国にも人にも勢いというものが有る。
一度付いてしまった勢いを変える事は難しい。
いや、もう五年若かったならば、無理矢理にでも流れを変えようと試みただろう。
しかし、七十を過ぎた今の自分にその力は無い。
先達から後事を託され、光の陣営のために奔走して幾十年。
剣と成り盾と成り、王国を護ってきた自負が有る。
今となっては、それも空しい。

(長く生き過ぎたか……)

執務室に一人佇みながら、元帥はため息をついた。
寂寞の想いが胸中を去らなかった。
王国は残された兵力全てを注ぎ込んで、文字通り最後の決戦に臨もうとしている。
その兵力は民兵を含めて五万以下。
いくら魔王軍が古く深き森で消耗しているとはいえ、余りに頼りない。

(あの七万がここにあれば……)

愚にも付かない考えが、頭から離れないことが、すでに老いた証拠だった。
昨年失った精鋭を温存していたなら、勝つとまでは言わねども引き分けに持ち込む策はあった。
王国領深くに誘導し、牽制と挑発を繰り返しつつ敵の弱体化を謀る。
必要ならば王都の放棄も選択肢に入れ、最後まで決戦を避ける。
魔王に率いられた闇の軍勢は強い。
しかし、魔王の力の及ばない状況を作り出すことが出来れば話は変わる。
いくら強大な魔力を誇る魔王でも、まさかマナを降らせて兵の腹を満たす事は出来まい。
そこに付け入る隙は有るはずだった。

元帥は常に現実的な戦法を好み、戦場に賭博的要素が入るのを嫌った。
だが、伸るか反るかの戦いが苦手な訳ではない。
寧ろ武名を高めた功績の多くが奇略によるものなのだが、
それらは二度と味わいたくも無い、針の穴を通すが如き薄氷の勝利であった。
そしてこれより、おそらく最後の戦術的賭博に挑まなければならない。
兵力が少ないことの最大の弱点は、戦略上の選択肢が狭まることだ。
元帥にとって残念な事実だが、一か八かの戦いを回避するだけの余裕が、今の王国には無いのだ。

なにせ、只でさえ少ない食料備蓄は底を尽き始めた。
冬の間に、暴動が起きかけようとも配給を搾り続けたお陰で何とか確保した糧秣も、
勇者アデラの叙任式典大盤振る舞いをし、またドレイクの来襲によって備蓄が一部消失したため、
全軍を動員できるのはごく短い期間に限られていた。
クルガン王の如く、
『ならば尚の事、勇者を一日でも早く魔王に挑戦させろ』と主張する楽観的な見方もあるが、
元帥はそちらに組する事ができなかった。
永年培った経験が、そのような甘い期待を抱く事を拒絶する。
一騎打ちの勝ち負けに国の運命を委ねるなど、拳闘試合に身代の全てを賭けるに等しいではないか。

一つだけ、元帥の胸中には策が有る。
成功するかどうかは判らない。
自分の采配が鈍れば、また勇者が期待よりも弱ければ、開祖ラルゴン以来続いてきたこの国は滅びる。
光の王国という盾を失った西方へ、魔王軍は地の果てまで進むだろう。
五百年前の、闇の勢力による世界支配が再現されるのだ。

元帥は腹を括らねばならなかった。
勇者と魔王の対決が避けられぬとするならば、それを活かす以外に破局を避ける方法が無い。
楽観はしないが、予言どおり勇者アデラが魔王を倒せばそれでよし。
だが、彼女に全てを背負わせる事はしない。
自分自身がやれるだけの事を、全て行うだけだった。

覚悟を決めたその時、樫の扉を叩く音が元帥の黙想を破った。
聞きなれた叩き方から、すぐに誰のものか判った。

「入れ、マートレット」
「失礼致します。閣下」

軽軍装を纏った女が、扉を開けて入ってくる。
歳は二十代後半の、情の強そうな目尻をした女だ。
兜を被るときに邪魔にならぬよう、きっちり髪は纏めて結い上げられている。
微塵の緩みもない軍装と合わせ、この女のきつい性格を如実に現しているかのようだった。
右拳を軽く胸に当てて、女は元帥へ頭を下げる。

