つばめが攫われた翌日。
夜が朝に犯されようとしている時刻、時ヶ丘駅前のロータリーから少し裏通りに入った場所に、異様な空気を纏うものたちがそこに集っていた。
一人は上から下まで黒の装束に身を包んで、変わらぬ無表情で歩いている。その背には鎖で雁字搦めにされ、その圧倒的な力を封じられた刀が鞘に納められて、なおその存在を禍々しく強調していた。
もう一人はその黒の青年の隣で無邪気に――――無邪気故の恐ろしさを纏い、青年に一方的に捲し立てていた。若い―――――のではなく、幼いと、彼女を見たものはまずそう思うだろう。隣を歩く青年の背が一般的な男性よりも高いというのもあるのかもしれないが、それを抜きにしても彼女の身長は低かった。更に言えば彼女の身体の起伏はお世辞にも富んでいるとは言えず、というよりも無いに等しい。
彼女は黒の青年とは違い、何も持っていない―――――彼女は本当に何も持っていない――――彼女の住まいはここからずいぶんと遠いにもかかわらず、彼女は何も持たずに青年に着いてきていた。理由は、“壬生紅葉が行くから”というだけで。
黒の青年の名は壬生紅葉という。
今はその名前だけとなった組織――――拳武館に今もなお所属し続けている暗殺者と呼ばれる、所謂“裏”の世界に生きて、死んでいく男である。
生粋の日本人にもかかわらず、中国の至宝にして世界最強の白兵戦の座を持つ“仙術”を嗜む――――のではなく修めるその実力は、彼をここに呼んだ男でさえも一目置くどころか、思わず忌避してしまうほどである。
紅葉はその場に立ち止まり、肩に背負った荷物を地面に降ろす。少々乱雑におろしてしまったのでなにやら危険な音がしたようにも思えたが、それもまあ仕方のないことだった。
ふと思い目をそちらに向けてみれば、男が壁に寄り掛かっていた。
それだけであるならば、紅葉は何の感情も覚えず通り過ぎるところだが、その男は紅葉をここに呼んだ張本人であると同時に、その青年がそこに佇むことに気付かなかったことが、紅葉の筋肉を硬直させてしまったのであった。
横目で連れ人を盗み見る。
少女は当然のようにその男の存在に気付いていたようで、逆に戸惑うこちらを見て不思議な表情をしていた。それを見て紅葉は小さく嘆息する。少しは彼女に追いついたかとも自負していたのだが、まだまだなのだなと自分を戒め、相も変らぬ彼女の強さに畏怖と憧憬の念を抱いた。
少女―――――緋勇龍麻は壬生紅葉より圧倒的に強い、どころか、この極東の島国でも上から数えたほうが早い強者であった。簡単に言えば彼女は普段から―――――とはいえ、流石に日常生活ではその力を抑えつけてあるが―――――神話の住人であった。
魂魄励起と呼ばれる、周知の事実の裏技を使わずに、だ。
紅葉にも自分の実力にはそれなりの自負と信頼を置いてはいるが、それにしたって彼女には勝てないと理解していた。もしも、自分が十数人いても、だ。
魄啓と呼ばれる力の差を無視したところで―――――そんな前提は成り立たないが――――それにしても自分は彼女に勝てる事は無いのだろうと、紅葉は思った。
そして、そんな思考を切り替えて紅葉はこちらが話すのを待っている、自分を呼んだ張本人に声を掛けた。
「久しぶりだな、空色死銘《ゴースト》」
空色死銘《ブルードゴースト》。
そんな物騒な異名を持つ男が、紅葉をここに呼んだ張本人であった。生憎と紅葉は彼の本名は知らない。下の名前が翔也、であるということだけは、彼と彼の知り合いの会話で知っていたが、それが本名であるかどうかなんて、わからないのだから。
「急に呼んで悪かったな」
口ではそう言っているものの表情は冷たい。冷たい、というのは硬いというには些か鋭すぎるからであった。
彼の服装は黒に統一された紅葉のように、ある色で統一されていた。
