リヴァー王国第四王女、「社交界の女王」として名高いマリアンヌ姫の応接室は、王女たちが住まう秋の宮の中でも、ひときわ華やかだと評判だった。ベルベット張りの柔らかい長椅子に、ふわふわの毛織の絨毯。磨きこまれた樫の卓上には、旬の果物に焼き菓子に香りのよい紅茶。そして彩りを添えるのは、淑女たちの引きもきらないお喋りだ。本日の話題の中心は、来るべきユーリ二世の生誕記念祝賀祭について、―――さらに正確にいうと、その期間に王宮で催される舞踏会についてだった。
「どんなドレスにしたらいいのか、まだ決めていないのよ。 絹にするか、それとも光沢を考えて、繻子でもいいし―――、ああ迷いどころだわ」マリアンヌ王女が悩ましげなため息をつくと、ブリューム侯爵家の双子姉妹キャロルとルイーゼは熱心に相槌を打った。「色も重要よ。私たちは、赤毛だから、どうしても似合う色が限られてしまうのよね」「何しろ、今回は外国からも大勢お客様がいらっしゃるのだから、完璧なドレスにしたいものだわ」
夜会にどんな衣装を着ていくかは、彼女たちの永遠のテーマだった。ドレスやアクセサリーだけでなく、手袋や靴、扇子に至るまで、細心の注意で選ばなくてはならない。
「大丈夫。どんな衣装を着ようとも、あなたたちは舞踏会の華よ」
マリアンヌは「あら」と声の主を見遣る。盛り上がる三人を尻目に、先ほどからフィールド公爵令嬢セシリアは、黙々と木苺の焼き菓子を頬張っていたのだ。
「どうしたの? セシィ。やけに元気がないじゃないの。 それとも、あなたこそが満開の華だと言ってもらいたいのかしら」「まあ、違うのよ。ただどうしても、舞踏会に乗り気になれなくて――― 実はね、今回の舞踏会では、どの殿方ともダンスをするなとお父様から厳命されているのよ」「まあ!!」双子姉妹は、そろって驚嘆の声を上げ、マリアンヌは目をしばたかせた。「とても信じられないわ! フィールド公爵は何をお考えでいらっしゃるの?」マリアンヌの質問に、セシリアは「見当も付かないわ」と首を振る。その実、父親の考えは透けて見渡せた。遅まきながら、彼はセシリアの身辺にやたらと気を配っている。要するに、ノイス王族との正式な婚約が決まる前に、娘に悪い虫が付いたらたまったものではない、と余計な気を回しているのだ。今回の舞踏会にしても、侍女のトルテが、お目付け役としてばっちり同行させられることとなっていた。
「でも、別にかまわなくってよ。私はダンスがそんなに得意じゃないんですもの。 喜んで、壁の花役を引き受けさせてもらうわ」深い同情の視線を寄せる友人たちに、セシリアはせいいっぱいの強がりをみせた。
「そんなのいけないわ! 記念祭のメインイベントは、やはり夜の舞踏会よ! 舞踏会を楽しまずして、祭典を語ることなかれ、と先人もおっしゃっているわ」マリアンヌは真剣な表情で、滔々と語り、双子姉妹も「そうよ、そうよ」と騒ぎ立てた。
いいえ、先人曰く「祭典の要は、ただ王を祝う心のみ」であるし、最重要行事は、最終日に行われる記念式典のはずだわ。――――――などと口を挟めるような雰囲気ではとてもない。セシリアは父親の影響下、式典や祭儀のしきたりを重んじる方だが、大半の令嬢たちにとって、そんなものよりも、それに合わせて催される社交の場の方が重要なのは世の常なのだ。
やがて、ブリューム姉妹は、新しいドレスの採寸を取る予定があるのでと応接室を辞去した。すると、マリアンヌは急にそわそわとセシリアの表情を伺い出した。「ねえ、セシリア、あなたにお話したいことがあるのよ」「あら、何かしら? マリアンヌ」「こんなこと、舞踏会のお楽しみを奪われたあなたに話すべきではないのだけれど……」「まあ、そんなこと。いいから話してちょうだい。私は、あなたがたと違って、そこまで舞踏会に重きを置いていないのよ」興味津々の顔を作り、マリアンヌを促すと、待っていましたとばかりに彼女は打ち明け話を始めた。「ええ、実はね。私、恋文をもらったのよ」「まあ!」なんて大胆なのかしら、とセシリアは驚いた。畏れ多くも、王女に懸想するなんて。
マリアンヌは当年とって十八歳。十二分に結婚適齢期の美姫である。しかし、姉姫たちが諸外国の目ぼしい王や王子の元へと嫁いでしまい、現状では夫候補を選出するのは、困難を極めている。セシリアには政治的背景はよくわからないのだが、国内の貴族と結婚するのも難しいらしい。とはいえ、近年では晩婚率も上がり、二十歳を過ぎてから嫁ぐ令嬢も決して珍しくない。むしろ、「さっさと結婚、たっぷり後悔」するよりも、「たっぷりと独身を謳歌し、しっかりと相手を吟味する」という風潮まで生まれ、古参の貴族たちは頭を抱えている。もちろんセシリアのように両家の利害関係のみで結婚を急かされる事例もあるにはあるが。つまり、マリアンヌは社交界の頂点に燦然と君臨し、思う存分優雅で気楽な独身生活を味わっていたのである。
親友の反応に気をよくしたマリアンヌは、隣室から白い封筒を持って来た。「これなのよ。読んでみてちょうだい」セシリアは、マリアンヌに渡された便箋に、好奇の色で顔をうずめたが、びっしりと書き込まれた文字に面食らってしまった。
『貴女を見るたび柔らかな春の日差しを思い出し切なさに身は震える 春の女神に愛された輝かしい貴女に近づくことは許されるのだろうか この身は夜の闇のように目立たず罪深い存在なのだ ああそれなのに眩しい至上の宝石を抱く貴女を攫いたくて仕方がない―――――――――』
延々と並ぶ美辞麗句を拾い読みしながら、セシリアが的確な要約が行ったところによると、「―――つまり、記念祭の舞踏会の折に、あなたにお会いしたいと願い出ているのね」「そうなのよ、どうしましょう」ちっとも困っていない声で、マリアンヌは大げさにため息を漏らす。どうりで、あんなにも舞踏会を楽しみにしていたはずだわ、と合点が行った。便箋三枚にも渡る情熱の句を少々うんざりしながら読み終えたあと、セシリアは最後に記された署名に目を丸めた。
『あなたの漆黒の騎士より』
「―――『漆黒の騎士』ですって? まあ、この方は、一体どなたなのかしら」「それが、わからないのよ」うっとりしながら、マリアンヌは続けた。「でも、騎士とあるからには、軍部の方だとは思うの」「名乗らないなんて怪しいわ。軍部といえども不埒な傭兵かもしれないじゃないの」「いいえ、とても下賎な輩とは思えないわ」「―――そうね。 確かにこの紙は上質だし、香が焚きこめられているから、かなりの風流人ね。 何より、こんな(回りくどい)文章は、ある程度の教養を積まれた方にしか書けないわ」セシリアは、親友のために必死で拙い推理力を発揮させた。ふとマリアンヌを見遣ると、翡翠色の瞳の中にきらめく星を宿らせ、頬を薔薇色に染めた彼女は、筆舌しがたいほどの美しさだった。
「マリアンヌ、あなたったら、お手紙だけで、『漆黒の騎士』様に心を奪われてしまったの?」「まあ、まさか。お逢いしてみないことには」未だ醒めきらない夢の中にいる乙女のように見えながら、マリアンヌは一時のアバンチュールに大人の構えを見せた。「ただこの手紙は合格よ。『漆黒の騎士』様は、私と逢って、二人だけでお話しする資格を得たというわけ」余裕なマリアンヌに、セシリアは二歳の年の差を噛みしめ、なんだか胸の奥が針で刺されたように痛んだ。
「ねえ、セシリア、このことは誰にも秘密よ。カリューンの恋愛神の名にかけて誓ってちょうだい」「ええ、もちろん誓うわ」セシリアは力強く頷いた。自分だけに、このことを打ち明けてくれたのだと思えば少しは慰められる。あとで、その誓いを後悔するはめになるとは、このときのセシリアには思いもよらなかったのだ。
記念祭の初日は、軍部の華やかなパレードで幕を開けた。この期間、各地から集まった民衆で王都の人口は膨れ上がる。商人にとっては稼ぎ時だ。
