が曖昧になるのを、待つのは。
あの日以来、心の底辺に横たわる互いの本音に気づかないふりをして、私たちの尖った関係が丸くなるのを、待つのは。
だってほら、こんなに些細なきっかけで、始まりのあの日に逆戻りしている。
もう、限界なのだろう。

今日はこんなはずじゃなかったのに。
私はつい1時間前の自分を思い出すと、無性に可笑しくなって、微かに自嘲的な微笑を浮かべてしまった。
1人と2人の境界が曖昧になるとか、関係が丸くなるとか、そんなの時間だけでどうにかなるわけがない。
全くの見当違いではないけれど、甘く考えすぎて、嬉しくなっていた1時間前の私。
可笑しくて、悔しくなってくる。
「の、っち…?」
好きで好きでたまらない声で下から呼ばれ、私はゆっくりと瞼を開いた。
ゆかちゃんはさっきと全く同じ瞳のまま、冷たくなった手を私の頬に伸ばしてきた。
こうやって、揺れているのに私に触れたがる、姫。
どうしようもなく愛おしい、姫。

決めた。
明日になったら、待つのは止めよう。
やっぱり、限界なんだ。

私は決意を込めて、姫に優しくキスをした。



————to be continued————




最終更新:2009年02月23日 05:10