今年の夏は暑かったっけ。それともそんなには暑くなかったっけ。
流れてゆく景色を見ながら、そんなことを考えていた。
上海の街並みは不思議だ。雑なようで整然としてる。
華やかなようでどこかさみしくなる。
ツアーが終わったと思ったら、いつの間にかフェス三昧の夏も終わってしまった。
ひとつひとつのことをゆっくり味わったり消化したりする時間も余裕もないまま、
私たちは用意された武道館への道を歩き続けていた。
上海Perfume号の最後部からの視界に入る二つの頭。
さらさらの黒い髪と、ふわっとした黒い髪が揺れた。
「のっち!のっちってば!」
…あれから、あ〜ちゃんの私に対する態度は、日に日に甘さを増していった。
だいたいどんなときも隣にいて、私の名前をよく呼ぶようになった。
耳元でまだねだることを止めないとき。眠る直前に祈るような調子で呼ばれるとき。
その声は私の胸をすぐにいっぱいにしたけど、同時にどこか心がざわつくのも否めなかった。
両端に小さくてかわいい耳を携えた、その小さな頭で。
たくさんのこと考えて処理しきれなくなった感情を、
私にぶつけることで昇華しようとしているのかもしれないのに。
本当のことを言えない気がして、聞き出すことがただこわかった。
「んー?」
「ほらやっぱゆかの言うとおり、のっち聞いとらんかったじゃろ」
「ほんまじゃ」
どちらも潔くて強くて、もう大人の女の人みたいだ。
二人は私の考えてることくらい簡単にわかるんだろうけどさ。
私は、もう心の奥の方まではわからないよ。それでも今までみたいにやってけるのかな。
憎まれ口を叩きながら振り返った二つの顔は、
ちょっと困ってしまうぐらい、どちらも愛情に満ちたやさしい目をしていた。
すこし安心する。今年の冬は寒くなるのかな。
流れてゆく景色を見ながら、またそんなことを考えた。
「ふー」
なんだか一仕事終えたみたいに、のっちが満足そうに息を吐いた。
ベッドの上に寝転がって、見慣れない天井を仰いでる。
初日の撮影が終わって周りの大人たちも私たちも疲れ果てているというのに、
当然のように私はのっちを求めた。
自分でもどうかしてると思う。あれから、のっちから離れられなくなった。
どんなときでも一緒にいないと気がすまない。
なんで離れるん。なんでずっとくっついててくれないの。
もう、好きじゃなくなったん。
さっきまでぴったりくっついていた体が離れただけで、こんなにさみしくなる。
ほんと、どうかしてる。
息を吐いたのっちは眉を八の字にさせていた。きっと手も疲れてるんだろうな。
いつも気にしなくていいって言ってくれるけど、
なんだか不安げな表情に、ずっと申し訳なさを感じていた。
私の体が変になっちゃったのかな。
「つかれちゃった?」
「ううん、そういうわけじゃないけど」
のっちの右腕をさすりながら聞くと、肘で自分の頭を支えてこっちを見て笑う。
どきどきするようなさっきまでの目とは違って、途端にやさしい目になった。
「あ〜ちゃんこそ、痛くなってない?」
「ちょっと痛い、かな。」
そっか、って笑ってのっちが私の髪をなでた。
また触れ合う部分ができて、途端に満たされそうになる。
でも笑った顔は、何度も与えられたあの感覚を満たせなくなってしまったことに
すこしさみしさを覚えているようにも見えた。
ひとつひとつの言葉とか、ちょっとした息の漏れにまで、
とても敏感になってる自分に気づく。それに一喜一憂してしまうことにも。
私はこの人が好き。誰にも取られたくない。こんなことで嫌われたくない。
「ちょっと痛いけど、我慢する」
素直な気持ちだったけど、口にすると頬が熱くなるのがわかった。
あまりの恥ずかしさに、見られたくなくて胸に顔を埋めて言葉を待った。
「…ちょ、まじで?」
のっちの声がうわずってる。いきなり心臓がドキドキ言い始める。
ちょっとサービスしすぎたかな。でも、そうしてほしいよ。
嫌われたくないもん。もっと触っててほしい。
「…あ〜ちゃんっ!」
私の肩をつかんで、のっちが顔を寄せてくる。
目をかっと見開いて、鼻息が荒い。ちょっと興奮しすぎだよ。
「い、痛くなったら、すぐ言ってね」
こんなときでも噛んでる舌。顔も真っ赤じゃよ。
やさしい。愛されてるって思ってしまう。
「うん」
小さくうなずいて首に腕を回した。
ほんとどうかしてる。愛されてるって思っちゃうんだよ。
心地のよい倦怠感。耳にはまだ甘い声の余韻が残ってる。
ぴったりと体を寄せてしがみついてくる。
しがみつく強さが前よりも強くなった気がする。
ふわっとした髪が頬をかすめて、まだ汗ばんだ肌の感触を味わう。
ちゃんと伝わってるかな。
全身で交換し合った後でだって、すこし不安になるくらい。大事に思ってる。
「…やっぱり、気にしてる?」
私の鎖骨を指でいじりながら、あ〜ちゃんが言った。
気にかかってるのは事実だった。
でもそれを口にしたら、彼女はきっと気にする。傷つくかもしれない。