自邸の窓から漏れ聞こえる喧騒に耳を傾けながら、セシリアはのんびりと夜会の準備を進めていた。フィールド公爵夫妻は、式典やら園遊会やらに出席するため、早朝から不在だったが、その一人娘であるセシリアの本日の予定は、夕刻から始まる舞踏会に出席することだけだった。
「まあ、セシリア様、とても綺麗ですわ」侍女のトルテが感嘆の声を上げると、セシリアは「そうかしら」と謙虚に応じた。内心では満更でもなかった。深青色の最高級のサテンは、明るい色の髪と絶妙なコントラストを示している。陽の光の中でも見事だが、夜の灯りの中でより一層映えるだろう。一粒真珠のネックレスは飾り気のないものだったが、首筋を優美に見せるのに最適だった。このドレスを担当した仕立屋は、 フィールド公爵から、とにかく明るい色のドレスと華美な装飾品は避けるようにと言い含められていた。それでも、王国随一と名高い彼は、派手にせずとも淑女の魅力を最大限に引き出す術をわきまえていたのである。
「やはり、髪は後ろで高く結い上げましょう。より大人っぽく見えますわ」トルテは、主人の長い金髪を高い位置でまとめると、粒真珠のピンを散りばめさせた。仕上げに彼女のうなじにスミレの香水を吹きかける。「随分な力の入れようね、トルテ。お父様から言われているでしょうに、私を目立たせるな、と」セシリアが不思議そうに首をかしげると、トルテは急に口ごもった。
「―――わたしが申す立場ではないのは承知ですが、旦那様はひどすぎると思います。 せっかくの舞踏会で、なるべく目立たないようにさせろ、だなんて」「出席できただけでも有難いことなのよ。ただの夜会だったら、おそらく行くことさえ叶わなかったでしょう」「そんなの……何だかセシリア様らしくありませんわ。いつもなら、旦那様に食って掛かるのに」「あんな頑固者のお父様と丸腰で言い争いをしても、疲れるだけということが、最近になってようやくわかってきたのよ」だから近いうちに、何か秘策を練らなくては、と心に決める。
「そうですか……」トルテの口調は、いつもの従順な侍女らしからぬ色合いが含まれていた。そこで、ようやくセシリアは「あら」と思い、鏡越しに彼女の顔を観察した。「何か秘め事があるみたいね、トルテ。隠さずに言っておしまい」
途端にトルテは慌てて、「いいえ、そんな」「畏れ多いです」と言いよどむ。宥めすかして、ようやく白状させたところによると、彼女は今晩、同郷の青年と一緒に城下の夜祭へと繰り出す計画を立てていたらしい。
「それを、私のお目付け役の任により、ぶち壊されたというわけね」「まあ、そんなこと。わたしのことなんかどうでもいいです」トルテは必死になって、「セシリア様のせいではないのだから」と言い張る。それでも、セシリアは彼女の奥底に眠る未練を嗅ぎ取った。
「それでは、こうしましょう。 トルテは私と共に、王宮へ向かうけれど、会場まで着いたら別れるのよ。 あなたは好きなところへ行っていいわ」「まあ、セシリア様」トルテは驚いて首を振る。「旦那様たちにばれたらどうするんですの」「ばれっこないわ。お父様たちは舞踏会ではなくて、晩餐会に出席するのだから。 そうだ、私は王宮に居室を取らせて、泊まることにするわ。 そうすれば、あなたはたっぷりと遊ぶことができるし、私は遅くまで夜会を楽しむことができるわ」「そんな、わたしのために、何もそこまで……」「いいえ、私も心ゆくまで舞踏会を楽しみたいだけなのよ」それに、これは父親に向けたささやかな反抗でもある。切なげな顔を装おうと、トルテはそれ以上、主人の好意を跳ねつける真似はしなかった。そんなトルテを満足げに眺め、セシリアは「それにしても」と言葉を続ける。「あなたに恋人がいたなんて、全く知らなかったわ」「こっ、恋人なんかではありません。ただの昔馴染みです」トルテの頬は、みるみるうちに薔薇色に染まった。男女の機微に疎いセシリアは「あら、そうなの」と単純に受け止めたが、それでも、今まで知らなかった侍女の意外な一面に、何故だか胸の奥がちくりと痛んだ。
馬車に乗る前に、御者のドルーエに声をかけた。「今日は正門から回ってちょうだいね」ドルーエは、「ええ、もちろん」と快諾する。彼にはセシリアの目的がわかっていた。ちょうど王城の正門側に位置する高見台に、ユーリ二世とマリアンヌが上がっている頃なのだ。慣例に従い、ユーリ二世は沸き立つ観衆を前にして感謝の意を伝える演説を行い、その隣で第四王女マリアンヌは彼らに悠然と微笑みかけて手を振る。
通常なら、マリアンヌの役目は、王妃か王太子妃がしなくてはならない。しかしながら王妃は数年前に病没し、王太子の座は未だに空席であるから王太子妃も存在しない。姉姫たちはすでに嫁いでいる現在では、必然的に、最年長の王女であるマリアンヌが公式の場で国王の相手役を務めることが多い。そういうわけで、第四王女マリアンヌは「社交界の女王」どころか、「リヴァー王国のファーストレディ」の称号をほしいままにしている無敵の姫だった。
「今日はマリアンヌ様とお会いになられるんですか」セシリアのあとから、馬車に乗り込んだトルテは、クッションを膨らまし、主人の背中にあてがった。「ええ、舞踏会で顔を合わすと思うわ。でも、深い話はできないでしょうね。 マリアンヌはきっと殿方との交流で忙しいでしょうから」それに、彼女は『漆黒の騎士』との密会が控えているのだ。正体不明の謎の騎士のことは、少し不安だったが、自分が干渉をするべきではないだろう。泰然自若としていたマリアンヌを思い返しながら、セシリアは目を閉じ、揺れる馬車の震動に身を委ねた。
しばらくすると、蹄の音が止み、心地よい馬車の揺れが止んだ。もう着いたのかしら、と目を開けると、馬車の扉をコンコンと叩く音がして、ドルーエが顔を出した。「申し訳ないのですが、しばらく動けませんよ。えらく混み合っていますから」「あら」止めようとするトルテを中に残して、セシリアは馬車から飛び降りた。前方を確認すると、貴族たちの馬車の列が王宮の正門へと一直線に伸びている。
「まあ、すごい行列ね」「どうせ、王宮に上がるなら、国王陛下が高見台に上がる時間帯を狙おうというわけだ。 みんな考えることは一緒ですね」「気長に待ちましょう。舞踏会は夕刻からなんだから。 ねえ、ところでドルーエ」セシリアはドルーエの前でくるりと回ってみせた。「どうかしら、このドレス」「お似合いですよ、お嬢様。王女様も霞んでしまうほどだ」「あら、そういうお愛想は要らないわよ。マリアンヌの美しさに適うはずないもの」セシリアは拗ねた振りをして、マリアンヌが居る高見台を見上げた。ここからでは、国王もマリアンヌも豆粒ほどの大きさである。しかし、どんなに遠くとも、悠然と、民に手を振っているはずのマリアンヌは想像がついた。きっと咲き誇る蘭の花ように気品とあでやかさに満ち溢れているだろう。そんなマリアンヌと自分が親友と呼び合える間柄にいるのが不思議なくらいだ。
「美しさの種類が違うんですよ。 わたしの好みで言わせてもらえば、お嬢様はマリアンヌ様以上に魅力的だ」長らく公爵家に仕える御者は、年齢を重ねた者だけができる深い眼差しを年若い主に向けた。「まあ、ドルーエは紳士なのね」セシリアは少し照れくさくなり、胸元の一粒真珠のネックレスをいじくった。「ドレスの色も地味だし、装身具も、この真珠の首飾りだけなのに」「しかし、どえらく大きい真珠じゃないですか。 今にも<黒い狼>に狙われそうだ」「黒い狼? 何のことかしら?」「おや、ご存知ありませんか。いま都では、そいつらの噂で賑わっていますよ」「まあ、全く知らなかったわ。何者なの?」セシリアは興味津々でドルーエに尋ねた。「新手の窃盗団ですよ。いや、実のところ単独犯かもしれないんですがね。 いつも高価で貴重な宝石ばかりに狙いを定めて、謎かけのような犯行予告状を送りつけてくるんです。 その予告状にはいつも真っ黒い狼の紋章が入っているので、<黒い狼>とあだ名されるようになった次第ですよ」「すごいわ、なんだか小説みたい」「その通り。どうにも芝居がかった悪党ですよ。民衆には人気があるみたいですが。 何しろ、いつも、あっぱれといっていいほど、鮮やかな手口で犯行を完遂させるんです。 お嬢様も気をつけて下さいよ」わかったわ、と頷きながら、心の片隅で何か引っかかるものを感じた。
