「ユゥ…今宵の…夜伽を……命じる。」「はい、姫様、仰せのままに。」四方に薄い紗を垂らした褥の中に、メイリンの鈴を鳴らすような声が響く。僕はその前に引き入れられていた。いつも通りの言葉なのに、この言葉を言うときのメイリンは、いつだってうっすらと頬を染めて恥ずかしそうにする。僕がこの邸に来てから、三月(みつき)が経とうとしており、季節は厳しい冬へと向かっていた。森で暮らすには、これからが最も厳しい季節だ。僕の故郷の人たちは、この冬をどう乗り越えるのか気がかりで仕方なかったが、そのことは誰にも訊けずにいた。訊こうとすると、頭の中にあの戦のときの光景が広がって、喉が詰まってしまう。彼らは、猛々しいシン国の兵士たちと比べたら頭一つ分も小さく弱々しい僕等の兵の首を薙ぎ払うのに、一瞬の躊躇もなかった。もし、残った者たちが反抗したら──それが、女子供ばかりでも──迷うことなく、粛清されてしまうのではないのか?お願いだから、生き残っていて。ぼくは心の中でいつもそう祈っていた。父さんや兄さん達は、あの凄惨な殺戮の中で、どうなったのかは分からない。かなり、希みは薄いと思う。せめて、戦に出ていなかった母さんや妹のユイは、無事でいて欲しい。どうか、無事で。「ユゥ、なんだか上の空。心配事があるなら、話してみて。」メイリンに話してみようかと思うこともあった。だけど──もし、無事じゃなかったら?いつか家族と共に、あの故郷へ還ることがぼくの心の支えなのに、その望みが断たれてしまったら、僕はどうやって生きていけばいいのかすら分からない。第一、数千の民の中に埋もれているはずのたった二人を、どうやって見つけてもらえばいいのかも、見当がつかなかった。そう思うと、話してみようと思う度に、何故か踏みとどまってしまう。「別に何でもありませんよ、姫様。」僕はもやもやとした心の曇りを隅に押しやって、笑顔を作ってみせる。我ながら薄っぺらい笑顔だ。「もぉっ。ユゥはいつまで経っても、よそよそしい……。それに、二人だけのときは、敬語はやめてと言っている。」メイリンはぷっと頬を膨らませて、拗ねた顔になった。僕を取り巻く特殊な状況には随分慣れてきたが、この可愛さにはなかなか慣れない。この可愛らしい顔が、僕のことで表情を変えるのが、いつだって嬉しくて仕方ない。「馴れ馴れしい口を利いたら、ユイウ様に殺されます。」メイリンの兄、ユイウ様は特に僕の態度に厳しかった。従僕のうち一人だけが主人格の人間に馴れ馴れしい口を利いては、使用人全体の規律の緩みに繋がると一歩も譲らなかった。それはそれで尤もな意見であると思うし、メイリンも反論はしなかった。それに、僕自身も、メイリンに深入りしすぎるのは良くないと思うのだ。桂花の民の『クニ』はシン国に滅ぼされたけれど、僕はどうやっても、桂花の民だと思っているし。こうしてこの邸に馴染んで、表面上は従っていても、いつかあの山に還るべきだと思う。僕の体中の血が、あの故郷の山を、懐かしい空気を、森に棲まう、僕たちを守る神々の気配を求めているのだ。ただ、奴隷の身から脱して故郷への道を歩むには、知識だって必要だし、体を鍛えておくことも武術を身につけておく言だって間違いなく役に立つ。それだけだ。別に毎日熱心に書物を暗記したり、体を鍛えたりしてるのはそのためであって、決してメイリンの嬉しそうな顔が見たいからではない──と、思う。まあ、メイリンが嬉しそうな顔をするのも、悪いことじゃないからいいんだけど。「…だから今は二人きりであって、人の耳など無いと言っておるのに。ユゥはわたしより、ユイウ兄様の言うことを聞くの。」形のいい唇をちょっと尖らせて、上目遣いに僕を見る。兄弟や両親だけでなく、この邸中の使用人にも愛され、可愛がられているメイリンは、なんというか、甘え上手だ。使用人たちも男女問わず、姫様、姫様と呼んで世話を焼きたがる。普通なら我儘放題に育つところなのに、メイリンは何故か細やかな気配りのできる思い遣りのある女の子で、それがまた好かれているのだった。まあだから、僕がメイリンを可愛く思うのも、何かしてあげたいと思うのも、普通だと思う、うん。「いつだって君の言うとおりにしてるじゃないか、僕のご主人様。」僕はメイリンの要求どおりに口調を変えて、座っているメイリンを抱き寄せる。そして小さな顎をちょっと持ち上げて、桜桃のように瑞々しい唇に僕の唇を重ねた。『夜伽を始めるときはまずくちづけから。』それが、メイリンとの約束だ。メイリンの唇はとても、とても柔らかで、触れるときはちょっと緊張する。壊さないように、傷つけないように、宝物のように丁重に扱わなければいけない気がする。角度を変えながら何度か優しく唇を食み、湯浴みの後に緩やかに編んである濡れた髪をそっと撫でる。