河井継之助記念館
慶応四年(1868年)正月、鳥羽伏見の戦いで始まった戌辰戦争は、関東、東北、越後に拡大されていった。朝敵の汚名を受けた会津藩とその同盟軍は苦しい戦いを余儀なくさ終えんの間れた。
継之助は事を平和の裡に解決しようと東奔西走し、小千谷・慈眼寺において、西軍の軍監岩村精一郎と談判に至ったが決裂。長岡藩はついに参戦を決意した。継之助は、長岡藩軍事総督として藩をまとめあげ、奥羽越列藩同盟と共に善戦したが、7月25日の戦いで左膝下を負傷した。
継之助が負傷したことにより長岡軍は総崩れとなり、再起を図るため、千数百名とともに国境である八十里を越え、会津に向かった。山越は難渋を極め山中に一泊し、8月5日会津領である只見村に到着。傷の手当てを受けたが、すでに傷口は化膿し、破傷風を患っていた。
8月12日、会津城下を目指し出立。その途中、容体の悪化により、只見・塩沢村の医師矢沢宗益宅に投宿した。
継之助は、すでに死期を覚悟し、従者松蔵に死後の準備を命じ、その夜静かな眠りに入った。
慶応四年(1868年)8月16日であった。
河井継之助記念館
〒968−0411
福島県南会津郡只見町塩沢字上の台850−5
TEL:0241−82−2870
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最終更新:2013年01月31日 15:02