高価で貴重な宝石ばかりを狙う悪党。謎かけのような予告状。思いもよらない鮮やかな手口。そして、真っ黒い狼の紋章―――。
セシリアは、再び高見台の親友を仰ぎ見た。「漆黒の騎士」から恋文をもらい、逢うことを楽しみにしている第四王女。その彼女の頭上で、遠くからでも眩しいほど輝いているのは、リヴァー王家の至宝、またの名を「女帝の金剛石(ダイアモンド)」、つまりは最高級のダイアモンドを散りばめた銀のティアラだった。
セシリアの居室は北の宮の一角に用意された。気心が知れている女官長は、「あまりいい部屋ではないですが」と申し訳なさそうだったが、セシリアは別に構わなかった。たくさんの来賓が王宮に宿泊している最中、突然の申し出を受けてくれただけでも有難いというものだ。部屋付きの女官も、自分の侍女がいるからと断った。その侍女のトルテは、謝罪と感謝を何度も繰り返したあと、部屋から去って行ったのだが。
舞踏会が始まるまで間があるが、手持ち無沙汰なセシリアは会場である中央宮へと向かうことにした。顔なじみの令嬢たちと、衣装の褒め合いをするのも一興だ。どうせ彼女たちは舞踏会が始まったら、目当ての殿方との交流に忙しくて、それどころではないのだ。
「それにしてもだわ―――」歩廊を渡りながら、ついつい独り言が出てしまった。「よりにもよって『黒い』狼だなんて……」
頭の中を占拠しているのは、先ほど聞き及んだ<黒い狼>と、マリアンヌの「漆黒の騎士」との奇妙な符号の一致についてだった。
『―――至上の宝石を抱く貴女を攫いたくて仕方がない』
あの恋文を読んだときは、ただの自己陶酔的な句にしか思えなかったが、今、考えると「至上の宝石が欲しい」と言っているようにも受け取れる。そして、マリアンヌは確かに、最高級の宝石を所有しているのだ。リヴァー王家の代々のファーストレディに引き継がれる輝かしいダイアモンドのティアラは、普段は宮殿の宝物庫に、何重もの警備を敷いて保管されている。マリアンヌがそのティアラを手にすることができるのは、重要な式典や祭儀のときのみ。しかし、裏を返せば、記念祭の期間中は、ずっと彼女の手元にあるわけだ。もしかしたら、由緒正しき「女帝の金剛石」の危機なのかもしれない。
考えれば考えるほど、「漆黒の騎士」が怪しく思え、セシリアの頭は痛くなってきた。同時に、不謹慎だが、密かな興奮も沸き上がる。わくわくするではないか。正体不明の求愛者、「漆黒の騎士」と、都を揺るがす窃盗団、<黒い狼>が実は同一人物かもしれないなんて。こうなったら、ひとりで煮詰まっているよりも、誰かに一緒に考えてもらった方が、絶対に有益だ。下ろしたてのドレスを着ていることも忘れ、セシリアは妙に浮ついた気分で、歩廊を足早に歩き始めた。
残念なことに、やや閑散とした大広間には、顔見知りの令嬢は見当たらなかった。セシリアは諦めきれずに、きょろきょろと周囲を見回していると、第三王子の姿が目に入って来た。政務長官の礼服を着た者と何やら熱心に話し込んでいる。ちょうど良かった、と嬉しくなり、セシリアは彼の背後ににじり寄った。
「まず、陛下がお許しになってからでないと……」「父上では、埒があかないから、お前らにこうして頼んでいるんだ」「とにかくわたしどもの一存では、そのようなことは了承しかねます」
持っていた扇子の端で、彼の肩を軽く叩くと、 第三王子は驚いたように振り向いた。今日の彼は正装姿だ。認めたくないが、いかにも貴公子然とした出立ちがとても様になっている。
「ごきげんよう、エルド殿下」気取ったセシリアは、ドレスのドレープを持ち上げ、深々と膝を折った。しかし、わざわざ淑女らしく挨拶したというのに、エルドはセシリアを認めても「ああ」と面倒くさそうに頷いただけだった。もっとも、はなからエルドに礼節を期待していたわけではないのだが。「ご歓談中のところ申し訳ないんですけれど、ちょっと、よろしいかしら」にっこりと笑いながら有無を言わさぬ口調で尋ねると、あからさまに嫌そうな顔をされた。「いや、今は大事な話をしているから―――」「殿下、それでは、わたしは、これにて失礼させて頂きます。」エルドの後ろにいた政務長官は一礼すると、脱兎の勢いでその場から消え去った。気を利かせたというよりも、まるで逃げたみたいだわ、とセシリアは少し変に思う。
「ああ、ったく、何だよ、リア」エルドが盛大に舌打ちした。王子らしかぬ行動だ。「ちょっと、あなたに相談したいことがあるのよ。それも内密にね」「だったら早く聞かせろよ」今日のエルドは語調が荒い。「こんなところでは、だめよ。誰かが耳を澄ましているかもしれないわ 何しろ、これからお話しすることは、場合によっては、軍部の最高機密に匹敵する内容なのよ」「はぁ? いったいお前は、何の本に影響されたんだ」
エルドは苦虫をつぶしたような顔しているが―――それはどちらかというと、いつものことだったし、セシリアの方は、持論を披露できそうなので小躍りしたいくらいだった。それに、舞踏会が始まるまでの暇つぶしもできるだろう。
さて、どうしよう、とセシリアは唸った。数十分前の浅慮な自分が少々恨めしいくらいだ。セシリアとエルドの二人は、中央宮の最上階のいちばん奥の部屋にまで来ていた。それは、セシリアが、「ここでは、だめよ。もっともっと人気のない場所がいいわ」と主張し続けた結果だった。初めのうちは、本気でそう言っていたのだが、ある事実に思い至り、しまいには時間延ばしのために、こんな僻地までやってきてしまった。
そう、よく考えてみれば、このことは誰にも相談できなかった。というのも、元を辿れば、マリアンヌのもとに来た恋文についてから説明する必要があったからだ。だが、セシリアは、マリアンヌが「漆黒の騎士」から手紙をもらい、舞踏会の夜に密かに逢い引きすることを誰にも言わないと誓った。カリューンの恋愛神の名において。むろん、神の名を借りずとも、親友の秘め事を暴露するつもりなど、さらさらない。
「さあ、リア。話したいことがあるなら、さっさと話せ」それなのに、目の前のエルドは、思いやりの欠片もない態度でセシリアを促してくる。マリアンヌだって、このふてぶてしい弟に自分の恋路を知られたら、たまったものではないだろう。
セシリアは「ええと」と口ごもり、きょろきょろと部屋を見回した。とにかく落ち着いて、何か発言しなくては。しかし、部屋に備え付けてある小さな寝台が目に留まり、顔がほのかに赤らむのを感じた。こんな人気のないところに連れ込んだのでは、まるで自分が密事に誘ったようではないか。何しろ自分には前科があるのだ。ああ、どうかエルドが誤解していませんように。
しかして、そのとき、セシリアは起死回生の妙案を思いついた。もしかしたら、親友思いのセシリアに、カリューンの神が天啓を授けてくれたのかもれない。
「あのね、実は」セシリアは生き生きとした声で、仏頂面のエルドに話し始めた。「わたくしは、ある方から、お手紙をもらったのよ。それが、どなたからなのか、わからなくて――」そして、セシリアは自分がもらった手紙の内容、『漆黒の騎士』の署名、さらには、<黒い狼>との共通項を発見し、疑いの念を抱いたことなどを長々と訴えた。自身をマリアンヌの立場に入れ替えて。ダイアモンドのティアラを、自分の一粒真珠のネックレスと置き換えたところは、かなり苦しかったのだが、この真珠もなかなかに大きな粒であり、それなりに高価なものなのだ。全体としては筋が通っているだろう。