近づいたメイリンの髪と肌から、湯を使った後のいい匂いが立ち昇ってきて、僕は軽く眩暈を覚える。「そうやって優しくすれば、わたしが黙ると思って。ユゥはいつもずるい。……あっ」頬、耳許へとくちづけを落としてゆき、首筋にくちづけたとき、メイリンは小さく声を上げた。声につられて激しく吸い立てそうになったが、見える場所に跡を残すのは厳禁だ。ゆるくくちづけてあげる。彼女の夜着の帯を解いて、白い薄布の下着だけの姿にすると、胸の先端がうっすらと勃ちあがっているのが見えた。「ここ、もう硬くしちゃってるんだ。つんつんにして、弄って欲しそうにしてる。」「これはっ、そういうんじゃなくてっ、服を脱ぐと体が冷えるからその反応で……やんっ!」少しからかってあげると、途端に真っ赤になって反論する。でも、勃ち上がりかけた先端を布越しに指で撫でると、そこはすぐにはっきりと硬くなって存在を主張し始めた。「姫様は身体の方が素直だね。ここは僕に、弄って欲しいって言ってるよ。」メイリンの腰を強く抱いて、もう片方の手で胸の先端を転がすように撫でてあげると、僕の胸の中で彼女は身悶えして快感を訴える。もう一方の胸も、口を近づけて布越しのままちゅっと吸い上げた。「あんっ、それ、だめっ! まだ、脱いでないのにっ!!」「駄目、なんて言うときは、大抵イイんだよね……? 本当に、身体の方が素直だ。」下着を着けたままの胸のふくらみを手で持ち上げるようにして、その先端を再び口に含む。メイリンは甘く叫んで弓なりに身体をしならせ、僕は支えきれなくなってそっと夜具に横たえた。そしてその上に覆いかぶさるようにして、両胸を思い切り可愛がってあげる。メイリンは胸をたっぷりと愛撫されるのが好きなので、右から左、左から右と交互に口に含んで、白い下着の布が濡れて透ける様を楽しみながら何度も可愛がってあげた。「布越しばっかりじゃ…やだあっ。直接……触って……っ。」メイリンが焦れた声を上げる。白い下着姿で両胸の先端だけが淡い赤に透けた姿もなかなかに淫靡で捨てがたいのだが、お姫様の要求とあらば仕方が無い。腰のところで留める帯はそのままに、合わせ襟を左右に開くと白いふくらみが零れ出る。両手で包み込むように揉んであげると、メイリンは安心したような吐息を漏らした。「は…ぁ…っ」「本当に姫様は、胸を触られるのが好きだよね。ほら、その所為で最初の頃よりも大きくなってきた。僕のおかげだよ、嬉しい?」「ユゥの……おかげ?」メイリンはなんのこと? とでも言いたげに小首を傾げる。「女の子の胸ってね、こうやって男に揉まれると大きくなるんだよ。知らなかった?」「……しらなかった。」メイリンには姉妹がおらず、性に関する知識の大半は、なにやら怪しげな本を読んでの『独学』になるので、変な風に偏っている。妙なところで詳しいかと思えば、こういう普通のちょっとしたことを知らなかったりする。「これからもたくさん揉んで、おっきくしてあげるね、姫様。」耳許でそう囁くと、メイリンは不満顔で返した。「こんな時まで、姫様って呼ばないでっ! ちゃんと名前で、呼んで。メイリン、って。」勿論心の中ではそう呼びまくっているのだが、僕は極力メイリンの名を口に出して呼ぶのを避けていた。だって、なんだか、勘違いしてしまいそうだから。僕とメイリンが対等な関係……というよりは、例えば、恋人のような関係だと。だから、いつだって大義名分が必要だ。「それは、命令?」「う……命令でなくても、その名で呼んで。」「命令ならば呼ぶよ。」命令なら、ただ従っているだけだと自分自身にも言い訳が出来る……訳だけど、こうやって眉を寄せて逡巡するメイリンを見てるのも好きだ。口をぎゅっと結んで、大きな瞳をくるくるさせてちょっとの間悩んでいる。そして、いつだって最後には折れてくれるのだ。「じゃあ……命じる。」メイリンはちょっと不満そうに、でも可愛らしく頬を染めて、恥ずかしそうに小声で呟く。「──メイリン。」僕がそう呼んであげると、彼女の長い睫が揺れて、それから大きな黒い瞳が僕を捉える。「もっと…呼んで。」「メイリン、メイリン……可愛いね。」可愛いご主人様をぎゅっと抱きしめてあげる。「もっと。」「メイリン。」「もっと……あぁっ。」メイリンは短く声を上げた。僕の手が下の繁みを探ったのだ。下着は上も下もすっかり肌蹴て、辛うじて腰の帯で身体に残っている。着乱れた薄衣の下から惜しげもなく白い肌を覗かせ、甘い声を上げるメイリンは、いつだって困ってしまうくらいに扇情的だ。「随分物欲しそうに濡らしてるね……。胸を可愛がられるのが、良かった? 揉んでおっきくして貰うのが、好きなの?」「ユゥに……触られるのが……好き…。」そんな思わせぶりな言葉で、立場の弱い奴隷を弄ぶのはよして欲しい。僕がどんなに頑張っても、この巨大な中華の国の皇族であるメイリンの特別になんて、なりようがないんだから。