蒼。
青ではなく、蒼。
統一、といえどもその服装は一見してわかるものではなかった。なぜならば彼は己の身体を大きな布で肌――――というよりも身体を覆い隠していたからである。彼の肌で見えるところといえば、精々目元ぐらいで、口の周りは、身体を覆う布と同じ色をした布で塞がれていて、表情を読み取ることができない。
「君がその装束をしているということは―――――」
最後まで言う事なく、彼は小さく頷いた。
それを見て、紅葉は今回の依頼は彼の“私怨”の行動であることがわかった。
「どれだ?」
壬生紅葉、置いては猟犬と呼ばれる男にとってこの質問は珍しい。彼は裏家業の住人の中でも異端であり、失格である空色死銘とは違い、仕事に私情は挟まない。
所謂、プロフェッショナル。
だが、そんな紅葉でも、相手が目の前の旧友といっても差し支えない男に対しては、疑問という感情が浮かぶのであった。
「二つ目だ」
当然のように主語はないが、紅葉はそれで理解した。
同行してもらった彼女は、なにやら仲間外れのような心境を味わっているが、それを黙止し、続けて問う。
「聞くまでも無いのだが…………内容は?」
「殺しのヘルプと、護衛だ」
即座に頷き。
そして返す。
「君も理解しているだろうが、生憎と僕は護衛などという器用な真似をできる人間ではない―――――故に、彼女が護衛に当たる」
「助かる……が、正直なところ、そっちの彼女が殺しを手伝ってくれれば、上々なんだが」
「彼女は加減を知らないが?」
「それは困る」
だろう。とは紅葉は返さない。そんな性格じゃないからだ。
何故加減を知らないと困るかといえば、自分たちはあくまで殺しのヘルプであるからだ。その人物を痛めつけ、苦しめて、殺すのは彼自身が行うからであった。
凡そ紅葉の知る限り、殺さずに苦痛を与える術に長けた人間は、目の前の男がもっとも得意とする。それは彼の心器が成せる業であると同時に、彼の今まで行ってきた経験が合わさってそうさせている。
“狂わす”心器。
それが彼の心器の概要であった。
ありとあらゆるベクトルを狂わす、応用的には正反対にする事が可能であったり、斬った相手の身体を、精神を狂わす事をも可能である、地味であるが故の凶悪な心器であった。
何度か空色死銘と攻防を交わした事があるが、その凶悪ぶりは身をもって体感していた。
「詳細は、場所を変えよう」
彼が呟く。
紅葉は頷き荷物を背負い、龍麻の腕を引いて先を行く彼の後を追おうとすると、右腕を引かれる。
視線を移すと、不満に頬を膨らませている龍麻の表情があった。
「あの人の名前、なんていうの?」
答えようとして、空色死銘に視線を遣る。
自分も彼の本当の名前は知らないからだ。
空色死銘はその視線――――というよりは龍麻の声に気付き、こちらを振り返った。
「そういえば、自己紹介を忘れてた。俺の名前は、佐倉翔也だ」
「緋勇龍麻。よろしくー」
そう言って無邪気な声で握手を求めた龍麻に、空色死銘は―――――佐倉翔也は、若干の間をおいて手を差し出そうとして、手袋をつけていた事に気付き、その手袋を外す。
それを見た彼女も、うんうん、とかそんなことを言いながらもまとっていた特殊な手袋を外す。
「よろしく、頼む」
「任されましたっ。…………って、紅葉も握手握手!」
…………。
彼女を連れてきたのは間違いだったのだろうかと考えながらも、急かす龍麻に頷いて、紅葉は翔也に手を差し出す。
すると、今度は翔也が言う。
「手袋外せっての。なあ、緋勇さん?」
「そうだよそうだよ!」
龍麻を連れてきたのは間違いだったかもしれない。そう思っていると翔也が言った。
狂楽の声で。
「今から向かうところでよ」
視線はそらさず、翔也はこちらを見続けている。