エルドは、途中で話の腰を折ることなく、じっと聞いていたが、セシリアが語り終えると、 明らかに不快そうに眉をひそめた。「ふーん、『漆黒の騎士』か。 全くお前らときたら、どうしてそんなに暗喩を好むのか。俺には、さっぱり理解不能なんだが」「問題は、そんなことではなくてよ、エルド。その騎士が純粋な崇拝者に思える?」「――――まあ、確かに<黒い狼>と共通する部分はあるな」エルドが自分の意見に同意を示してくれたので、セシリアは大いに気をよくした。「でしょう? 万が一のことを考えると、『漆黒の騎士』に逢うのはとてつもなく危険なことなのよ」「お前が、そいつに会わなければいいだけの話だろ。証拠がなくとも警備隊は動いてくれるぞ」エルドはにべもない。セシリアは「それは、そうなのだけれども」と口ごもるしか他なかった。しかし、そんなことマリアンヌにどうやって説明すればいいのだろう。
「でも、もしかしたら<黒い狼>とは何の関係もない可能性もあるのだし……」「どっちにしろ、無視した方がいい。お前は、もうすぐ婚約する身の上だろう」エルドが切り捨てるように言い放つ。そう言われると元も子もない。ああ、やっぱり、私とマリアンヌを入れ替えるのには無理があるのだわ。破れかぶれのセシリアは、とにかく何か言い返そうとした。
「あら、あなたは、私が恋をしたらいけないというの?」
エルドはわずかに目を見開き、セシリアは自分の顔が赤く染まるのを感じた。「恋」という言葉を口にするのが、これほど恥ずかしいことだなんて思いもよらなかった。今まで、エルドの前で深窓の令嬢が口にすべきでない赤裸々な言葉を散々口にしておきながら、幼子でさえ易々と口に出せる言葉が、どうしてこんなにも恥ずかしいのだろうか。しかし、エルドはセシリアのうろたえを別の方向に解釈したようだった。
「お前は、手紙だけで、会ったこともない奴を好きになったのか」「まあ、そ、そんなことなくてよ」なんとか軌道修正を試みようと、頭を猛回転させるが、どうしてか思考と言動は一致してくれなかった。「つまり、……そう、あの手紙は合格だと感じたの。 危険な方でも構わないわ。 彼は、私と二人きりでお話しする資格を得たのよ」
言いながら、セシリアは、エルドの冷ややかな瞳に見つめられていることをひしひしと感じた。彼が何を考えているか想像するのも恐ろしいが、自分が何を考えて、こんな間抜けな台詞を口走っているのかも、さっぱりわからなくなっていた。
エルドが口を開きかける。最後の審判でも受けるかのように緊張しながら待っていると、廊下側の部屋の扉が開き、何者かがこちらに向かってくる足音が響いた。
あら誰かしら、と呑気に考えたセシリアだったが、エルドはやや乱暴に彼女の腕を引っ張り、あっという間に、彼女の身を、造りつけの衣装戸棚の中に押し込んだ。抗議の声を上げようとすると、静かにしていろ、と耳元で囁かれる。エルド自身も衣装戸棚の中にさっと入り込み、後ろ手で戸を閉めた。真っ暗な中で呆気に取られていると、衣装戸棚の外――先ほどセシリアたちがいた部屋から、何やら話し声が聞こえて来た。己を取り戻したセシリアの耳に、最初に飛び込んできたのは、甘美な期待を含んだ淑女の声だった。
「「さあ、大丈夫よ。ここだったら、ゆっくりお話できますわ。……漆黒の騎士様」」
マリアンヌ!!
セシリアは驚愕する。まさか、まさかマリアンヌと「漆黒の騎士」の密事に居合わせるなんて。 「「ふふ、私も、とても楽しみにしていましたのよ」」しかし、これは、チャンスかもしれない。二人の会話を聞いていたら、「漆黒の騎士」の狙いが自ずとわかるはずだ。 「「ええ、運がよかったわ。舞踏会が始まる前に、お会いできて」」もちろん盗み聞きなんて、淑女がすることではないけれど。 「「あら経験豊富のようにお見受けしたけれど」」しかし、親友の安否が心配なのだし、ここは是非とも自分が頑張らなくては。 「「まあ、そんな調子のいいことってあるのかしら」」
セシリアは、必死で愛の語らいに耳を澄ませることにした。しかし、マリアンヌの高い声に比べ、男のぼそぼそとした声は聞き取りづらく、何を言っているかよくわからなかった。せめて、「漆黒の騎士」の顔さえわかればいいのに。 「「そうね、そんなに興味があるなら、考えてあげてもよくってよ」」エルドは戸に背を向けているが、セシリアは彼を挟んで、戸の正面にいた。そこで、セシリアはつま先を伸ばし、エルドの肩越しから顔を突き出した。 「「でもそのかわり、私の言うことも聞いてくれなくては」」
エルドの息遣いが耳をかすめ、バランスをくずしかけた自分の腰を彼の手が支えたとき、セシリアはようやく自分とエルドがこれ以上ないくらい密着していることに気がついた。狭い衣装戸棚の中では、仕方がないのかもしれないが、抱き合っているようなものだ。おまけにセシリアが隙間から外を覗こうとするならば、よりぴたりと彼にくっつかなくてはならない。 「「いいえ、そんなわけじゃあないのよ」」まあ、でも、とセシリアは安易に考えた。触れ合うのも、抱き合うのも、初めてではないわけだし。 「「そうね、まず、あなたの忠誠心がどれほどのものなのか確かめなくては」」セシリアはエルドの肩に両手を回し、自分の両脚を彼の身体に絡ませた。 「「ここを舐めて」」エルドが微かに身じろぎ、小さなうめき声をあげた。 「「脱がないでもいいでしょう? 着けたままでよ」」もう、静かにしてなきゃ駄目じゃない。 「「もちろんこれは命令よ」」心の中でエルドに文句を言いつつ、セシリアは自分より頭一つ分背の高い彼の身体をよじ登る。まるで木登りでもするように。 「「こっち側よ。そう、いいわ」」やがて、エルドと頬を寄せ合うようにして、ようやくセシリアは戸の隙間を覗き込むことができた。 「「じゃあ、舐めてちょうだい」」セシリアは外の異様な光景に目を瞬かせた。
マリアンヌは寝台に座り、エナメルの靴をはいた自身の足を男の前に突き出している。彼女の前に膝をついていた人物は、さらに低く腰を屈めたところだった。そして、二人の会話は止み、代わりに何かを舐めるような音だけが室内に響いた。
いったい、どういうことなのだろう。自分には男女の睦みごとにおける知識が圧倒的に不足しているのは重々承知の上だが、靴磨きは、恋人いうよりは、むしろ使用人にやらせる行為なのではないだろうか。そもそも、靴を舐めても、あまり綺麗にならないような気がするし。ああ、それにしても「漆黒の騎士」の顔がわからない。謎の人物は、後ろ姿の上に紺色のケープで身を覆っていたので、どんな衣装を着ているかすら把握できずにいた。唯一わかるのは、ぬばたまのような黒い髪の持ち主だということだけ。
セシリアがもどかしくなり、さらに身を乗り出そうとしたとき、ようやく自分の下半身がおかしな状態に陥っていることに気がついた。ふくらんだドレスのスカートは、壁との軋轢でペチコートもろともめくれ、 レースの下着が露になっている。おまけに、エルドの右手は、ドレスの中に入り込み、大胆にもセシリアの太腿のあいだに差し込まれていた。もちろん、彼が自分の意思で、そんなところに触れているはずはないわ、とセシリアは公平に判断した。狭い戸棚の中で、自分があまりにも身をよじるので、偶然この位置に手が伸びてしまったのだろう。それにしても、はしたなかったかしら。今更ながら、セシリアはこの体勢が恥ずかしくなってきた。
「「ふふ、面白いわね、あなたは合格よ」」
しかし、もし降りようとしたら、エルドの手は、セシリアのいちばん敏感な部分に触れてしまうだろう。そのことを想像するだけで、セシリアの鼓動は速くなる。
「「では、あなたの希望通りに、私の居室にいらしてちょうだい」」
いけない、いけない。マリアンヌたちの会話を聞いていなかった。仕方なく、セシリアは現状を維持するために、エルドの肩にぎゅっとしがみつく。抱き合うのも触れ合うのも初めてではない。それでも、自分の胸を彼の胸に押し当てて、こんなにもひしと身を寄せたのは初めてではないだろうか。自分の心臓の鼓動は、次第にエルドの心臓の鼓動と混ざり合っていく。暗闇につくづく感謝した。今のセシリアにとっては、彼の表情がわからないのが、せめてもの救いだ。
