民主主義は、近頃大変流行り言葉となってきた。誰しもが、口を開けば民主主義といい、筆を取れば民主化を論ずる。そういう言葉を聴き、それらの議論を読んでいると、世の中が回り舞台のように根こそぎ民主主義に換わってしまったように見える。独裁者は地球上から死に絶え、封建主義も人の心からぬぐったように消えうせたかの観がある。
しかし民主主義という言葉にはいろいろな意味がある。この言葉の用いられる方面はますます広くなってきたし、それだけに、人によってこれを理解する仕方もきわめてまちまちである。したがって、民主主義とはおよそ反対なものを民主主義だといって、それを人々に強要する場合もある。すっかり民主化されたはずの世の中に、はなはだ非民主的な権力を持ったボスが居たり、親分・子分の関係が支配していたりすることもある。だから、民主主義という言葉が流行っているから、それで民主主義が本当に行われていると思ったら、とんでもない間違いである。大切なことは、言葉ではなく、実質である。それでは、いったい、本当の民主主義とはどんなものであろうか。
民主主義とは何かということを定義するのは、非常に難しい。しかし、その点をはっきりとつかんでおかないと、大きな食い違いが起こる。民主主義を正しく学び、確実に実行すれば、繁栄と平和とがもたらされる。反対の場合には、人類の将来に戦争と破壊が待っている。人類の住むところは、地球上のこの世界以外にはない。これを、生きとし生ける全ての人間にとっての住みよい、平和な、幸福な、ひとつの世界に築き上げていくことができるか、あるいは逆に、これを憎しみと争いと死の恐怖とに満ちた、この世ながらの地獄にしてしまうかの分かれ道は、民主主義を本当に自分のものにするかどうかにある。ゆえに、大げさな言い方でもなんでもなく、民主主義は文字通り成果鹿の問題である。平和と幸福とを求めるものは、何をおいても、まず民主主義の本質を正しく理解することに勤めなければならない。
多くの人々は、民主主義とは単なる政治上の制度だと考えている。民主主義とは民主政治のことであり、それ以外の何者でもないと思っている。しかし、政治の面からだけ見ていたのでは、民主主義を本当に理解することはできない。政治上の制度としての民主主義ももとより大切であるが、それよりもっと大切なのは、民主主義の精神をつかむことである。なぜならば、民主主義の根本は、精神的な態度に他ならないからである。それでは、民主主義の根本精神は何であろうか。それh、つまり、人間の尊重ということに他ならない。
人間が人間として自分自身を尊重し、互いに他人を尊重しあうということは、政治上の問題や議員の候補者について賛成や反対の投票をするよりも、遥かに大切な民主主義の心構えである。
そういうと、人間が自分自身を尊重するのは当たり前だ、と答えるものがあるかもしれない。しかし、これまでの日本では、どれだけ多くの人が自分自身を卑しめ、ただ権力に屈従して暮らすことに甘んじてきたことであろうか。正しいと信ずることをも主張しえず、「無理が通れば道理引っ込む」といい、「長いものには巻かれろ」といって、泣き寝入りを続けてきたことであろうか。それは、自分自身を尊重しないというよりも、むしろ、自分自身を奴隷にしてはばからない態度である。人類を大きな不幸に陥れる専制主義や独裁主義は、こういう民衆の態度を良いことにして、その上にのさばりかえるのである。だから、民主主義を体得するためにまず学ばなければならないのは、各人が自分自身の人格を尊重し、自らが正しいと考えるところの信念に忠実であるという精神なのである。
ところで、世の中は、大勢の人々の間の持ちつ持たれつの共同生活である。したがって、自分自身を人間として尊重するものは、同じように、全ての他人を人間として尊重しなければならない。民主主義の精神が自分自身を人間として尊重するにあるからといって、それをわがまま勝手な利己主義と取り違えるものがあるならば、とんでもない間違いである。自らの権利を主張するものは、他人の権利を重んじなければならない。自己の自由を主張するものは、他人の自由に深い敬意を払わなければならない。そこから出てくるものは、お互いの理解と行為と信頼であり、全ての人間の平等性の永認である。キリストは、「全て人にせられんと思うことは、人にもまたそのごとくせよ」と教えた。孔子も、「己の欲せざるところは、人にも施す事なかれ。」と言った。もしもこの行為と友愛の精神が社会にいきわたっているならば、その社会は民主的である。もしもそれが工場の労働者と使用者との関係にしみこんでいるならば、その工場は民主的である。もしもそれが学校や組合や家庭の人々の間柄を指導しているならば、それらの制度もまた民主的である。背どこでも、いつでも、この精神が人間の関係を貫いている場合には、そこに民主主義がある。政治もまた、この精神を基礎とした場合にのみ、本当の意味で民主的でありうる。
だから、民主主義は、議員を選挙したり、多数決で事を決めたりする政治のやり方よりも、ずっと大きいものである。それは、適用される範囲が非常に広いものであり、したがって、外面に現れたその形は、時により、ところによって変化する。しかし、その根本をなしている精神は、いつになってもどこへ言っても変わることはない。国によって民主主義が違うように思うのは、その外形だけを見ているからである。同じ民主主義の根本精神が染み渡っていけば、どんなに職業や、信仰や、人種が違っていても、人と人との間に、同じひとつの理解と協力の関係が生まれる。単に一国の内部だけでなく、別々の言葉を話し、異なる文化を持つ違った民族の間にも、同じように理解と協力の関係が広まっていく。そうして、だんだんと世界がひとつになっていく。対立と搾取と逃走のない、ただひとつの世界が築き上げられて行く。
このように、民主主義の本質は、常に変わることのない根本精神なのである。したがって、民主主義の本質について、中心的な問題となるのは、その外形がどの種類かと言うことではなくて、そこにどの程度の精神が含まれているかと言うことなのである。民主主義は、家庭の中にもあるし、学校にもあるし、向上にもある。社会生活にもあるし、経済生活にもあるし、政治生活にもある。どこまでそれが本物の民主y過ぎであるかが問題なのである。その程度を測るはかりのようなものがあるであろうか。私どもは、合金の中に含まれている純金の分量を量ることができる。金とめっきとを見分けることができる。恐れと同じように、私どもは、社会生活や経済生活や政治生活の中に含まれている民主主義の分量を、ある程度の正確さを持って図ることはできないものであろうか。金や銀の分量と違って、民主主義の本質は精神的なものであるから、それを図ることはもとより非常に難しい。しかし、民主主義の仮装をつけてのさばってくる独裁主義と、本物の民主主義とをはっきりと識別することは、きわめて大切である。如何に難しくても、できるだけそれをやってみなければならない。
最終更新:2006年12月20日 03:10