そして言う。
「腕は鈍っちゃいねぇんだが―――――」
「――――中身が腐ったのか」
その問いに、翔也は口元の布を剥ぎ取り、その凶悪な笑みを隠そうともせずに、
「―――――腑抜けた死神を喰らい尽くしてくれねぇか?」
その、人とは掛け離れた禍々しい波動に龍麻が口笛を吹き、
「了解した」
断る理由がない紅葉は頷いた。
場所は変わり、牧内が保有する、訓練場とは名ばかりの更地。
そこに佐倉翔也の知人友人が数名集っていた。ただし、彼が尊敬し憧憬する、井口正輝と、その彼の将来の伴侶を除く人たちが、だが。
「「「―――――――」」」
「やってるねぇ…………」
その場所に、佐倉翔也の知人が集っていた。
信じられないようなものでも見ている女性が三人。
呆れつつも、かつて見た死の匂いに恐怖している男が一人。
「………………佐倉君」
色の無い瞳で眺めている女性が一人。
「紅葉ぁー、負けるなー!」「翔也ぁー、負けるんじゃねーぞ!」
互いに火花を散らしながら、お互いの番を応援している男と女。
その視線の先には、死を呼び込む二人の男が血と肉を貪りあっていた。
佐倉翔也。
壬生紅葉。
それが、死闘を行っているものの名であった。
翔也の得物は鎌。命を刈り取るデスサイズ。
紅葉の得物は脚。命を打ち砕くレクエイム。
何度かの攻防を――――――それは彼らにとっての準備運動に過ぎないが――――――重ねた後、彼らは時が止まったかのように動かず、対峙していた。
「……ちっ。全然見えないわよ」
自分の目が本質を捉えていなかった事、そして先ほどの攻防がまったく見えなかったことに対して、苛立ち、舌打ちをしている少女の名は白銀葉月。翔也と彼女に直接の面識はないのだが、なぜかここに居た。
「…………まだまだ、ですのね」
その隣では、硬く拳を握り締め、悔しさに歯を食い縛る女性がいた。
白銀弥生。それが彼女の名である。
この市の中でも、有数の富豪の長女である。
彼女も葉月と同じように翔也と直接の面識はないのだが、しかし彼女はここにいた。
そして、隣にいる彼女の妹は子供のように一つの言葉を呟いた。
「………………すごい」
彼女の名は白銀睦月。弥生の妹であり、白銀家の次女である。白銀という枠組みでは、翔也と友人であるのは彼女ただ一人である。
「下手に掠っただけでも終わりだからね。ホント、佐倉の心器はタチが悪い……」
彼女らとは距離を置きながら、紫煙を吐き出しているのは、翔也のクラスメイトにして、数少ない友人の水原友良。
彼もまた、普段とは違う内面をあらわしながら、この場に立っていた。
そして、銃器級という位階でありながらも、克明に今の動きを捉えていたのは、友良ただ一人であった。
心器能力者にして、“見抜く”という特性を有す心器を持つ彼は目の前の舞を余す事無く見続けている。心器の能力をフル活用して、だが。
そして、二人の戦いを、四人よりも更に遠くから眺めている女性がいた。
「異国術士……へー…………」
この屋敷の主である、牧内渚は時折視界から消える二人を能力を活用して追っていた。
彼女の位階は兵器級-。しかし、彼女は身体能力の充実が低い、というよりも高めようとしない。理由は特にない。
強いて言うのならば「なんとなく」だ。
彼女は空色死銘と呼ばれる人物に、護衛の仕事を依頼した人物である。
今のところ彼女を傷付けさせないという仕事は成功しているが、先日空色死銘から仕事を破棄したいという願いを聞き入れた。
何故自分の依頼を破棄したかといえば、そんなものは単純にして明快な答えだ。
彼の義理の妹が攫われた。
渚は空色死銘と出会った際に、魂魄励起をした。それは彼の内面を知りたかったという、些細な興味で行ったことだが、しかしそのおかげで彼の性格を知ることができた。