「「ええ、もう行かなくては。それでは、また後で」」
ようやく外の会話に集中しようとしたのに、マリアンヌは寝台から下り、あっという間にセシリアの視界から消えてしまった。 扉が閉まる音がする。セシリアは身じろぎもせずに、残された「漆黒の騎士」の後ろ姿を見つめていたが、約一分後、彼も寝台の側から離れていった。視界から消える寸前、群青色の袖と真鍮のカフスが微かに見えた。
それから、数十秒後。ふたりはもつれ合うようにして、衣装戸棚から脱出した。「きゃあ!」セシリアは大きく叫んで床に尻餅をついた。エルドが無理やり彼女を引き剥がしたのだ。
「ひどいわ、何するのよ!」「何がひどいだ!お前のほうが、よっぽど……」そこまで言いかけて、後は言葉にならなかったらしく、エルドは弱々しく彼女の隣にしゃがみこんだ。「エルド……?」そんなに重かったのかしら、と心配になり、エルドの顔を覗き込む。 それがよくなかったのかもしれない。一瞬にして、セシリアの唇は塞がれていた。
セシリアは思わず目をつぶり、こぶしを握った。彼のキスは、いつもより激しかった。―――といっても、今日でまだ三回目なのだが。まるで食べられてしまいそうなほど、下唇を舐めては、入念に吸い上げてくる。おまけに彼の左手は、いつの間にか、自分の胸に触れている。これはどう公平に判断しても偶然ではない。なんだか、くらくらと眩暈がして、下腹部がぎゅうと締め付けられた。どうして自分は抵抗しないのだろう。それどころか、どうしてこんなに大人しくエルドの来襲を受け入れているのだろう。
しかし、実際のところ、それはとても気持ちのいい感覚だったのだ。身体は、あの日を覚えていた。エルドがあますことなく自分を撫で回した、あの日の感触を。ひんやりとした手がセシリアの頬から首筋をなぞっている。そうだ、と気づいた。自分はこの冷たい手が欲しくて、欲しくてたまらなかったのだ。
しかし、突然、嵐のようなキスも小波のような愛撫も止んだ。不思議に思い、目を開けて彼の様子を伺うと、淡青色の瞳は深い思案の色を浮かばせていた。
「―――あの声は、マリアンヌだったよな」ようやくエルドが呟くと、セシリアはハッと我に返った。そうだ、自分のことより、マリアンヌのことを考えなくては。それに、もうすぐ舞踏会も始まってしまう。
エルドは、衣服の乱れを直して立ち上がると、まるで先ほどの戯れが幻だったかのように、鋭い追求の眼差しを彼女に向けた。「――どういうことだ、リア。どうしてマリアンヌが『漆黒の騎士』と密会しているんだ」
「それは、それは……ああエルド、言えないわ。 だって、私はカリューンの神の名にかけて秘密にすると、マリアンヌと誓いを立てたんですもの」「つまり『漆黒の騎士』は――」おろおろとするセシリアに代わり、エルドは事の真相を素早く言い当てた。「お前ではなく、マリアンヌに手紙を送ったというわけだな。 そして、お前は、<黒い狼>の噂を聞きつけ、マリアンヌのために無駄な心配をしている、と」「…そうよ。そして『女帝の金剛石』の心配もしているのよ」セシリアは力なく頷き、心の中で、神の名前を何度も唱えた。もはや、カリューンの恋愛神の許しを請うしかない。
エルドは額に手をやり、ため息をついた。心の奥底から湧きだしたような深い深いため息だった。セシリアが身なりを直しているあいだに、彼は早足に部屋を横切り、廊下へと消えてしまった。彼女は慌てて後を追いかける。
「ねえ、エルド! マリアンヌの相手に心当たりはない? 結局、先ほどは顔が見えなかったのよ。 何だか、声を意識的に変えていたような気がするし―――ねえエルドってば!」
セシリアがいくら喋りかけても、エルドは取り付く島もなかった。大広間が近づいてくると、警備の衛兵が気になり、迂闊に声を出すこともはばかられる。
いちばん端の扉から、エルドに続くように大広間に入ると、ユーリ二世が開会の辞を述べているところだった。その隣で微笑んでいるのは、先ほどまで「漆黒の騎士」と密会していた第四王女マリアンヌだ。幸運なことに、招待客たちの視線は、玉座に集まっていたので遅刻者のセシリアたちが注目を浴びることはなかった。
「ねえ、エルド」なおもセシリアは小声で話そうとしたが、エルドはセシリアから離れようとしていた。「リア、俺はこの後、父上と話す約束があるんだ。お前に付き合っている暇はない」「まあ、じゃあ、『漆黒の騎士』のことはどうするつもりなの」「俺には関係ない」いつもと同じ冷徹な声だ。それなのに、いつもと違う気がしてセシリアは彼の瞳を覗き込んだ。「あなた、もしかして……」怒っているの、と続けようとした言葉は、周囲の歓声に呑みこまれた。ちょうど国王のスピーチが終わり、招待客が一斉に祝杯を挙げたところだった。鼓膜が割れそうな熱狂の中、エルドは沸き返る人々の群れに消えていこうとした。不意を衝かれたセシリアの耳に、彼の最後の台詞がかろうじて届いた。
「もう、リアに振り回されるのはご免だよ」
セシリアは、呆然とエルドの後ろ姿を見送った。別に、珍しいことではないわ、喧嘩なんて昔からしょっちゅうじゃない。何度も自分に言い聞かせてみる。しかし、何故だか泣きたい気持ちになった。
自分の気持ちとは裏腹に、周囲は歓喜の渦だ。その雰囲気に染まることができない自分が悔しくて、セシリアは俯いて唇をかみ締めた。気がつけば、王宮付きの楽団がワルツを奏でている。
「お嬢さん、どうか、一曲お相手願えますか」セシリアの視界に、白い手袋と磨きこまれた黒革のブーツが飛び込んできた。顔を上げると、そこには伊達男の笑顔があった。「まあ、ベイリアル様」「どうかランスとお呼び下さい、麗しい姫君。そして、身に余る光栄をわたしに与え下さいませんか」仰々しく膝をつくランスロット=ベイリアルに、セシリアは思わずくすりと笑う。しかし、あいにくだが、どの殿方とも踊ってはいけないという父親の厳命がある。丁重に断ろうとしたセシリアだったが、群青色のフロックコートからのぞくシャツの袖に目に留め、息を呑んだ。袖に付いている真鍮のカフスは、先ほどの『漆黒の騎士』のそれとよく似ていたのだ。
彼の美しい黒髪をまじまじと確認したあと、セシリアは、頭の中で、父親の厳めしい顔をくしゃくしゃにして放り捨てた。「喜んでお受けいたしますわ」セシリアが、彼の前に手を差し出すと、ランスロットはキスを送り、恭しく彼女をダンスの輪の中に導いた。
「私はセシリア=フィールドです。どうかセシリアとお呼びになって」「とすると、フィールド公爵のご令嬢ですか」「まあ、ひどい。私のことを知らずに声をかけたというのね」言外に、私はあなたのことを知っていたのに、という意味を含ませる。しかし、彼のことを知らない女性はいないだろう。何といっても、目の前にいるのは、リヴァー王国軍少佐、王宮警備隊副隊長、ランスロット=ベイリアルなのだ。弱冠二十六歳にして、輝かしい肩書きを持つこの美男子は、同時に名うての女たらしと評判だった。いかにも、マリアンヌが好みそうな騎士である。
「ねえ、マリアンヌ姫をご覧になってみて。今日の彼女は一段と美しくなくって? 特にあのダイアモンド!」さりげなくカマをかけてみると、好男子は鷹揚に賛成した。「ええ、本当に、華やかな方ですね。あのティアラも素晴らしいし」そこで彼は魅惑的な視線を投げかけ、如才なく付け加えた。「けれど、清楚な真珠にも心惹かれるものがある」さすがに女たらしというだけあるわ、とセシリアは舌を巻いた。さらなる質問を考えていると、ランスロットの方から口を開いてきた。「ところで、セシリア様はエルド殿下と仲がよろしいんですか?」