「一通り各部隊の編成が完了いたしました。
 聖騎士団も今回に限り、閣下に全ての指揮を委ねると申しております。
 あの女魔術師の作戦通り進めるなら、我等はアデラの行動を隠匿するための囮ですが」
「囮部隊が敵軍の目を逸らしているうちに、勇者が魔王を倒す…… 古典的手法だな」

五百年前にも使われた古い策だが、
大軍に護られている魔王を、戦場で討ち取ろうとするよりは成功の見込みがある。
しかし、現在の状況では危険も大きい。
勇者が敗れた場合は共倒れになり、この国は滅びる。
御前会議で決まった以上、元帥は己好みで無い策でも大枠には従う。
ただし、それ以外の部分については彼の裁量で戦うつもりだった。

「これを、渡しておく」

文机の上の一通の封筒を、副官に手渡した。
偽造防止の特別な透かしが入った封筒は、元帥府の公式文書にしか使われない。

「これは?」
「西方諸国への援軍要請だ。
 王の名で出すよりも効果が有る。儂は、あちら側にも些か貸しがあるからな」

元帥には、東西を問わず個人的な交際が有る。
昨年の敗戦時も、元帥の失脚がエルフ族、ドワーフ族ら他種族との連携を乱す原因となった。
一臣下の声望が王を凌げば、国は危うくなる。
かといって、王の声望に合わせていられるほど悠長な性格もしていなかった。
あるいは、それが元帥の唯一の欠陥であったかもしれない。
戦場では敵すら呆れるほどの持久戦にも耐える元帥が、王宮では僭越で独善的な老人になってしまうのだ。
政敵にとっては腹立たしい事に、元帥がそんな行動を取る時は、大抵の場合成功するのだが。

「それを西方へ送り届けよ。
 儂の頼みなら嫌とは言えぬ筈だ。
 お義理程度であっても、必ず支援を寄越す」
「その使者を、私に?」

元帥は黙って頷いた。
一抹の不安を抱きながら、己の副官を見詰める。
きっぱりと、彼女は言った。

「――拒否いたします」

マートレットは軍人として優秀であり、忠実であった。
副官に任命して以来、マートレットが期待に背いたことはない。
彼女は元帥の秘蔵っ子であり、佩剣式の際には自ら父親代わりを務めていた。
だが、彼女は上官の命令をただ遂行するだけの軍人ではない。
自分の上司がそうであるように、優秀さが忠実さに勝る。
彼女を教育してきたのは元帥自身だったが、今日になってそれは裏目に出た。

「これは王国元帥としての命令だ」
「では、元帥付き副官として具申させて頂きますが、この任命は明らかに誤りです。
 今更西方への援軍を求めたところで、決戦には間に合いますまい。
 にも関わらず、重要な会戦を前に長く幕下にお仕えする副官を入れ替えても混乱を招くだけです。
 お考え直しになるよう進言いたします」

その程度のことに、元帥も考えが至らぬ訳が無い。
彼があえて彼女に命じたのは、戦略以外の理由ゆえであった。
だが、なるべくならそれを口にしたくなかった。
立場と名誉を守るためには、言わない方が良いものがある。

「マートレット、儂はお前が生まれる前から戦場を往来してきたのだぞ。
 副官が変わった位で指揮を乱したりはせぬ」
「しかし、私以上に勤められる者は存在しません」

真っ直ぐな瞳で、マートレットは元帥を見返した。

「満足のゆく説明を頂かない限り、この沙汰には納得いたしかねます」
「兵士は、たとえ納得がゆかなくても上官の命に従わなければならん」
「それは重々承知しております。
 ですが、閣下は理由も無く部下に命令を押し付けたりなさらぬ方です」

副官の毅然とした態度に押されてか、元帥はため息をついた。
歳は取りたくないものだ。
本当に、嘆息する事が多くなった。

「本当に、お前は頑固だな。そういう所は、祖父や父親に似ている」
「お褒めに預かり光栄です」
「お前の祖父とは、初陣を共にした仲だった。
 最期の戦いで彼が背中を守ってくれていなければ、儂はとうてい生き伸びることは出来なかった」

