「今日も、疲れたね…。」
リビングに入るなり、彼女はヘヘッと笑った。
『…先に、シャワー浴びてくるね。』
「たまにはゆっくり、つかりんさいよ?」
でも、やっぱりその瞳はしっかりと私をとらえない。
あの日から一週間が経った。
あれから私は、一度も彼女に触れていない。
帰宅してすぐ必ずされていた深い口付けも、されなくなった。彼女も、一切私に触れてはこない。
新曲のリリースを控え、殺人的スケジュールの毎日が始まった。
朝から夜中まで取材、撮影。
ほぼ、仮眠のために家に帰っているような日々。
そんな状態でも
体が、
心が、
彼女のことを求めていないわけではない。
毎晩隣で眠る彼女。
毎日、どんな時も、手を伸ばせば簡単に触れられる。
忙しさと疲れを理由にして、私は彼女から逃げている。
彼女は今、何を考えているのだろう。
あの日から、彼女の瞳はゆらゆらと揺れ、目の前の私をとらえようとはしない。
次にしっかりと見つめられた時は…
もしかしたら、彼女が私の前からいなくなる時…
いや、そんなはずは…。
私はシャワーの温度をあげた。
考えすぎ、そう、私の考えすぎ。
彼女は疲れているんだ。
きっとそう。
そして、私も疲れているから余計な考えを巡らせてしまうんだ。
うん、きっとそう。
明日は久々に仕事が夕方からだ。
お昼、買い物にでも誘ってみよう。
何かこのモヤモヤが、変わるかもしれない。
よし、
そう思って、私はお風呂場を出た。
髪をタオルでふきながら、リビングに戻る。
「のっち…。」
そう言い近づいてくる彼女の姿を見て、私は立ち止まった。
いつも、彼女は私がシャワーを浴びている間に、部屋着に着替え、メイクをおとしている。
「…友達から、連絡があって。」
でも、今目の前にいる彼女は、服もメイクも髪型も、さっきと何も変わっていない。
「今から、行ってきていい?」
『今から、って…。』
もう日付が変わる。
てことは…
『…泊まるの?』
「泊まる、っていうか…、まぁ…そういうことに、なる、かな…。」
どこ行くの?
何の用?
いつ帰ってくるの?
友達って誰?
…男?
…言い出せばきりがない。
『…分かった。気をつけてね?』
何か嫌な感情に支配されるのを、私はグッとこらえた。
「ありがとう…。」
ほら、また私をしっかり見ない。
そのまま玄関にむかう彼女。
「……!」
ドアに手をかけたその背中を、私はそのまま抱きしめた。
一週間振りの彼女の感触。
息が止まりそうにさえなる。
「…ちゃんと、連絡するから。」
彼女は一切振り返らず、私の腕からするりと抜け、家を出て行った。
パタン、と
ドアが閉まる。
彼女の温もりを抱いたまま、私はベッドに体を投げた。
『あー……。』
天井を見上げ、意味もなく声を出してみる。
一緒に暮らしてから、初めて過ごす、別々の夜。
彼女が私と距離を置いたことに間違いはない。
誰か別の人、見つけたのかな…。
不思議と嫉妬はしなかった。
どこか、頭の隅で、こうなることを予想していたのかもしれない。
いや…
彼女は、ちゃんと連絡をする、と言った。
ちゃんと、私のとこに帰ってくるんだ。
大丈夫、大丈夫。
最近忙しいし、彼女もたまには気分転換、したいんだ。
うん、きっとそう。
「……っ…!」
そう思いながらも、気づけば私の目からは、涙がこぼれていた。
…さっきも、本当は彼女を捕まえておくことができた。
だけど私はそれをしなかった。
ハッキリ答えを聞くのが、私は怖かったんだ。
私はただ、逃げているだけ。
彼女から、逃げているだけ。
私は、思考を止めるために、ベッドから起き上がった。
いつの間にか湯冷めしてきた体に気づき、暖房のスイッチを入れた。
ひとりで過ごす寒い夜は、一年前のあの日の光景をただひたすら、私に思い出させた。
私の手は自然にカーテンを開け、窓の外、あの公園を見下ろす。
えっ…
そこには、ブランコに座り俯く人影があった。
あの時と同じ、暗闇にポツンと浮かぶ、見間違えるはずのない人影…。
「…何でっ…。」
私は走った。
あの日と同じように、夢中で彼女へと走った。
………。
ブランコが見える所まで来て、私の足は止まる。