それは、ただ単に会話を弾ませるための糸口だったのかもしれない。しかし、セシリアは大いに動揺して、ランスロットの端正な顔を凝視した。「先ほどは何やら、秘密裏に会話なさっているなと気になりまして」見られていたなんて。これは何かの罠か。それとも他意はないのか。セシリアは逡巡したが、正直に答えることにした。「いいえ、実際のところ、仲がよいとはいえませんわね。先ほども、喧嘩していましたのよ」氷のようなエルドの声を思い出すと心は沈む。本当はわかっていた。あれは喧嘩でない。一方的な拒絶だ。もとから友好的な関係とは言い難かったが、彼があそこまで拒絶の色を示したのは初めてではないだろうか。悲しみより憤りより先に湧き出るのは、純粋な疑問だった。
「――――どうして、あんなに怒ったのかしら」「え? 殿下はお怒りだったのですか。そんな風には見えませんでしたが」「そうね、いつも通り冷静沈着でしたわね。でも……」セシリアはうまく言い表すことができなくて押し黙る。彼女の戸惑いを見抜いたランスは優しく微笑んだ。「それにしても、あの方に、こんなに可愛らしい喧嘩相手がいらっしゃるとは思いもしませんでしたよ。 何しろ、あまり感情を表に出すことのない『氷晶の君』ですからね」「……氷晶」そうだったかしら、とセシリアは考え込む。氷晶とは、寒い真冬に現れる綺麗な結晶のことだ。確かに、エルドのイメージと重なる部分もあるが、自分の前の彼はそこそこ感情的だと思う。「殿下の置かれている環境を考えたら、喧嘩友達がいらっしゃるのは結構なことだと思いますよ」「エルドの置かれている環境?」「おやおや、ご存知ないのですか」ランスロットは、おどけてみせる。「ええと」セシリアは考えてみるが、彼の言わんとしていることはよくわからなかった。「――それは、陛下に溺愛されていて、周囲の家臣にも甘やかされているってことかしら」「おや、そんな風に見えますか。」ランスロットは虚を衝かれたようにセシリアの顔を見た。ちょうどそのとき、軽やかなワルツは終わった。広間を縦横無尽に舞っていた華々たちは、新たなパートナーを探そうと動き始める。ステップを踏むのを止めたセシリアとランスロットは顔を見合わせた。
「セシリア様、続きはあちらでお話しませんか?」ランスロットはバルコニーの方角を示した。それとなくマリアンヌの方を確認すると、彼女はたくさんの殿方に囲まれ、ダンスの申し込みを裁くのに忙しそうである。「ええ、喜んで」話し足りないセシリアは導かれるまま、大広間を後にした。
冷たい夜風に吹かれると、それまで落ち込み気味だった気分も、少しずつ持ち直して来た。ランスロット=ベイリアルの働きも大きい。理知的で気遣いのできる美男子は、話し相手としては最高だった。
「フィールド公爵は、もともと王族の方でしたよね。先々代のフィッリプ陛下のご子息で、ユーリ陛下の弟君だったはずだ」「まあ、お若いのに、王室のことをよくご存知なのね」「とすると、エルド殿下やマリアンヌ王女と、あなたはいとこ同士にあたるわけだ。世が世なら、あなたは王女だったかもしれない」セシリアはにっこりと笑った。聞き飽きたお世辞だった。幼い頃から、宮中に入り浸り、ユーリ陛下に娘のように可愛がられ、マリアンヌと姉妹のように育ってきて。自分が王女だと錯覚しそうになったことは何度もある。しかし、成長するにつれてセシリアは思い知らされた。自分とマリアンヌの違いに。「その可能性はなかったでしょうね。父は爵位を得ることで、自ら王位継承権を放棄しましたから」「なるほど。王位継承の問題は、いつの治世でもお家騒動を引き起こしますからね」賢明なランスロットは、そう言うだけに留め、それ以上深入りはしなかった。
「それでは、エルド殿下とは、幼少のみぎりからのお付き合いなのですか」「そうね、三、四歳からだから、幼馴染になりますかしら。昔から、喧嘩ばかりよ」本当に、取っ組み合いの喧嘩だって珍しくなかった。成長するにつれて、それは丁々発止の口喧嘩へと変わっていったわけだが。「そんなときは、どうやって仲直りしていたんですか?」「まあ、仲直りなんて、そんなこと。したら、負けだと思っていましたわ」双方とも、折れることも謝ることも一度もなかった。どんなに険悪になってそっぽを向き合っても、その翌々日くらいにはころっと忘れて、また違うことで喧嘩する。――――その繰り返しで、現在に至るわけだ。「しかし、セシリア様から折れてみたら、案外異なった風景が見えてくるやもわかりませんよ。古くから、負けるが勝ちとはよくいったものだ」「あら、その手には乗りませんわよ」私が悪いわけではないのだから、と主張するセシリアに、やはり聡明なランスロットは「そうですか」とだけ言い、それ以上深入りすることはなかった。
「―――ねえ、ランス様にはエルドがどんな風に見えるんですの」「そうですね。少なくとも、わたしには、エルド殿下が周囲に甘やかされているようには見えません」「なるほど、あなたもエルドの味方というわけね」「いえ、そういう意味では。―――つまり、みんなあの方を守ろうとしているだけなのですよ。彼の場合は、生い立ちが複雑ですからね。何しろ殿下のお祖父様は――――」「民の英雄、イースキン=ラルフですものね」セシリアは彼の言葉を引き取ったが、その意味について深く考えたことはなかった。「そう。リヴァーきっての大商人。今日のリヴァーの繁栄が彼にあると言っても過言ではない。 国民はみなイースキン=ラルフの恩恵を受けています。 それゆえ、大衆はラルフの孫息子である『氷晶の君』をもてはやす」「王も家臣も国民も、みんな、みんなエルドを可愛がっているというわけなのね」うんざりしたようにセシリアは口を挟む。「しかし、なかには口さがないことを言う連中もいますよ」そこで、ランスロットは声をぐっと潜めた。「しょせんは平民出身、庶子の王子に過ぎない、とかね」
「まあ、そんなこと」セシリアは驚いて目を瞬かせた。二つの王家の血を引く公爵令嬢は、陰口や蔑みというような人間関係の負の部分とは、あまりにも無縁な場所にいた。「そんな悪口を誰がおっしゃるというの?」「主に、王侯貴族の連中ですよ。といっても彼らは、イースキン=ラルフが怖いだけなんです。何しろラルフの影響力は計り知れないものがある。彼の鶴の一声で、どれだけの金と民衆が動くか。だから飾りだけの役にも立たない高貴な血筋を引き合いに出して、溜飲を下げようとする」セシリアは何も言うことができずに黙りこんだ。王家の血筋を誇りに思っていた自分に何が言えようか。
『―――俺からみたら、王家の伝統なんかどうでもいいことだよ』『ほら、あなたって、そうやってすぐに人を見下した目をするわ。 だからとても冷たい人間に見えるのよ』
たぶん、とセシリアは冷めた気持ちで思った。エルドからしてみれば、自分は、本当に無神経な愚か者に映っていただろう。
「イースキン=ラルフ自身は、とっくに爵位を与えられてもいいくらいの功績を持っているんですよ。 なのに、彼はあえて平民でいる。民の英雄であり続けるためにね。 その一方で、ちゃっかりと自分の後胤を王室構成員にまでに仕立て上げた。 民衆にとって、エルド殿下の存在は、イースキン=ラルフのこれ以上ない成功の証であり、隆盛の象徴でもある」「もういいわ」セシリアは首を振った。これ以上、聞きたくない。「平民出身とか成功の証とか、本当に馬鹿みたい。 みんな色眼鏡でエルドを見て、勝手に高いところに祀り上げたり、貶めたりしているだけでしょう」「あるいは、そうなのかもしれませんね。 しかし、だからこそわたしはエルド殿下に、喧嘩ができる相手がいらっしゃることを嬉しく思ったんですよ。 あの方の背景や地位を気にしないで、あの方自身を見てくれるご友人がいらっしゃることをね」
違う。 自分は偏見に満ちた尺度で彼を計っていたに過ぎない。エルドのことをしっかり見ようとしなかったのは、セシリアだって同じなのだ。自分はエルドの喧嘩「友達」などではなかった。