老元帥は寂しそうに瞳を閉じた。
彼は確かに一時代に屹立する名将だが、その輝かしい軍歴は何の犠牲も払わずに手に入れたものではない。

「……親友に託された一人息子を、儂は死なせた。
 主力部隊を守るために、彼は自ら危険な任務を引き受け―― 捨て石になってくれた」

共に笑い、共に泣いた、かけがえの無い友の骸の冷たさ。
本当の息子のように思い、成長を楽しみにしていた青年を、死地に赴かせた事。
思い出すだけで、後悔が胸を苛んだ。
彼らの代わりに、自分が死んでも良かったのだ。
二人とも、元帥章を帯びるに恥じぬ将器の持ち主だった。
しかし彼らは死に、自分はむざむざ生を貪っている。

「なあマート…… ここでお前まで死なせてしまったら、儂は彼らにどう詫びればよい?」
「将は兵に死に場所を与えてこそ…… 私の一族は、殉じるべき方を選びます。
 そして私も、祖父と父の選択が間違っていたとは思いません」

誇らしげに、マートレットは胸を張った。
一点の曇りも無い目で、彼女は元帥を見詰める。

「そもそも、閣下は私以外にも数多くの将兵を殺しておいでです。
 この期に及んで私だけ助けようというのは、不公平ではありませぬか」

彼女には覚悟が有る。
軍人が死ぬのは避けられない運命だ。
それを支えるのは、自分の死が無意味ではないという確信だった。
不運なものは、命を捨てる意味も与えられぬまま死ぬ。
何の意味も無く、ただ上官の我欲のために殺される。
指揮を執る男が、自分の命を生かしてくれると確信すればこそ、兵は生命を賭すことができるのだ。
兵に背かれる将は失格、兵を従わせられれば将は及第、そして兵に愛されれば将は無敵である。
祖父と父が愛したように―― いやそれ以上に、彼女もまた元帥を愛した。
なのに何故、今更このような命令を下すのか。
マートレットの真剣な眼差しが、元帥の口を開かせた。

「マート、儂は伊達に歳を食ってる訳では無いぞ。
 女子の身体の事は、そこいらの産婆よりも良く知っておる。
 体の変調を悟られないと思っていたなら大間違いだ」
「……」
「儂はお前と、お前の胎の中に居る子には生き残って欲しいのだよ」
「身勝手な仰りようですね」
「儂も老いたのさ」

恥ずかしそうに、元帥は力なく笑う。
二人は只の上官と部下ではない。
男と女の、情を交わす間柄になっている。
この歳で孫娘も同然の娘に手を付けたなどとても公にはできないが、なってしまった物はしょうがない。
この期に及んで見苦しい事である。
晩節を汚すことになるかもしれない。
それでも、自分が尽くしてきた五十年と引き換えに、最後の女と実子にぐらい依怙の沙汰を行ったとて、
誰に文句を言わせようか。
もし足りないと言うのであれば、次の戦で己の命を呉れても構わぬ。
娘同然に、そして一人の男として最後に愛した女を戦場から離しておくためならば、
名声も追い先短い命も惜しむ所では無かった。

その心算で元帥は副官に告げたのだが、マートレットが下腹を押さえながら言った言葉は、
彼にとってもかなり意表を突いたものだった。

「生憎ですが、この子は閣下の種ではございません」
「何と?」

今度は元帥が目を丸くする番だった。
悲愴な決意など吹き飛ぶ、突然の告白であった。
だが、虚を突かれたのは一瞬だけで、次の瞬間にはその顔に笑みが浮かんでいた。

「ほっ、ほほーう! これは驚いたわっ! まさかこの歳になって女を寝取られるとはのぅ!」
「隠しだてをして申し訳ありません」
「いやいや、構わんよ。ではマート、ならばその子の父親は誰だ?」
「グランド卿です」

元帥も見知った士官の名を、マートレットは上げた。
それなりに有能で、評判の良い武人である。
よく兵士達とも冗談を交し合う、快活な性格の持ち主だった。
勿論、女たちにももてる。

