歴史的経緯
帝政ロシアは、 1727年にも清国とキャフタ条約を結び、モンゴル地方の国境を確立している。その後、1858年にはアムール川以北をロシア領とした愛琿条約、1860年には沿海州をロシア領とする北京条約を結んだ。(年表から)
日本が、日清戦争後朝鮮半島を併合し、日露戦争後満州に進出、清国滅亡後の中国とも戦端を開いたことは紛れもない事実です。
しかしながら、当時の日本にとって、不凍港を求めて南下する帝政ロシアに対し、清国が沿海州同様、清国の属国であった朝鮮半島を割譲することが、悪夢であったことは、地政学的に地図を見ていただければご理解いただけると思います。
当時の清国が、アジアの盟主として、また、大中華として、白色人種の帝国主義的侵略に断固として勝利していれば、当時の日本がこのような(自衛のための)侵略を行わず、江戸時代同様、鎖国により平和を確保し、対外的に惰眠をむさぼれていたことだけは、歴史の流れとして理解いただければと思います。
軍事的観点から当時の日本が、自由と独立を確保するためには、現在の中国がインドやロシアとの間に緩衝地帯を必要としているように、帝政ロシアとの間に緩衝地帯としての満州と朝鮮半島が必要であったのです。
靖国神社は、明治維新以降、わが国を西欧列強の植民地にしないための戦いに殉じた人々の鎮魂のための施設です。
最終更新:2005年07月11日 21:29