しかして、にっこりと笑うランスロットに、無言の圧力を感じ取り、セシリアは居たたまれなくなった。「……あなたは、結局のところ、仲直りしろとおっしゃりたいだけなんでしょう」降参のため息を漏らすと、ランスロットは暖かく思いやりのこもった視線を投げかける。そんな瞳で見つめられたら、どんな女性だって彼の言いなりになってしまうだろう。しかし、セシリアにはよくわかっていた。ランスロットの思いやりの眼差しは、自分ではなくて、ここには居ないエルドに注がれていることに。やはり、エルドはずるいのだ。ランスロット=ベイリアルに、こんなにも思われているのだから。
「いいわ。それなら、挑戦してみましょう。でもうまくいくかどうかはわからなくてよ」「進言させて頂くなら、セシリア様、仲直りするなら、今晩中が得策かと」「あら、どうして?」「昔からいうでしょう。早ければ早いに越したことはない、と。 それに、夜の闇は、いがみ合っていた二人を素直にしてくれますよ」「まあ、それは心理学の一種か何か?」「ただの一般論です。夜はめくるめく魔法の時間ですよ。 日中どんなに激しい喧嘩をしても、月の魔力は厳かに二人の心を包み込むのです。 ―――ことに男女の場合はね」「そうでしたの? 存じ上げませんでしたわ」セシリアは博識なランスロットに感心しつつ、頑固者の自分の父親のことを思い返していた。「それでいうならば―――殿方は、夜におねだりされると弱いものなのかしら」「それはもう。特にあなたのように愛らしい方に、切なげに迫られたら一溜まりもありませんね」なるほど、とセシリアは感慨深げに頷いた。今度、お父様に試してみよう。もしかしたら、あの婚約話を打破できるかもしれない。
一筋の光明が差し込み、セシリアの心は一気に軽くなっていた。ランスロット=ベイリアルは、なんと素晴らしいのだろう。この教養あふれる紳士が、「漆黒の騎士」であっても、<黒い狼>であるはずがないわ。
「まあ、ランス様、あなたとマリアンヌだったらお似合いだわ」「は?」「わたくし、マリアンヌから『漆黒の騎士』様のことを聞いていましたのよ。それにね、ごめんなさい―――実は、あなたがあの部屋で、マリアンヌの靴磨きをしていたところを見てしまったの」「靴磨き? わたしがマリアンヌ王女の靴を?」「ええ、でも覗くつもりはなかったんですのよ。ただ、どんな人物かわからなかったから、心配で―――」「セシリア様」「でも、あなただったなら―――」「何か思い違いをなされているようですよ」「え?」「わたしはそのお捜しの人物ではありません」「まあ、でも、そのカフスは……」「これですか? これは知り合いの店で仕立てたものですが。これと同じボタンをしている男をあと三十人以上は、知っていますよ」「なんですって!」
セシリアは慌てて、にぎやかな大広間の中に舞い戻った。しかし、いくらマリアンヌ王女の姿を捜しても、影も形も見当たらなかった。
***
「実にもったいない」 漆黒の騎士は嘆息した。「畏れ多くも、マリアンヌ王女から紅茶を賜るなんて」「そんなことおっしゃらずに、どうぞ召し上がって。あなたが召し上がらないと、私も頂けないわ。 私が紅茶を与えたということは、あなたにそれだけの資格があるという証よ」肘掛け椅子に奥深く座り、マリアンヌ姫は、気高い笑みを浮かべた。
「それでは、頂きます。それにしても、今日はお疲れだったことでしょう」「ええ、そうね。でも、仕方がないわ。公務ですもの」漆黒の騎士は王女の前にすかさず跪いた。「痛み入ります。お御足をお揉みしましょうか」「結構よ」王女はぴしゃりと言い放つ。「さっきは悪いことしたわね。あんな風に振舞えば、あなたがどんな反応をするか見てみたかったのよ」「わたしの対応はお気に召しましたか?」「ええ、だから私の居室に入る権利を与えたのよ」「『社交界の女王』の応接室に足を踏み入れることができたなんて至極恐悦の至りです。 あなたに愛を語る権利をも許されたと思ってよろしいでしょうか?」
「さあ、どうかしら」王女は紅茶をすすりながら、首をかしげる。「私は常々、男女の愛に対して懐疑的なのよ」「ああ、あなたはわたしの恋心を疑っているのですね」大げさに首を振り、嘆いてみせると、王女はくすくすと笑った。「つまり、慎重にならないといけないという意味よ。 恋なんてものは、大いなる錯覚と誤解から生まれ出ずるんだわ。 それなのに、一度それに絡め取られてしまうと、抜け出すのに苦労するものだから」「では、愛は? 誰かを心の底から愛することにも慎重を要さなくてはならないのですか」「そうね、どうなのかしら」マリアンヌ王女は、また紅茶をすすり、欠伸をこらえる仕草をする。「本当のところ、恋や愛の違いなんて、よくわかりませんわ。 私、俗世を離れて、神殿の尼僧になろうかと考えることもしばしばですのよ そうすれば、恋や結婚についてしっかり考えなくてもすむでしょう」「それはそれは」漆黒の騎士は冷静な声で、しかし内心は驚いて、第四王女の顔を見つめた。「ご冗談でしょう。そんなことをしたら、多くの国民が嘆きますよ」マリアンヌ王女は、どこか遠い目で「そうね」と呟く。「だから、誤解でも錯覚でもいいから、 恋という魅惑の魔法をかけてくれる騎士が、 私の元に訪れてくれないかといつも夢見ているのよ」王女は挑発的な視線を向け、彼の目の前に手を差し出す。「あなたにそれだけの資格があるかしら」しかし、漆黒の騎士はその手にキスしたあと、彼女から一二歩離れた。「やめときましょう。わたしはあなたの想う方の代わりになれそうもない」
「まあ、どうして」マリアンヌ王女はカップを卓に置き、姿勢を正して、まじまじと漆黒の騎士を見下ろした。「どうして、私の気持ちがわかったの?」「勘でしょうか。あなたは、あなたの心を絡め取った誰かを本当は忘れたくないのでしょう?」「そんなことないわ」マリアンヌは、震える声で反駁する。しかし、その目は虚ろであった。「忘れる必要があるのよ。早く忘れたいの。だって、私の想いは――――」そこで彼女は立ち上がろうとして、ふらふらとよろけた。漆黒の騎士が彼女を支える。
「一生叶うことがないんですもの」
そう呟くと、マリアンヌ王女は、漆黒の騎士の腕の中で動かなくなった。
実にもったいないことだ、と漆黒の騎士は考える。彼女はとても魅力的なのに。栄華を極めたかに見える「社交界の女王」にも、手の届かないものはあるのだ。
漆黒の騎士は、マリアンヌ王女を抱きかかえながら、二つのティーカップの中味を、手際よく花瓶の中に流し込んだ。そのあとで、隣の寝室に向かい寝台の上にマリアンヌ王女を寝かせる。彼女が目覚めるのは、おそらく明日の朝になるだろう。
それから、彼は、化粧台の上に置かれていた宝石箱に手をかけ、中を探り始めた。果たして、さまざま装身具の下に、黒檀の鞘が忘れ去られたように置かれていた。やはり睨んでいたとおりだった、と漆黒の騎士は満足する。
「探し物は見つかったのか」冷ややかな声が室内に響いた。漆黒の騎士が振り返ると、栗色の髪の少年が腕を組み、扉に寄りかかっていた。「エルド様でしたか」漆黒の騎士にやりと笑うと、恭しく一礼した。しかし、第三王子は憮然とした表情を崩さない。「まさか『漆黒の騎士』の正体がお前だったとはな」
「ほう、どこで情報が漏れたのでしょうか。 まさかマリアンヌ様があなたにお話したのですか?」第三王子は「いいや」と首を振る。「舞踏会が始まる前の中央宮で、お前たちの会話を聞いたのさ。 すぐにマリアンヌとお前の声だとわかったぞ」「おやおや、立ち聞きされていたとは、エルド様もお人が悪い」「そんなことはどうでもいい。どうして、マリアンヌを狙ったんだ」「大丈夫。彼女は眠っているだけです。 明日の朝には、目覚めて、おそらく今晩に関する記憶も無くなっているでしょう」「そういう問題ではないだろう。 これは、祖父さんの差し金なのか? それともルーカス叔父さんか?」「さて、わたしの独断ということにしときましょうか」からかうような彼の言葉に、第三王子は「ふざけるな」と叫ぶ。「どうせ、<黒い狼>だって、あの祖父さんが黒幕なんだろう?」