高貴な立場の人間には、特有の責任があることくらい、僕にも分かる。味噌っかすのような扱いだったけど、この国と比べればあまりにも小さな取るに足らない『クニ』だったけれど、僕もかつて首長家の三男という立場だったのだから。若く美しく健康な娘であるメイリンが縁組もせずにいられる期間なんて、あといくらもない。これは儚い、一時的な遊びに過ぎないのだ。メイリンにとっても、僕にとっても。だからこそ、のめり込んでしまうのかもしれないけど。「褒めていただいて、光栄ですよ。……こっちに、触られるのも好き?」僕はなるべくよそよそしく答えると、彼女の繁みを掻き分けて、その奥の泉を探った。つぷ、と難なく指は、その源泉を探り当てる。「ああっ……んん、好き、すき……。」メイリンはとろんとした瞳で、容赦なく追い討ちをかける。もうメイリンにはなるべく喋らせない方がいいみたいだ、と思った。そうしないと、メイリンの言葉に甘く翻弄されて、僕の心が壊れてしまう。まだ何か言いたげな可憐な唇を、僕の唇で塞ぐ。歯列を割って侵入し、奥に隠れている舌を絡め取って、言葉を奪う。「…んんっ……。」今の僕はメイリンを気持ちよくさせてあげるためのただの道具だ。それ以上でも、以下でもなく。だから、ただ役割にだけ、徹すればいい。彼女の体内に挿れた指を動かすと、細い腰が跳ねる。内側の肉襞は複雑な迷路のようで、いつまで経ってもその全容は理解できないが、彼女が特に感じる所だけは、指が憶えていた。いつもの窪みを擦り上げると、メイリンは身体を捩って悲鳴を上げた。「んっ……、は、あぁっ!!」逃げられてしまった唇を追いかけて、空いたほうの手でメイリンの小さな顎を捕まえる。こちらを向かせて、有無を言わせずもう一度塞ぐ。逃がさない。もっと、悦んでしまえばいい。僕の指で、僕の身体で。僕の、腕の中で。何も考えられなくなるほどに。刺激を強くしてあげると、メイリンの内側の締め付けが一層きつくなった。それに合わせて、もっと奥の方へと指を動かす。「んっ……、ん──っ! んん────っ!!」そしてついに、メイリンの身体がびくびくと痙攣するように震えた。その波に合わせて奥の方を刺激してあげると、長い間身体を震わせていた。「随分、気持ち良くなってたみたい……僕の指がドロドロだ。」白い肌着のほとんどを肌蹴させてくったりと横たわるメイリンから、僕はにちゅ、と指を引き抜いて言った。指は粘着質の蜜に濡れて光っている。「ふふ、やらしい匂い。」その指を舐めながら、メイリンの匂いと粘り気を愉しむ。いつも着飾って、上品な香を焚き染めているメイリンも、ここだけは動物的な匂いなところが逆に興奮する。そうやっていると、メイリンがとろんと蕩けた瞳を恥ずかしげに伏せるのも、またいい。「命令して。このあと、どうして欲しい?」メイリンはかあっと顔を赤くした。いつだって、ちゃんと言えるまで焦らしてあげるのだ。「ユゥの…それを……わたしの…ここに……っ。」メイリンは耳朶まで真っ赤に染めて、途切れ途切れに口に出す。「どこに? それじゃ分からないよ。」笑みを浮かべて聞き返すと、メイリンはふるふると震えながら、肌蹴た下着姿のまま、脚を開いた。密やかな繁みが間から覗き、躊躇いがちにその中心部を指し示す。「あ……、ここに…っ、挿れて…。」「仰せのままに、メイリン。」可哀相なくらいに真っ赤になっているのでこの辺で許してあげることにする。ほとんど用をなしていなかった下着の帯を解いて、身体に纏わりつく薄布を剥ぎ、メイリンを生まれたままの姿に解き放ってあげる。そして僕もまた邪魔な衣は全て脱ぎ捨てた。無防備に横たわるメイリンの腰を引き寄せると、その中心へ、僕の漲った分身をゆっくりと埋め込む。「──────っっ!!」奥まで到達すると、メイリンは僕の背中に軽く爪を立て、脚は爪先までをぴんと伸ばして仰け反る。軽く達したのかもしれない。でも僕は、余韻を味わう暇など与えずに、無遠慮に腰を打ちつけた。「あぁ────っ!! やっ、待っ、激しっ、…ユゥっ!!」「メイリンがいけないんだよ」僕に責められてメイリンは、大きな瞳に涙を浮かべて、艶のある編んだ黒髪が乱れるのも構わずにいやいやと首を激しく振る。「こんなに濡らして、内の襞も物欲しそうに僕に吸い付かせて…これじゃあ、ゆっくりなんてしていられないだろう?ほら、こうして突く度に内が動いて、僕を締め付けてくるよ。わかる?」答えなど、言わせるつもりもなかった。身体の内も頭の中も、僕でいっぱいにしてしまえばいい。このときだけは、僕だけを見て、僕だけを感じて、二人で一つになればいい。「や……っ、だめ、わたし……、おかしいっ、……また…」激しく奥まで蹂躙されながら、メイリンは切れ切れにそう告げる。「貪欲なメイリン。また気持ちよくなっちゃうんだ。