彼女が家を出てから、すでに二時間ちかくが経過していた。
彼女は、一体ここで何をしているのだろう。
私は恐る恐る、彼女に歩みを進めた。
『…何しとん。』
ブランコの前で声をかける。
顔をあげた彼女の瞳は、涙で揺れていた。
その涙を拭いそうになった手を、私は思わずひっこめる。
…私は、彼女に触れていいのだろうか。
「…一年、経つね。」
彼女の低く落ち着いた声が、じんわりと私の心に染みて広がる。
一年…。
やっぱり、彼女もあの時のことを思い出していたんだ。
「…ゆか、分かんないの。」
彼女がぽつりぽつりとこぼし始めた言葉に、頭と耳を集中させる。
「のっちのこと、好きなのか…分からん…。」
やっぱり…
もう、彼女の心は、私から離れ始めているんだ。
彼女の言葉に、私の体はさらに固まった。
「ゆかはっ、の…っち、こと…っ…、」
涙で言葉にならない彼女を、私はその場でただじっと見つめていた。
「のっちの…ことっ…、の…っち…っ、…」
『もう…いいよ。』
もう、分かったから。
私たちは、一緒にいるべきではなかったんだ。
最初から、最初からそうだったんだ。
私は彼女がいなければ、何もできなかった。
離れたくないから一緒に暮らしてほしいって言い出したのも、私からで。
彼女も私と一緒にいたいんだと思っていた。
私がそばにいれば、彼女は幸せなんだ、って…。
全部全部、私の勘違いだった…。
『…もう、分かったから。』
私の中から彼女が抜けていく感覚に
心が、
足が、
唇が、
ガタガタと震える。
『荷物は、まとめて送るから。』
「のっ、ち…」
言葉にならない言葉で、彼女が必死で何かを口にしようとするのに気づかないふりをし
私は言葉を急がせた。
『だからお母さんとこ帰んなよ。』
「のっち…っ!!」
!!
彼女はブランコから立ち上がり、
私の胸に、崩れるように飛びこんだ。
「ちがっ…、違う…!」
私は体で彼女を受けとめたが、震えるその背中に、腕を回さない。
私は
彼女に触れてはいけない。
もうその権利は
私には、きっとない。
「のっ、ちと…、一緒に、いたい…のにっ…。」
彼女は、言葉を溢れさせた。
あ〜ちゃんに‘それは愛じゃない’と言われたこと
ずっと貫いてきた愛のカタチを否定されたこと
私を独占したいだけで、好きではないのかもしれないという不安が生まれたこと
「ゆかはっ…のっちを、愛して…ないっの…っ?」
分からない、と
彼女は再び泣き叫んだ。
私の胸にほぼ全体重を預けている彼女の体をゆっくりと離すと、彼女はその場に崩れ落ちた。
ザッ、と足元の砂の音が聞こえる。
私はそのまま彼女を見下ろした。
プルプルと体を震わせ、泣きじゃくる彼女。
今の彼女は、私がいないと立ち上がることもできない。
悦びにも似た感覚が、再び私を襲う。
そっとその場にしゃがみ、崩れ落ちている彼女と、同じ頭の高さにする。
『…私がさ、他の人に触れられていいの?』
「…や、いやだっ…」
崩れ落ち震える彼女を、後ろから抱きしめる。
『他の人に、こんなことしていいの?』
「いやぁっ…」
『…これは?』
「んんっ…」
私は彼女の顔を横に向かせ、強引に唇を塞いだ。
深く、深く。
いつも彼女が私にするように
深く、深く。
『っ…、一緒にいたくないの?』
「い、いたい…、けどっ…!」
『けどはいらんっ…!』
今度は、ぎゅっと抱きしめる。
彼女に触れる私の手に、もう迷いはない。
『独占、しててよ。』
『それがゆかちゃんの…愛し方、なんだから。』
何も、迷わなくていいんだよ。
『のっちの中、ずっとゆかちゃんでいっぱいにしてて。』
私が言い終わると、彼女は私の背中にキュッと腕を回した。
「ゆかの…、のっち…?」
彼女の声は、まだ震えていた。
『そうだよ。ゆかちゃんの、のっち…。』
彼女は、少し口元を緩ませる。
「ゆかの、のっち…。」
そして、唇を奪われた。
深く、深く。
きっと、私たちは、まともに愛し合うことなどこの先もきっとない。
でも、これが
私たちの
愛のカタチ。
「ゆかの…のっち…。」
震えがおさまった彼女のその瞳は
しっかりと私をとらえていた。
最終更新:2009年03月29日 21:57