空色死銘―――――佐倉翔也は家族や友人に害成すものを赦さない。
絶対に、だ。
それは別に、彼が過去に本当の(といっても、今の義妹、即ち佐倉つばめのことも本当の妹と、それ以上に思ってはいるが)妹を失った事は関係ない。もともとからそういう性格なのだ、翔也という人間は。しかし、そこいらの他人がどうなろうとも構わない―――――目の前の救いを求める人間が死にそうになっていようとも、翔也は何の興味も感慨も抱かない、というある意味残酷な性格でもある。
そういう佐倉翔也の性格が、渚は気に入っているのであった。
だから、「うん」と翔也に返した。
「三雲君、よろしくね」
「珍しくマジな頼みじゃあ、仕方ないかなー。今週中にもう一つ絵を描こうと思ってたのになぁ……」
いつの間にか隣で座っていた三雲武司に声を掛ける。
その彼の表情はどこまでも笑顔で、楽しそうであった。
とある二人の傲慢と将来と夢によって創られた人形たちの唯一の生き残りにして、空色死銘にその形成を狂わされた人間。
三雲武司。
それが彼の名前であった。
佐倉翔也の親友の中で、最も強いとされる人間。
それが彼。
しかし、そんな彼は佐倉翔也の強さに絶対の自信と信仰を抱いている。
それは、翔也が生きている限り続くだろう。
「…………お」
「ルマルマ、壬生って奴の戦闘スタイルは―――――」
「一撃必殺」
「一緒ね」
「そ」
そして。
その隣にいるのが、壬生紅葉の連れ人、緋勇龍麻であった。
すぐさま武司と仲良くなり、既にあだ名で呼び合っている関係であった。
ずいぶんとまあ子供っぽい体だなぁ、と渚は思っても口に出さなかった。
気にしてそうだし。
「動かなくなったね」
視線の先では、翔也と紅葉の動きが止まっていた。どうやら、準備運動は終わったようであった。渚から見て、右下の位置に翔也が、左下の位置に紅葉が立っていた。
右手と、その手に持つヴァラキアカを後方の位置に佇ませ、左の手を、右手と対象の位置に置いていた。
対して、紅葉。
特に構えるわけではなく、ただ自然体でそこにいる。しかしそれはあらゆる局面に対応できるように、培ってきた経験の中から導き出された紅葉の戦闘の答え。
「ぴくりとも動かないんだね」
「翔也は完全無欠のカウンタータイプだからなあ、自分から攻めることもできるけど、まあ、待ちのほうが得意らしいしよ」
この感覚だ、と翔也は胸の裡で呟く。
刹那ですら気の抜けない空間。この場所で気を抜くことというのは=死であり、最良で致命傷。その公式が成り立っているのが、今現在自分の立つこの場所なんだと翔也は、今更ながらに思い出し、その所為で大切な妹が攫われた自分を蔑み、怒り、憎しみ――――次の瞬間には掻き消す。なぜならば、ここは戦場だからだ。殺し合いにそれ以外のことを考えられるような実力は自分は有していない、どころか、ここまでこれたのが不思議なぐらいの才能のなさなのだから。佐倉翔也という人間は。
一陣の風が吹き荒ぶ。
相手から発せられる陰氣がうねり、次の瞬間にはこちらに襲い掛かってくる。ヴァラキアカを一端消し、もう一つの心器――――蒼空の能力を全力行使し、それを打ち払う。当然のようにそれは目晦まし以外の効果は持っていないわけで、本命であるその足を、蒼空を消すのと同時に顕現させたヴァラキアカの柄で受け止める。
総毛立つのを感じながら、翔也は凄惨な笑みを深めて、表情の変わらない紅葉の顔を射抜く。相変わらずの、美形の仏頂面だった。
風を切る音が耳朶を反響する。
と、同時に翔也は舌打ちする。
防いだ足を払ったついでにその身体を真っ二つにしてやろうと振るった鎌は空を切っていた。そして、間合いの外にはあくまで平静な壬生紅葉。そのすかした面を歪めてやりたいと心から思い――――――動かない。