いいよ、どれだけでも快感を貪るといい」僕はメイリンの片足を抱え上げ、少しだけ角度を変えてまた腰を打ち付ける。メイリンの内部はどこもかしこも敏感になっていて、新しい刺激を悦んで迎え入れた。「やぁっ、あぁ────っ、あっ、あぁ───……っ」悲鳴と同時に、内部の締め付けが激しくなった。僕も一緒に達してしまいそうだったが、ぎりぎりのところで持ちこたえる。「またいっちゃったんだ…。一体何回いく気なの?」僕は少し笑みを浮かべて、メイリンを見下ろした。本当にメイリンは、なんて可愛い、素直な身体の持ち主なんだろう。男なら誰だって、メイリンに夢中になるに違いない。「最後に、後ろから可愛がってあげようね…後ろからされるのも好きでしょう、メイリン?」「あ……っ、はぁ……っ」メイリンは何か言おうとしたが、浅く息をするばかりでもう言葉にはならないみたいだ。表情も、身体も、身体の内もとろとろに蕩けている。僕はメイリンの向きを変えてうつ伏せに寝かせてあげ、腰を持ち上げようとしたけど、もう足腰が立たないらしい。こんなになるまで感じてしまうなんて、なんて可愛い。うつ伏せ寝のまま脚を開かせて、その間から侵入した。力の無くなったメイリンの身体を後ろから抱きしめながら、最後の力で彼女の身体の最奥を求めるように腰を打ち付ける。「────っ!! ──────あっ!! ──────あぁっ!!!」メイリンの悲鳴はもう声にすらならない。恍惚の中、僕の方も大きな快感がせり上がって来るのを感じた。「出すね、メイリン。」短く告げると、僕はメイリンの内から僕の分身を引き抜いた。勢い良く飛び散った飛沫は、メイリンの背中を汚した。 * * *この邸に来て三日目に──メイリンが言った通りに──僕は手枷を外して貰った。メイリンが、お許しが出た、と言って嬉々として鍵を持ってきたので、僕はメイリンの父親に直接会うことはなかった。メイリンの父親は──この邸の使用人達に聞いたところによると──独特の存在感を持つ、不思議な人らしい。言い換えると、奇行癖のある変人、とも小声で言っていた。この巨大な中華の国を統べる皇帝の血に連なる人であり、この家の高貴さの源でもある。現皇帝の即位に伴って権利を放棄したが、それまでは皇位継承権第三位という高い地位にいた。メイリンは、その地位は高い実務能力と教養、武術の腕を兼ね揃えているが故の評価であったのだ、と誇らしげに言う。この邸の使用人にとっても、この邸の主人は横暴でも吝嗇家でもなく、給金の支払いも良いし、使用人の身内の祝い事にまで贈り物や祝い金をはずんでくれる良い『雇い主』であり、尊敬すべき人であるようだ。三月(みつき)もの間、この邸にいて、僕がその『父上様』に会ったのはほんの数回。そもそもあまり邸に帰ってこないし、帰って来たとしても僕は北の棟には立ち入り禁止を言い渡されているので、このとんでもなく広い邸では、ほぼ顔を合わせる事もない。僕の『クニ』で言えば、ちょっとした集落くらいの規模があるのだ、この邸は。 さらに、メイリンの『母上様』に至っては──正直、会うのを恐れてはいたが──その気配すら、感じたことはなかった。「母上様は、近頃大変、忙しい。」そうメイリンは言う。メイリンの母親は朝廷の高官で、俗に宰相位と呼ばれるものの一つ──具体的に言うと、中書令──に就いており、ともかく忙しい。連日のように深夜まで仕事で、たまの休日に帰ってきても寝ているのがやっと、起き出すとまた仕事に行ってしまうらしかった。「こいつをぶった斬って下さるとしたら、母上しかいないと思ったのだが、お忙しいのでは仕方がない。お体を壊されぬとよいのだが」と、苦々しげに呟くのはユイウ様だ。メイリンの父親はこの邸において絶対的な支配力を持っており、その父親が僕の存在を許している限り、長公子であるユイウ様も、二公子であるスゥフォン様も、簡単には僕をどうこう出来ないらしい。どうにかできるのは父親に匹敵する権力者、つまり母親しかいないというわけだ。メイリンの母親は女性でありながら武術の素養があり、この家ではユイウ様にもメイリンにも、そのほかの兄弟にも剣術を初めとした武術を教えたのは母君であるという話だった。朝廷の官僚である母君にとっては、剣術も武術も教養の一つであり、王都で催される武術大会では剣術でそこそこの成績を上げるほどの腕前で、しかも人一倍貞節などの倫理観には厳しいと聞くと──本当に遭遇しなくて良かった、と思ってしまう。メイリンの兄、ユイウ様とスゥフォン様には、初対面のときは殺されるかと思ったけど、その下について習い始めてみると、公平で公正な方たちだった。時々──いや、しばしば──厳しすぎるような気はしたが、それでもわざと嘘を教えたり、命の危険に晒すようなことはしなかった……と思う。「言ったであろ? 兄上様達は素晴らしく有能で、将来を嘱望されておるのだ。