おや、まさか<黒い狼>のことまで持ち出されるとは。漆黒の騎士は、エルドの情報収集能力に舌を巻いた。「さすがエルド様。察しが鋭い」「……少し調べれば、簡単にわかることだ。 『一匹狼のラルフ』、それが若い頃の祖父さんの二つ名だったんだろう?いったい全体お前たちは、何を企んでいるんだ」
射抜くようなエルドの眼光を、漆黒の騎士は、さらりとかわした。「今は、答えないでおきましょう」いずれ、わかることですから、と心の中で呟きながら、彼は大きな出窓に手をかけた。「それでは、わたしは失礼します」エルドに挨拶を済ませると、漆黒の騎士は、まるで夜空を舞う鳥のように、出窓から飛び立ったのだった。
地面に着地すると、植え込みの影から心配そうな声が聞こえて来た。「アークなの?」途端に、大胆不敵な漆黒の騎士は、ごく普通の二十歳の青年に早替わりした。「俺だよ、トルテ」そう言って、隠れていた幼馴染の少女のところまで行くと、懐の黒い鞘を見せる。小さく縮こまっていた彼女は安心したように口角を上げた。
本当は彼女を巻き込まずに単独で済ませるつもりだった。しかし、彼女の方から持ちかけてきたのだ。「わたしも何かの力になりたい」と。女がいると夜の城内を歩き回るときに、何かと重宝するのも事実だ。途中で巡回してくる衛兵に出くわしても、彼女を抱き寄せ、情熱的な接吻でも交わせば、祭の興に乗って、羽目をはずしている恋人たちにしか映らない。だから、「しょうがないな」と文句を言いつつ、彼女をこんな危険なところまで連れてきてしまったのだ。実際のところは、彼女に触れる機会を逃したくなかっただけなのかもしれない。
王城を抜け出そうとする途中で、アークたちは何度も抱き合い恋人同士の振りをした。何回目かの接吻で、アークは、幼馴染の彼女がたまらなく愛しくなり、大胆にも舌を割り込ませた。けれど、衛兵が立ち去ると、彼女はアークの身体を冷淡に突き放す。「調子に乗らないで」アークはめげずに、トルテの腕を取り上げ、幼馴染のご機嫌を取ろうとする。「これから夜祭に行こうぜ」「誰が、あんたなんかと行くもんですか」「でも、お前はセシリア様に言ったんだろう。俺と夜祭に行くって。嘘はよくない」公爵令嬢のことを口に出せば、トルテが反応するのはわかっていた。そもそも、セシリア嬢を通してマリアンヌ王女に近づけば、もっと簡単にあれを手にすることだってできたのだ。それなのに、トルテは自分の主人を利用することを断固として拒否した。そのくせ、アークのこともひどく心配して、片棒を担ぐことまでしたのだ。
「そうね……」トルテは少しの躊躇いを見せたあと、アークの腕に寄り添った。「行くことにするわ。せっかくセシリア様が気遣って、わたしにお与え下さった時間なんですもの」そう、時間はたっぷりある。夜はまだこれからなのだ。アークはトルテの胸の感触を楽しみながら、今宵、騎士から狼に変身できる好機が訪れることを密かに祈った。
セシリアは慌しく秋の宮へと駆け込み、マリアンヌの居室へと急いだ。動きにくい夜会服を着ているとは思えないほどの速度で突っ走る公爵令嬢を各所に位置していた警備兵たちは、驚愕の目で眺めていたが、そんなことは、このさいどうでもいいことだ。
控えの間には、マリアンヌの侍女たちの姿は見当たらず、奥の応接室もひっそりと静まり返っていた。しかし、卓上では、蝋燭の炎が揺らめき、二つの空のティーカップが並んで置かれていた。ということは、マリアンヌたちは寝室にいるのかしら。セシリアは寝室の扉に手をかけようとして躊躇する。もし、「漆黒の騎士」がマリアンヌの靴磨きをしていている場面に出くわしたら、どうしましょう。何より、自分は無粋な出歯亀をしているだけなのかもしれない。
いいや、ここまで来たならば、乗りかかった船、毒を食らわば皿まで、騎虎の勢い下りるを得ず、すべては親友を思うが故だ。勝手な大義名分を言い聞かせ、セシリアはおそるおそる寝室の扉を押した。
覗いてみると、室内は真っ暗で人の気配は、全くしなかった。誰もいないのだろうか。微かに開かれた出窓から降り注がれた月の光は、天蓋付きの大きな寝台まで伸びている。その寝台の上では、銀色の光が蝶のようにきらきらと舞っていた。その輝きに心を奪われているうちに、徐々に目は暗闇に慣れてきた。
「マリアンヌ!」ふと気づけば、寝台の上には、ダイアモンドのティアラをかぶった「社交界の女王」が横たわっていた。セシリアは驚いて、すぐさま彼女に駆け寄る。「どうしたの? マリアンヌってば」ショールを纏った肩をそっと揺さぶり、何度も声をかけてみるが、その瞳が開かれることはなかった。
「眠っているだけだ」
突然、背後から発せられた声に、セシリアは「きゃっ」と小さく悲鳴を上げた。涙目で振り返ると、扉の後ろに、見慣れた人影が佇んでいた。「エルド?」セシリアの潤んだ瞳は一気に乾く。「あ、あなた、どうして、ここにいるの? ま、まさかあなたが『漆黒の騎士』だったの?」セシリアの気はすっかり動転していた。エルドは呆れたような冷たい瞳でそっけなく「馬鹿」と言い放つ。
「父上との話し合いが、割合すぐに終わったから、ちょっと寄ってみただけだ。どうやら、『漆黒の騎士』と入れ違いだったらしいな」そう言って、マリアンヌの化粧台を指し示すと、エルドは首を振り振り、隣の部屋へと消えて行った。
「……自分には関係ないと言っていたくせに」釈然としないまま、象牙の化粧台に近づくと、そこには、四角に切った小さい厚紙が置かれていた。セシリアは、その厚紙を手に取り、月明かりの下で目を凝らした。
『漆黒の騎士、今宵参上』
そう書かれた文字の右下に、黒馬を従えた黒い甲冑の騎士が小さく描かれていた。セシリアは、すやすや眠っているマリアンヌと白いカードを交互に見つめ、首をかしげた。「――――――どういうことなのかしら?」
「漆黒の騎士」の意図がよくつかめない。しかし、ティアラが無事だったということは、泥棒ではなかったのだろう。念のため、マリアンヌが目覚めたならば、何か無くなっている物がないか尋ねなければ。
「でも、まあ、『女帝の金剛石』が無事だったなら、最悪の事態は免れたといっていいわよね」セシリアは胸をなで下ろした。
依然として謎は多かったのだが、とりあえず一応の終結を見たと判断したセシリアは、エルドの後を追いかけることにした。何しろ、こちらの問題は、未だ暗礁に乗り上げて、陸地が見えない状態なのだ。
「エルド、待ってちょうだい!」応接室を去ろうとしていた彼は立ち止まり、こちらを向いた。それは惰性のような緩慢な動作だったが、無視されなかったことに安堵しつつセシリアは一気に畳み掛けた。「私、あなたに、どうしても伝えたいことがあるのよ」
きっぱりと宣言したあとで、迷いと焦燥が生まれてくる。何から話せばいいのだろう。 どうやって伝えればいいのだろう。エルドの表情は、「氷晶の君」さながら、何の感情も読み取れず、セシリアは少しひるんだ。しかし、ランスロット=ベイリアルがいうように、夜の魔法を信じてみよう。月の不思議な魔力が、今宵ふたりの心をつなぎとめてくれることを切に祈ろう。まだ夜は、始まったばかりなのだから。
戦いに挑む騎士のように、勇気を鼓舞したセシリアは、ふと自分が例の厚紙をまだ持っていることに気づいた。「あら」マリアンヌの元に返しておかなくては、と思いつつ、蝋燭の灯りの下で何ともなしに厚紙をかざすと、飾り文字の下にある、騎士の絵ははっきりとした輪郭を帯びた。セシリアは、それをしげしげと見直してから「うそ!」と小さく叫んだ。エルドが訝しげにこちらを見ているが、それどころではない。
黒い甲冑を着た騎士の傍らにいたのは、黒馬ではなく、痩身な黒い狼で、しかも、騎士は、まるで主を信奉するかのように、その黒い狼に敬礼していたのだった。
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