「なるほど。グランドか…… 顔立ちも悪くないし、腕っ節もあるし、頭も切れるものなあ」

自分の種だと思っていた子が、実は他人の子だと告げられたというのに、
かえって元帥は可笑しそうに微笑んでいた。

「ところでマートや? グランドは若い頃、戦地で従軍娼婦に手ひどく尻を齧られたことがあってな。
 奴と寝たというのなら、右と左のどっちにその古傷があったか当然知ってるよな?」

目を細めつつだが、元帥は相手の挙動に不審が無いかを探るように、マートレットを見た。
だが言いよどむことなく、マートレットは答える。

「右です」
「ほほう……」

じろりと見詰めるその瞳にも、マートレットは表情を崩さない。
二人はしばらくそのまま沈黙していたが、いきなり元帥は笑い声を上げた。

「くっ、ふはははは…… 流石は儂のマートだ! 嘘の付き方も堂に入っておるわ!」
「閣下? 私は……」
「言うな、マート。お前の腹ぐらいお見通しだ」

副官の眼前に掌を広げ、元帥は彼女の言葉を遮った。

「もし『右だ』と答えて当たっていれば良し。
 儂が『答えは左だ』と言ったなら、『私から見て右側にありました』と言う心算だったのだろう?」
「……」
「本当の所はな、昔あいつは二人で金貨二枚という約束で娼婦を閨に引き入れたのだが、
 事が終わってから二人で一枚に値切ろうとして、左右両側の尻に噛み付かれたのだよ」

僅かにだが、マートレットの表情が翳る。
それが答えだった。
どんなに巧みな嘘を付こうとも、この老人を欺くことは出来ない。
人並みはずれた洞察力は、歳を経て衰えるどころかますます磨きがかかっている。
この程度の駆け引きなど、彼にとって児戯に等しかった。
もっときわどい姦計に幾度も巻き込まれながら、彼は王国を守って来たのだ。

マートレットは肩を落とした。
無駄な虚言を吐いてしまった事への悔恨が、彼女にそうさせた。
その肩に、優しく元帥は手を乗せる。

「判っているだろうが、西方に行けというのはお前が要らぬからではない」
「承知してますっ! 承知しておりますが…… でも……」

マートレットの眦から、涙が浮かんだ。
この時ばかりは、自分が女であることが恨めしかった。
女であるが故に、愛する男に最後まで殉じる事が許されない。
幼い頃から、元帥以外の男など眼中になかった。
元帥と比べれば、他の男は二枚も三枚も落ちる。
これまで異性に誘われた事が無いわけでも無い。
だが、時代を動かしうる男だけが持つ『匂い』というものを感じさせるのは、たった一人だった。
雄雄しく、強靭で、賢明で、勇敢で、そして優しい。
そんな男が身近に居たことが、女として幸運であったか不幸であったのか、答えを出す事はできまい。
ただし、積年の想いが伝わり、成就した歓びは何物にも変えがたい。
あの歓びのためになら、マートレットは全てを投げ出すだろう。
彼女もまた、愛の業深さを知る女であった。

「マート……」

元帥の手が、優しくマートレットを抱き締めた。
かっての様な逞しさは無いが、引き締まった老躯にはまだ力が満ちている

「うっ……」

目尻が熱く滲んだ。
涙を流すなど、父が戦死したと知らされた日以来の事だった。
あの日も同じように、元帥は幼い自分を抱き締めた。
父の死に様を告げた元帥からは、それ以上詫びる言葉も慰めの言葉もなかった。
死は、どんなに言葉で言いつくろっても取り返しがつかないからだ。
だが、元帥の鋼の様な身体から、温もりと共に伝わるものが有った。
彼女は知った。
元帥も父を愛していたことを、そして父の死に深く傷ついていることを。
まだ幼かった自分は、父の死を言葉で告げられても理解することが出来ていなかった。
ただ元帥の身体から伝わる悲しみが、死の意味を教えてくれた。
だから、声を上げて泣いた。
泣き疲れ、喉が枯れるまで、元帥にしがみ付いたまま泣いた。
そして今、あの時と同じように元帥の腕の中で涙が零れた。
もう声を出して泣く様な真似をする歳ではないが、涙だけは止められなかった。