あのお二人に勝る教師役は、そうはおるまい。」メイリンが嬉しげに言う。勿論二人の兄が、大人しく僕なんかの教師役をやっているのは、可愛い妹としてのメイリンの『必殺技』が効いているからなのだが。本当にメイリンは、毎日まめに『兄上様達』に対して、その『素晴らしい教師ぶり』を絶賛し続け、二人の兄を陥落させるのに余念がなかった。そしてちらりと聞いたのだが、彼らの『父上様』も僕の教育について口添えをしてくれていたとかいないとか。そして、学べば学ぶほど、迷いは深まった。なぜ桂花の民は、そして首長の立場にあった父は、この強大な国と戦を構えようなどと思ったのだろう。多少なりとも物を知っていれば、敵いようがないことくらい分かりそうなものなのに。首長として交渉を行い、誰よりもシン国のことを見ていたはずの父やその周りの人々は、一体、何を思ってあの選択をしたのか。本当にただ窮乏していたのか。他に道はなかったのか。メイリンがぼくに問いたいことがある……と最初に言ったけれど、それが何かも分からなかった。ただ──迷う。知れば知るほどに。深まれば深まるほどに。 * * *「勘違いするなよ」ことあるごとに、この邸の長公子であるユイウ様は僕に釘を刺す。「妹は誰にだって優しい。例えこの国に反逆して簡単に滅びた民の生き残りであろうと。メイリンが主人、おまえは下僕、そのことを忘れるな。」「勘違いなんかしていません。」僕は極力感情を殺して、平坦に隙なく応える。勘違いなんかしてない。してない……はずだ。「妹はいずれふさわしい家格の男と縁組をする。おまえはそれまでのちょっとした遊び相手だ。外で遊び廻られて、悪い評判が立ってもいけないからな。あくまで自分の立場を弁えて、出過ぎた真似はするな。必要以上に馴れ馴れしくするな。」分かってる。分かってるから、言わないで欲しい、そんなこと。いずれメイリンが他の男のものになるなんて、考えただけで胸が壊れそうになる。でも最初から、分かっていたはずだ。メイリンはこの国の、高貴なるお姫様。僕は敗戦国から拾われた、ただの奴隷。ちょっといい扱いを受けているのは、メイリンの気まぐれだ。深入りなんかしては駄目だ。「妹はどこに行ったって男共に物凄く人気があるんだ。…『学院』でも、当然そうだ。俺とスゥフォンは協力して、妹に近づく悪い虫は徹底的に排除し続けて来た!! …卒院してからは弟を通じて、片端から妹に近づく奴は潰しておいたのに…っ!! どうして、おまえみたいなのが出てくる?!」『学院』というのはメイリンが毎日通ってる学問所だ。貴族の中でも特別に選抜を受けた優秀な者しか通うことが出来ない──つまりメイリンも特別に優秀ってことだ。女の生徒は少なく、というよりほぼ男ばかり。それでも身分が高いから既に許嫁がいるような男も多いそうだが、当然メイリンみたいな女の子が居たら好きになってしまう男も少なくないはずで。どうやらユイウ様を始めとしたメイリンの兄弟達は、そうやってメイリンに近づいてくる男を片っ端から脅迫したり、権力で圧力を掛けたりして遠ざけておいたらしい。おかげで、メイリンはあんなに綺麗で可愛くて優しいのに、『学院』の中でメイリンと恋仲になることができた男は一人もいないのだそうだ。──それが裏目に出たんじゃないですか?とは、例え思っていても、口に出さないくらいの分別は持ち合わせていた。僕にも妹がいるから分かる、妹が可愛くて仕方がなくて、守ってやりたいという気持ちが。そういう点では、僕はユイウ様達に共感を持っていた。可愛い、可愛い妹。傷が付かないように守ってやりたい。大事に、いつか巣立つその日まで。むしろ巣立つ必要なんかない、ずっと守ってやりたい。そしてまた、メイリンの気持ちも分かるのだ。成長して年頃になり、異性への興味だって芽生えてくる。身体も丸みを帯びて、女らしくなってくる。なのに守られ過ぎて、言い寄ってくる男の一人もいなくて。試してみたい、という気持ちだって、出てくるだろう。女としての自分を。そしてそこで見事に板挟みになっているのが、僕。心情としてはユイウ様の言ってる事のほうに分があるとは思うけれど、僕の主人はメイリンだし。「腕は上がった? ユゥ。わたしと、手合わせしようっ!!」僕がユイウ様に剣を教わっていると、メイリンが割って入ることがあった。メイリンの通っている『学院』でも剣術を始めとした武術を教えているし、勿論その前からメイリンは母親に手ほどきを受けているし、何と言ってもメイリンは従軍したことさえあるのだ。でも、メイリンの外出にはいつだって護衛が付いているわけだから、闘うのなんか他の屈強な男にでも任せておいて、メイリン自身が強くなる必要はないと思うんだ……なんて言ったら、真っ赤になって怒り出すんだろうな。