民主主義の反対は独裁主義である。独裁主義は権威主義とも呼ばれる。なぜならば、独裁主義の下では、上に立っているものが権威を独占して、下にある人々を思うがままに動かすからである。国王や、独裁者や、支配者たちは、あるいは公然と、あるいは隠れて、事を決し、政策を定め、法律を作る。そうして、一般の人々は、事のよしあしにかかわらずそれに従う。その場合に、権威を独占している人間は、下の人たちに上手にお世辞を言ったり、これをおだてたりして、時には褒め称えたりするであろう。しかしその人たちにはどこまでも臣民であり、臣下である。そうして臣下は、その主人の命令に、その気まぐれな意思にさえ、無条件に従わせられる。
だから独裁主義は、専制主義とか、全体主義とか、ファシズムとか、ナチズムとか、そのほかいろいろな形を取って現れるが、その間には根本の共通点がある。それは、権威を持っている人間が、普通一般の人々を軽蔑し、見下ろし、一般人の運命に対して少しも真剣な関心を抱かないという点である。
専制政治には国王がある。権門政治には門閥がある。金権政治には財閥がある。そういう人々にとっては、一般のものは、ただ服従させておきさえすればよい動物に過ぎない。あるいは上に立っている連中の生活を、華やかな、愉快なものにするための、単なる道具に過ぎない。彼らは、こういう考え方を露骨に示すこともある。その気持ちを隠して、体裁だけは四民平等のような顔をしていることもある。しかし結局は同じことである。そこには、本当に人間を尊重するという観念がない。支配者は、自分たちだけは尊重するが、一般人は一段下がった人間としてしか取り扱わない。一般人のほうでもまた、自分たちは一段低い人間であると考え、上からの権威に盲従して怪しまない。
人間社会の文化の程度が低い時代には、支配者たちは、その動機を少しも隠そうとしなかった。部落の酋長や専制時代の国王は、もっと強大な権力を得、もっと大規模な略奪をしたいという簡単明白な理由から、露骨に彼らの人民たちを酷使したり、戦争に駆り立てたりした。ところが、文明が向上し、人智が発達してくるにつれて、専制主義や独裁主義のやり方もだんだんと上手になってくる。独裁者たちは、彼らの貪欲な、傲慢な動機を露骨にしめさないで、それを道徳だの、国家の名誉だの、民族の繁栄だのという余所行きの着物で飾るほうが、いっそう都合が良いし、効果も上げるということを発見した。帝国の光栄を守るというような美名の元に、人々は服従し、馬車馬のように働き、一命を投げ出して戦った。しかし、それはいったい何のためだったろう。彼らは、独裁者の野望に操られているとは知らないで、そうすることが義務だと考え、そうして死んでいったのである。
現にそういう風にして日本も無謀きわまる戦争を始め、その戦争はもっとも悲惨な敗北に終わり、国民の全てが独裁政治によってもたらされた途端の苦しみを骨身にしみて味わった。これからの日本では、そういうことは二度と再び起こらないと思うかもしれない。しかし、そういって安心していることはできない。独裁主義は、民主化されたはずの今後の日本にも、いつ、どこから忍び込んでくるか分からないのである。独裁政治を利用しようとするものは、今度はまたやり方を変えて、もっと上手になるだろう。今度は、誰もが反対できない民主主義という1番美しい名前を借りて、こうするのがみんなのためだといって、人々を操ろうとするだろう。弁舌でおだてたり、金力で誘惑したり、世の中を騒ぎと混乱に陥れ、その混乱に乗じて上手に宣伝したり、手を変え、品を変えて、自分たちの野望を何とか物にしようとするものが出てこないとは限らない。そういう野望を打ち破るにはどうしたらいいだろうか。
それを打ち破る方法は、ただひとつある。それは、国民のみんなが政治的に懸命になることである。人に言われて、そのとおりに動くのではなく、自分の判断で、正しいものと正しくないものとをかみ分けることができるようになることである。民主主義は、「国民のための政治」であるが、何が「国民のための政治」であるかを自分で判断できないようでは民主主義国家の国民とは言われない。国民の一人一人が自分で考え、自分たちの意志で物事を決めていく。もちろん、みんなの意見が一致することは、なかなか望めないから、その場合には、多数の意見に従う。国民はみんな忙しい仕事を持っているから、自分たちがこれはと思う人を代表者に選んで、その代表者に政治をやらせる。しかし、あくまでも他人任せではなく、自分たちの信念が政治の上に繁栄するように努める。そうすれば、ボスも、独裁者も入り込む隙がない。
だから、民主主義は独裁主義の正反対であるが、しかし、民主主義にも決して権威がないわけではない。ただ、民主主義では、権威は、賢明で自主的に行動する国民の側にある。それは、下から上への権威である。それは被治者の承認による政治である。そこでは、全ての政治の機能が、社会を構成する全ての意見に基づき、全ての人々の利益のために合理的に行われる。政治の上では、万事の調子が「何時臣民」から「我ら国民」に代わる。国民は、自由に選ばれた代表者を通して、国民自らを支配する。国民の代表者は、国民の主人ではなく、その高木である。国民の意思によって作られた法律は、国民自らの生活を規律すると同時に、国民の代表者たちによって行われる政治そのものを規律する。それが、政治の面に現れた民主主義に他ならない。
最終更新:2006年12月22日 01:42