佐倉翔也の戦闘スタイルは、簡単に言えばカウンター一辺倒。
自分からは攻めに入らず、その場から動かず、相手が自分の間合いに入ったとたんにその凶刃を振るい―――――殺す。
優雅に鎌を弄びながらも、あくまで自分は動かず動じずに、相手が自分の領域に入ってくるのを待つのが、翔也の、強いては空色死銘の殺戮スタイルである。
翔也のもともとの心器の形状が、“致命的に使い辛すぎる鎌であったわけではない”。
誰が好き好んであんな形状にするものか、と翔也は何度も愚痴を零したことがある。このときほど、自分の一種の“信仰”にあきれた事はなかったし、怒りを覚えた事もなかった。
翔也はどちらかといえば、戦闘者たる才能を余り有しては居ない。他の人が三度やって形になるものを、翔也は何十回もやらねば形にならなかったし、ならなかったからこそ、あらゆる逆境に身を置き、あらゆる地獄に身を委ね―――――今も尚、生き延びている。
努力の賜物といえばそれまでだが、しかし恐らく彼は“一般人”における修行の枠を超えた鍛錬に血を交えていった。それでも、自分と同じ立場にいるような奴らはそんな人ばかりだが、それでも、
―――――集中する。
全身を研ぎ澄ませ、鋭利な刃物の先端を思い起こさせる集中力を手に入れる為に、翔也は一端目を閉じ、そして開ける。
そこには。
「……………」
自然体。
昔と変わらぬ否、昔よりも更に隙が無くなった自然体。
(まあどんな構えしてもらってもいいんだけどな)
翔也は自分から動く事はない。この構えになった以上、どんなに相手が動かなくても、相手が自分の領域に入ってこない限り、絶対に動く事はしない。
それが、唯一教えてもらった事だ。
遠い昔、どこかの糞ジジイに教えてもらった事だ。
「位置についてー」
ふと気付けば龍麻と武司がいた。
ちょうど、自分と紅葉の相対する中心の位置に。
武司が”模倣“させたのであろう、その手に小さな銃を持って。
(合図のつもりか、アレ)
先手は絶対に、紅葉からだ。
「よーーーーーーーーーいっ」
どん、と言おうとした龍麻の声を完全に無視し、駆け出したのは紅葉。龍麻が何処か不服そうな顔だったが、まあ自分がきにすることではないので、無視。
紅葉は十数メートルを僅か二歩で跳歩。緩急をつけてくるわけがない紅葉の身体を切断しようとヴァラキアカを薙ぐが、それは当然のように紙一重でいなされる。舌打ちする間もなく、紅葉の脚が自分の顔を砕こうと猛威を振るうが、翔也はそれを、首をいなすことで回避し、同時に後方に飛んで自分の間合いを有利にしようとする。が、それをさせる壬生紅葉ではない。後方に下がるのと同時に自分に接近してきた。
そんなことは理解している翔也は後方に跳ぶと同じく再び体制に入っていたヴァラキアカを縦に薙いで横に薙ぐという奇怪な攻撃をした。わずかばかりに空に浮いているからこそできる、その芸当。ヴァラキアカの旋回に身を任せた故の不規則な連激。そして、それは完全に運で、紅葉の腕に掠った。
「……」
紅葉の顔がぴくりと動いたのを自覚できた。それは自分の能力が一瞬でレジストされた証でもあるが、“狂乱極まりない能力によって隙ができた一瞬でもある”。
その隙を見逃すような翔也では、空色ではない。未だ自分の間合いにいる愚かな猟犬に暴虐の一撃を加えようとして、背筋を覆いつくすその陰気を咄嗟に変えた心器で防ぐ……
――――が。
「っつぅ……」
当然、間に合うはずも無く、その陰気を身体に浴び、痛覚が警報を鳴らした。五月蝿ぇよと言いながら、翔也は極僅かに移るその陰気にヴァラキアカを当て、狂わす。
失敗。
余計に狂おしくなった陰気に身を苦しめながら、翔也はもう一度構える。
“死鎌《デスサイズ》”で勝てるほど、甘くはねぇ……か。