それでもなお、メイリンのあの綺麗な身体に傷をつけるなんて、それだけで罪悪であるように感じる。『学院』での武術の稽古のために、メイリンの肘や脛なんかに青痣や擦り傷が出来ているのを見つけると、なんだかもうたまらない気持ちになる。メイリンみたいなすっごいお姫様は、ずっと誰かが守ってあげればいいと思うんだ。例えば僕とか……と言うには、まだ弱すぎることは分かっているけれど。というわけで僕は、メイリンと手合わせなんかしてもひたすら防戦一方なのだった。自分から手合わせしよう、と言うだけあって、メイリンはそこそこ強い。さすがにユイウ様ほど強くはないけれど。斬撃に重さはなくとも、相手の弱点や隙を見逃さず、素早く正確に攻めて来る。いつもユイウ様が言うような、力みと無駄のない理想的な動きというのは、こんな風に美しいものなんだ、と、メイリンの剣技を見ていて思う。そして最後には大抵、「手を抜くなー!! 真面目にやれっ!!」と本人に怒られてしまうわけなんだけど。でも、どんなに怒られても、あの、実は白くて柔らかくてふにふにな身体に、刃の無い木剣とはいえ打ち込むなんて、僕には到底出来そうも無かった。そしていつも「虫ケラは死ね」などと言って問答無用で厳しいユイウ様だけど、こんなときは何故かさりげなくメイリンの方を宥めてくれるのだった。 * * *メイリンの次兄、スゥフォン様から習ったのは、この国の在りよう。あまたの州と、その中にある直轄地と地方王の所領。気候と風土によってどのように収量が変化するのか。千差万別の耕地能力と耕作能力を査定して、その中で租税を徴収するための綿密な記録と、それを基にした複雑怪奇なまでの計算式。緻密に組み立てられた構造の中で、人の流れも財貨の動きも、文化の伝播すら管理されていた。それを可能にする、膨大な数の高等教育を受けた官吏の存在、その手足となって働く、更に膨大な数の胥吏達。その膨大な人々を支配するための、数々の論理と倫理。そして過去から学ぶための、気の遠くなるような事例の蓄積。スゥフォン様から習っていると、しばしばこの国のあまりの大きさに眩暈がする。大きければいいのかというとそういう訳でもなくて、広い国土を余すことなく管理し、支配権を行き届かせ、違反を許さない為にかなりの労力を費やしているのだった。この国がこの形を保つために常に費やしている労力に比べれば、僕達の『クニ』を潰すときに動かした力などは、ほんの小指一本分くらいだ。僕らの『クニ』の行く末を決めた人たちは、このことを分かっていたのだろうか。そして、メイリンから習ったのは──例えば、花のこと。メイリンの部屋には、沢山の植物の図誌が置いてあった。メイリンは、そのほとんどを憶えているのではないかと思うくらい、植物に詳しいのだ。対生、互生、輪生、根生。それから、奇数羽状複葉、三出複葉、二回三回複葉、掌状複葉。草の葉の広げ方にさえ、分類して名前がつけてあった。花だって、雄しべと雌しべ、花弁と萼だけでなく、葯、花糸、柱頭、花柱、子房、花床、花柄などと、細かく名前がつけてある。花弁の名前も、花の形状に応じて、舌状花冠、筒状花冠、側弁、唇弁、上唇、下唇、、旗弁、翼弁、龍骨弁、仏炎苞などなど。ありとあらゆる形状、ありとあらゆる部分に名前がつけて、分類してあった。こんなことをしてなんの役に立つのかと問うと、「命名し、分類し、明らかにすること。それ自体に価値がある。」と返された。よく分からない。一番吃驚したのは、イネの仲間の花についてだ。イネの仲間と言っても、そのほとんどは米や雑穀が取れるわけでもない、畑の脇に生える雑草だ。そういう取るに足らない──と、僕達が思っている──草についても、熱心に穂の花序を調べ、痩果を包む果胞の形状を調べ、根の形を調べ、場合によってはその小さな花を分解して雄しべや雌しべの数を調べてあった。勿論、それこそ米粒より小さな花のことなので、虫眼鏡とかを使った気の遠くなるような作業になるんじゃないだろうか。こんなにも役に立たない草を苦労して分類するなんて、とんでもない物好きがいるものだと思っていたら、メイリンは「存外に役に立つこともある」と言う。シン国で行われている、イネとその仲間の『掛けあわせ』のことだ。異なる種類の植物でも、『あいのこ』を作ることがある。それは知っている。それを利用して、この国では、新しい種類の植物を生み出す試みが行われていると言うのだ。そのときに掛け合わせる植物は、あまりに遠い仲間であると掛けあわせが成立しない。近すぎると、新しいものが生まれない。むしろ、遠方から取り寄せたような、ちょっと変わった(と言っても、同じイネ)仲間だと、上手い具合に両方の長所を兼ね揃えた新しい品種が出来るとメイリンは語る。そのときに、どのくらい近い仲間なのかを判断するのに、この目の奥が痛くなるような地道な研究が役立つのだそうだ。 