別にそのこと自体には意味はない。
でも、イケないのが自分のせいだったら。
それが、彼女が自分に心を許してない表れだったとしたら。
「あ〜ちゃんのせいじゃったら、嫌われても仕方ないけぇ」
指の動きをやめて小さい声で言った。
こんなことまで言わせてしまう自分が情けなかった。
あ〜ちゃん、と力強く声にしてみる。
「こんなことぐらいで、嫌いになるわけないじゃん」
顔を触るとくすぐったそうにした。でも睫毛の先は濡れてる。
「のっちの方こそ…」
下手くそでごめんって言おうとすると、言葉の先を読んだのか微笑みながら言う。
「のっちはなーんも悪くないけぇ」
「あ〜ちゃんこれくらい平気だもん」
「本当に、こんなことぐらい、なんでもないって思ってるもん」
どこまで本気なのかはわからなかった。
そんな自分がうらめしくて、あ〜ちゃんの胸に手をあててなでて頬を押しつけた。
どれだけ中に入ってもどれだけ深く押し込んでも、
決して直に触ることはできないから。
「かわいいね」
「のっち、赤ちゃんみたい」
頭の上で響いた声のやわらかさと、なでられた手のやさしさに甘えてしまって。
濡れた睫毛のことはすっかり忘れていた。
余計な心配、しなくていいよ。
そう言って強く抱きしめ返してあげることすら、思いつきもしなかった。
ただ胸に耳をくっつけて、君の心の音を聞いていたかった。
「じゃー、おやすみ」
眠そうに笑う顔を背にして、のっちの部屋のドアを閉めた。
さすがにこの状況で抱き合って眠るのは危険だというのは、私から言い出した。
本当は一緒にいたかったし、隣部屋の誰かのことも気になってしょうがなかったけど。
のっちが疲れてるのは目に見えてわかるし、
私は私であのまま一緒にいたらこらえきれる自信もなかった。
部屋に帰る。整ったベッドに腰掛けて新曲を聴いた。
四拍目から始まるのっちの声は強くて真っ直ぐだ。静かに目を閉じた。
日本に戻ればまたリハの日々が始まる。
そこでひとつの成果をあげることができなければまた逆戻りだ。
そんなことありえない。許されるわけがない。
タイトルはDreamFighterという。
最高を求めた終わりのない旅をして、打ちのめされそうになっても前を見て歩くらしい。そんなの、今の私に歌えるわけない。
作ったような自分の声が嫌になって、すぐにイヤホンを外した。
洗面台でコンタクトをはずそうとして、映る自分の顔を見た。
カタ。コンタクトのケースが落ちる。
何度も触れられて何度も声を出したはずなのに、
目の前のそれは信じられないくらいひどい顔をしていた。
ほどなくして溢れた涙はしだいに嗚咽に変わった。
泣くたびに息を多く吐くのに、吸う息は少しで、すぐに呼吸は苦しくなった。
いつも明るく元気で可愛くなんて、そんなの私じゃない。
本当の私は、好きな人を満足させてあげることもできなくて、
抱かれた後でもこうやって一人でうずくまることしかできない。
最高って何?今以上に行かないとだめなの?
今じゅうぶんしあわせなはずなのに、
どうして終わりのない旅になんか出なくちゃいけないの。
わかってる。ここにはいない。
こんなところで泣いていてものっちには届かない。
呼べばいつだって応えてくれるあの手を呼ぶこともできないんだよ。
私はとても何かを伝えたいと思っている。
それを思うとこんなに涙が出る。
涙はなかなか止まってはくれなかった。
気づいたら私は、乾いたユニットバスにへたりこんで声をあげて泣いていた。
−K-side
手に取った写真はどれも素朴で、今の自分たちがそのままフレームに収まっていた。
子供の武器も使えるけど、その時点でもう子供ではない。
大人になったような気でいるくせに、抱えた荷物の降ろし方を知らない。
『のっちー』
笑うたびにワンピースの裾が翻った。
西糖で見たあ〜ちゃんのはしゃぎっぷりは半端なかった。
ファインダーを覗きながらキスするぐらいまでのっちに近づいて、
その愛情を確かめようとする態度には痛々しさすら感じられた。
小さな舟に乗ったときの遠くを見る目に、
ほんのすこしの瞬間にさえも涙がこぼれ落ちてしまいそうな不安定さに、
のっちは気づいただろうか。
まさか同じ人を好きになるなんて思ってなかったよ。
狭い路地裏で互いの距離を縮めて出会っていく二人は、
互いを連れ去り合ってどこへ行ってしまったんだろう。
…あ〜ちゃんと手をつないでいるショットがふと目に留まった。
互いに視線を別の方向に向けている。少し下なんか向いて。
最初少し触れ合ったとき、思わずためらってしまったことを思い出した。
あ〜ちゃんの手の先には、見えないのっちの手がつながれている。
互いをできるだけ絡めとろうとして、強く強く組み合わされている。
だからせめてそれを感じようと、私は握る手に力をこめたんだ。
明日からまた武道館のリハが始まる。
ひとつの終わりが近づいてきてる。何の根拠もないけど、そう思った。
(つづく)
最終更新:2009年03月17日 18:24