舌打ちし、心器の形状を戻そうとして、
「これぐらいで、いいだろう」
頬と、その両腕をに一つずつついた傷を示して、紅葉はそう言った。
「…………どうしたんだ、その腕」
「相変わらずの偶然頼りだな、空色死銘―――――君の鎌を回避するのは良かったが、それにあわせての無数の鎌鼬によって生じたものだ」
この腕は、と紅葉は続け、翔也は感嘆の意を漏らす。
「成功してたか…………死方斬撃……成功率が五分五分なのが偶に瑕だけどな」
「…………相変わらず戦場で技を編み出すのが巧い奴だ」
「半分パクりだがな」
やったのはこうだ。
斬撃の際に否応無く生じる、僅かな風を狂化。薙ぐことによって生じた僅かな風は、切り裂く刃となり、紅葉へと襲い掛かった。咄嗟に仕掛けられたその“博打”に気付かなかった紅葉は、それを防ぐことすらできずに、その腕へと傷を受けた。
五分五分というのは、その風がどう狂化されるかわからないうえに、その上で、紅葉に刃が向くか、自分に刃が向くかがわからない、という意味での五分だ。
「ありがとよ……今回成功したことで、戦法の幅が多少なりとも広がった」
「とりあえず、それを祓っておこう……苦しいのだろう。実は」
「当然だろ。気持ち悪い痛い苦しい」
紅葉が言いながら近付き、未だ蠢く陰気を祓おうとして、
それを掻き消す暖かな陽氣に包まれた。
「緋勇さん、サンキュ」
そこにいたのは緋勇龍麻。
彼女は太陽も羨むぐらいの笑みを浮かべて、翔也に言った。
「すっごいすっごい!」
純粋な賛辞と、盛大な拍手。
彼女からしてみれば、自分が紅葉とこうまで戦い合えることに驚愕を示しているのであろう。まあ、どう返していいのかわからないので翔也は頷くだけの反応で済ませた。ありがとう、というと自分の弱さを認めてしまうような―――――ああ、俺は弱いんだ――――いや、認めておくべきだったか。素直に礼を言うべきだったと反省した。
太陽の日差しのような温もりに包まれながら、翔也は自分の身体が治療されていることにようやく気付いた。痛覚に鈍感なのは、仕事柄仕方がなかったことなのでどうしようもないのだが、身体が快復していることに気付かないのはかなり拙いのではないのだろうか、と思い、次の瞬間にはまあいいや、で済ませてしまった。
自分の身体が既にどこか狂っていることを気付かずに。
翔也の身体を精密検査してみればわかることなのだが、常人のそれとは内部構造が異なっている。理由は単純、度重なる自分へのヴァラキアカの行使の為だ。極小の狂いが積み重なり、翔也の身体を改変している。将来、下手をすれば、人間とは言えないような“生物”が出来上がる危惧があるかもしれないが、今はそれに気付くことはないだろう。
大手術を終えた上で、友人でもあり、自身が兄と尊敬する井口正輝という医者の卵の口から聞くまでは。
閑話休題。
ひとまず戦を交えてくれた紅葉に、治療を序に行ってくれた龍麻に改めて礼を言い、仕事の概要を教えることにした。
対象は愛沢星、愛沢月の両名。姉のほうの能力は身をもって体感していたのでそれを教える。龍麻の顔がころころ変わるのに苦笑を浮かべつつ、妹のほうの能力はわからない、とだけ告げた。身体能力の充実を見る限り、彼女は心器能力者であることはわかった。だが、あの時に能力を使われたわけではないので、概要まではわからない、と。
「ああ、難易度はAランクかな。その姉妹が兵器級だし」
ふと思い出して、そういった。紅葉の顔が僅かに歪んだが、まあいいだろう。
姉妹以外の二人が出てくるとして、そいつらが邪魔するようなら殺しても構わない。後始末は俺がつける、とだけ告げて、
「さて、以上を踏まえて質問はあるか、壬生紅葉?」
そう、問うた。
最終更新:2007年07月17日 21:34