メイリンの語るシン国の技術の話は、僕らの『クニ』の普段の生活からすると、荒唐無稽な夢物語に思えた。シン国では一部の場所で、春に咲く花を冬に咲かせることすらできるのだと言う。それは仙術の類ではなく、花の咲く条件を調べつくした末の特別な技術であるのだと彼女は語った。本当にメイリンは花のことには何でも詳しくて、いまはこの国のお姫様でも、生まれる前はやっぱり花仙だったんじゃないか、と僕は時々思ってしまう。メイリンから物を教わるのは、いつも楽しかった。メイリンの兄上、ユイウ様やスゥフォン様に教わるのが別に楽しくないわけではないが、彼らから教わるときはただひたすら知識なり技なりを憶えこんでゆくだけ。でもメイリンとの時は、必ず一通り話し終えたときに、僕の話を聞いてくれる。「見た目とか、部分の形状とかを文字と図だけで吃驚するほど細かく分類してあるけど、草ってそれだけじゃないんじゃないのかな。僕達は、草の匂いとか味とか、葉っぱに触ると手が切れるとか痛いとか、何の動物がよくその実を食べるかとか、いつも水辺に生えてるとか、畑に生えてくると根っこが横に広がって困るとか、草の汁が切り傷に聞くとか腹痛に効くとか、そういうことで憶えてるけど。」「森に火入れをしたあと、真っ先に生えてくる草木もある。奴らの種は土に埋もれて、炎が来るのを待っているんだ。そしてそういう植物は、大きくなると大抵燃え易い。」とか、そういう、僕の育ってきた中で知ってる、何の変哲もないことを話したりする。お義理かもしれないけど、メイリンが桂花山での暮らしのことを楽しんで聞いてくれると、途端にその話が宝物のように思えたりするから不思議だ。そんなことを話し合っていると、いつも知らぬ間に夜は更けた。夜が更けると、それはいつだって僕とメイリンの時間だ。その中には当然……その、『夜伽』だって含まれる。『夜伽』をした夜は、抱き合って眠った。『夜伽』のない夜は、瞼が重くなるまで語り合って、手を繋いで眠った。冬の深まる中、暖かい誰かと眠るのは、メイリンの言ったとおり、とても、心地良かった。 * * *メイリンに深入りしちゃ駄目だ、と、一人のときは結構本気でそう思っているのだ。でもメイリンは、僕がどんなに決心しても、笑顔一つで易々と打ち砕いてしまう。「ただいまっ! ユゥ。兄上様達から出された『宿題』は終わった?」メイリンは帰宅すると、真っ直ぐに僕のところへやってくる。いつも抜群の破壊力だ。「あのね。」メイリンは可愛くくふふ、と笑った。「今日は学院で、先生からいいお菓子を頂いたの。こっそり持って帰ってきたから、あとで半分こしよ。あ、一個しかないから、他の人には内緒ね。兄上様にもね。」「一個しかないなら、普通に姫様がお召し上がりになったらいかがですか。」他人の目があるのでそっけなく敬語で返すと、メイリンはぷくっと膨れ顔になった。「もぉっ。なんでそういうこというかなあ、ユゥは。一緒に食べたいから、わざわざ持って帰ってきたのに。」策略だ。こんなに可愛いのは、何かの策略に決まっている。そしてこんな策略を考え付くメイリンは、天才に違いない。メイリンの持ってきたお菓子は、木の実を炒って糖蜜で煮絡めた餡がぎっしり詰まった焼き菓子だった。メイリンはそれを油紙にくるんで、大事そうに持ってきた。胡桃、松の実、椎の実。滋養のある大粒の実は、森の中でもご馳走だ。それが綺麗にアク抜きされて、炒られて蜜に絡まって、美しい型の焼き菓子の中に納まっている。なんだか上品に畏まった、芸術作品みたいだった。それはそれとして、美味しいお菓子を食べるときの女の子っていうのは、どうしてこんなに幸せそうな顔をするんだろう。整った顔をほくほくと緩ませて、時々驚いたりしながら菓子職人の健闘ぶりを讃えている。僕は手元の菓子はひとくち齧ったままで、そんなメイリンをぼうっと見ていた。今のメイリンを少し齧ったら、きっとどんなお菓子よりも美味しいに違いない。舐めて、齧って、食べてしまいたい……。「どうしたの、ユゥ。」メイリンに声を掛けられてはっと我に返り、目を逸らす。「食べないの? 美味しくないの? 気に入らなかった?」くるっとした大きな瞳が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。「いやあの、……こういうの、妹のユイに食べさせてあげたら、喜ぶだろうなあ、って思って。」見透かされたみたいで動揺したのか、それとも木の実が森の冬を思い出させたからか、つい妹の名を口走ってしまう。「ふむ、ユゥの妹か……会いたい?」「えっ?」メイリンがあまりにこともなげに言うので、ちょっと思わぬ話の展開に驚く。「会えるの?」それよりもまず、生きているのかどうか知りたい。でも、抵抗すれば容赦なく斬る、と言ったメイリンの父親の声がよぎる。