2014年9月、東京都内に点在する栗林・ペトリゆかりの地、いわゆる『聖地』を訪ね歩いてみた。
下谷区仲御徒町
- 東京市下谷区仲御徒町1丁目(現在の東京都台東区上野5-3南部)
戦前、栗林の工場はこの地に存在した。現段階で判明している住所は3ヶ所。
- 仲御徒町1-58(工場)
- 仲御徒町1-8(販売部・以上2軒は昭和5年の広告に記載)
- 仲御徒町1-47(昭和10年版 全国工場通覧に記載)
(昭和5年版の地図に加筆)
この3ヶ所はいずれも道路を挟んで隣接している。
年度によって記載の住所が異なっているが、これらが移転によるものか、あるいは同時に存在したのか、詳細は不明。
また別の時期に、他の住所に工場等があった可能性もある。
昭和5年の時点で工場・販売部があった場所(手前が工場。奥の青いテントが見える所に販売部があった)。
昭和10年の時点で工場があった辺り。
昭和20年の東京大空襲で一帯は焼失。現在の建物はいずれも戦後に建てられており、当時の面影はまったく残っていない。
なお、戦後栗林の工場は同地では再建されず、梅島工場を拠点として復興に至った。
神田錦町
戦後、『栗林写真機械製作所』時代(1949年~1956年)に本社やサービスステーションが置かれた。
『広告にみる 国産カメラの歴史』に収録されているペトリーの広告に地図があり、明大通り沿いに描かれている。
神田小川町
1956年に『栗林写真工業』へ改称し、本社・サービスステーションはこの地へ移転した。
住所以外の資料がなく、位置の詳細な特定はできていない。
九段
- 東京都千代田区九段2-5(住居表示実施後は千代田区九段南2-4-16)
1961年に本社が小川町から梅島へ移転。新たな営業所として『ペトリカメラ東京センター』が九段に設けられ、サービスステーションもセンター内に置かれた。梅島工場で作られた製品は一度東京センターへと送られ、ここから全国へ配送されていたという。
『
ペトリカメラのしおり』や『
ペトリライン』に建物の写真が掲載されている。
※2015年12月追記
梅島
- 東京都足立区梅島町1(住居表示実施後は足立区梅田7-25-12)
1936年に分工場として操業開始。空襲で下谷工場が全焼し、戦後はこちらを本工場として再建された。
以来工場の増設を重ね、1961年に本社機能が小川町から梅島へ移転。翌年には全長800mのベルトコンベアーを導入した3階建ての工場が完成した。
1977年の倒産後も組合による自主生産が続けられたが、80年に組合側と栗林家の和解によって工場が明け渡され、40年以上に及ぶ梅島工場の歴史に終止符が打たれた。跡地にはマンションが建てられている。
(文責:2chペトリスレ・B)
最終更新:2015年12月23日 11:11