 

・・・・・・・・・

 

波止場で手を振る人々に見送られ、船は出発した。
見送りの中に、元帥は居なかった。
彼は魔王軍との決戦のための準備に取り掛かっている。
だが、マートレットはじっと陸を、元帥府がある方角を見詰めていた。

「ケッ…… めそめそ泣いてンじゃないよ。
 どうせ男のこったろうが、海が時化るって」

背後から声をかけられ振り向くと、そこには女が立っていた。
腰に曲刀を下げ、柄の悪い声をした女の右目は、黒い眼帯で覆われている。
彼女が、この船の船長だった。

「見送りにも来ない奴を、何時までも未練がましく思ってても無駄さね。
 西へ行ったら、もっといい男でも見つけるこった!」
「船長…… 貴女は人を愛した事がないのか?」
「へっ、男なんざ股座が寂しくなった時に使えりゃ十分だ。
 私が身も心も捧げてるのは、愛しいこの船だけだよ」

隻眼の女船長を初め、船員達はどう見ても堅気の船乗りには思えない風体をしている。
東方人だが、魔王に対する敵愾心は信用できると元帥は言った。
どういうツテが有るのか、東方人にまで元帥は人脈を通じていた。

「それにしても大丈夫なのか? 西方への航路にも魔王の艦隊は現れると聞いたが」
「ああン? 嘗めてんのか! あんなドン亀に捕まる様なヘマはおかさねえよ。
 無事にアンタらを西まで運んでやるさ!」

女船長はひらひらと手を振りながら、舵の方へと去っていった。
マートレットはもう一度、港の方を眺める。
二人は、既に別れを済ませていた。
最後に交わした言葉が、まだ耳に残っている。

「産まれたのが男子でしたら、その子に閣下のお名前を頂いても宜しいでしょうか?」
「それはまあ…… 構わんが」

己の名を気に入ってる訳ではないので、元帥はこれまで息子たちに付けなかった。
だが、最後の子には、名前ぐらい遺してやっても良いだろうと思えた。
その子の父親が自分であるという証と共に。

「マート、これを」
「あっ……」

己の指に嵌められた指輪を外すと、元帥はマートレットの左手を取り、その薬指にそっと嵌めた。
元帥の指に丁度良く納まっていた指輪だが、マートレットの指には少し隙間ができてしまった。

「ちと大きすぎるか。折を見て直すと良い」

家門を表す印章の付いた使い古した指輪が、彼女の指に嵌る。
父親からそれを譲られると言う事は、嫡出として相続権を持つ証拠である。
こみあげる想いが、もう一度マートレットの眦を熱くした。

「もし女の子だったら……」
「その時はミュレットと名付けるといい」
「私の祖母の名前を?」
「うむ、そして儂の初恋の人の名前でもある。
 まあ結局、無二の親友だった男に彼女を取られてしまったのだが」

悔しそうに笑う元帥の首に、マートレットは腕を回した。
頬と頬を寄せ合うように抱き合いながら、彼女は元帥の耳に囁いた。

「閣下、私を西方に送られるのをいい事に、別の女に手をお付けになったら怨みますよ?」
「はははっ、儂ももう歳だ。他に女を作るほどの気力は無いよ」
「嘘つき……」

無理矢理にでも、マートレットは笑い顔を作ろうとする。
もはやここに至って、元帥の心を乱してはならなかった。
寧ろ心置きなく戦いに向かわせる事が、彼女が副官として出来る最後の貢献だった。

元帥はしばしば、祖父と父が元帥章を帯びるに足る男であったと語っていた。
だが、元帥職を務める事と勝利する事は別の問題だ。
彼女は確信していた。
マートレットは、例え祖父と父の将器が元帥の言ったとおりだとしても、
彼らの指揮では闇の軍勢を退けることは出来まい。
光の命運を護ることが出来るとすれば、それはこの世に一人しか居ないだろう。

マートレットは、もう何も言わなかった。
ただそっと、元帥の唇に己のそれを重ねる。
それが、彼女の上官であり、父親であり、恋人であった男との別れであった。


(終わり)

 

 

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最終更新:2009年01月06日 02:19