もし無事じゃないのだったら……知りたくない。「会いたいなら、そのうち会わせてあげる。その……すぐにというわけではないけど、そのうちに。」「生きて……いるの? 確かに? 妹と、それから…母さん、も?」「生きているか、って? 勿論生きている。ウォン家の奥方と、娘のことなら、元気にして居られる。首長家の者であるし、それなりの扱いをされている。」知らないとは思わなかった、とメイリンは言う。僕がかなりの日数、あちらに留まっていたので、その間のことくらいはとうに知っていると思っていたのだと。何も聞かないのも、落ち着くまであちらにいたからだと思っていたのだと。そしてメイリンは僕の母と妹に関しては、それなりに気に掛けて、報告を受け取っていたらしい。僕が、メイリンの従者になってからは。だから二人は、確かに元気だと彼女は言う。「今、ユゥの一族は、地元の蒲州を転々として、河堰の補強の労役に駆り出されておる。労役には食料が支払われる。衣服その他の物資も。だからそう気を揉むほどのこともあるまい。」「でも、反抗すれば、容赦なく斬るって…」「ちょっとした脅しだ。貴重な労働力を、そう簡単に斬る筈がないであろ?ユゥの一族も、最初の労役以降は大人しく従っているようだし、もうそんな脅しの必要も無かろう。」「最初の労役ってなに?! 何かひどい目にあわせたの?!」僕が思わず声を荒げるとメイリンはちょっと驚いたような目でぼくを見た。「あ…ごめん。大きな声出して。」「よい。許す。……そうか、そこから知らぬのか。案ずるようなことではない。もっと早くに聞けば良かったのに。」僕はなんと言っていいか分からなくて、聞けなかった、とだけ言った。「そうか。わたしがもっと、察してやらねばならなかったのかの?ユゥが、自分の家族を案じないはずがないのにな。わたしも知らぬこと、機密のことは言えぬが、母や妹のことくらい、気軽に聞いてくれればよい。そのうち、おまえの妹にも会わせてやる。これと同じとは言わぬが、同じくらい美味しい菓子を、妹にも食べさせてやろう。それでいい? ユゥ。」「……有難うございます。」僕は跪き、主としてのメイリンに臣下の礼を取ろうとした。そうするのがいい気がした。奴隷の身分に堕とされたとは言え、メイリンのような立派な主人を持てて幸せだ。「ちょっと待って、ユゥ。」メイリンは手を地に付けようとする僕を押し留めた。「礼を述べるのならば、もっとわたし好みにしてくれても良かろう?ちゃんと立って、わたしの目を見て、わたしの名を、呼んで。」メイリンは僕の手を取って立たせた。くるりと大きな瞳で、僕を見据える。困る。どうしたらいいんだろう。メイリンはどれだけ時間が経っても、要求どおりにするまで僕を許す気はないようだった。黙っている僕を期待に満ちた目で見詰めている。僕は漸く、躊躇いがちに彼女の名を呼ぶ。「……有難う、メイリン。」するとメイリンはふんわりと、お菓子よりも甘く蕩けるような笑みを浮かべた。ああ。僕が家族のことも、一族のこともなかなか言い出せなかったのは、本当はこれを恐れていたんじゃないだろうか。無視される方が、まだいい。冷たく突き放されるのも、人間以下に扱われるのも、既に覚悟していたことだ。でも、こんな風に、優しく受け止められて、いい扱いをしてもらって、気遣ってもらったりしたら、もうどうやって、好きにならずにいられるのか分からない。でもメイリンはこの巨大な中華の国の、皇帝の血に連なるお姫様。僕はただ、彼女に拾われただけの奴隷だ。いずれ、ふさわしい家格の男に……、そう、僕でない男のものになる。そのときのことを考えると、心が壊れそうだ。少なくとも今みたいな関係でいることは出来ないはずだ。僕が夫なら決して許すはずもないし、下僕としても……その、嫌だ。どこか別の邸に移されるのか、メイリンが嫁いでいった後もこの邸に残されるのか、それとも単なる護衛や従者として、他の男の妻になったメイリンを傍で守ることになるのか。ここで生き抜く上で、メイリンは最大の脅威だ。可愛い顔をした暴力そのものだ。今だって、彼女のことを考えるだけで、心臓が軋んで悲鳴を上げる。なのに、ずっと考えていたいだなんて。いつかあっけなく棄てられるとしても、それでもなにかを捧げたくて仕方がないなんて、僕自身もどっかおかしい。メイリンの毒にやられてしまっている。甘くて美味しい、仙界から来たような毒に。ああ、還りたい。あの懐かしい故郷の山に。僕達の神様のいる森に。そうすれば、どこか狂ったような僕の心も元に戻る。きっと戻る。だから、いつか必ず還るんだ。 ──続く──注:吝嗇家=けち、胥吏=試験なしで現地採用される下っ端事務官で読んでください。
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