朱天幕の中、にやついた笑みを浮かべながら、火の様に輝く黄金の髪をティラナは直していた。
鏡を覗き込みつつ、手櫛でしきりに髪を梳く。
そうしていたかと思えば、今度は眉の形を気にしてか、手の甲に唾を付けて顔を撫でる。
「うひひ、本当に久方ぶりじゃの。あ奴の訪いは」
どうやらこの野獣娘にも、雄の前では外面を気にかけるという本能が根付いているらしい。
ただ、これが身だしなみと呼べる範疇に入るかどうかは別としてだが。
「今宵はしっぽり楽しむぞよっ。なにせ、久方ぶり過ぎて股が干上がるかと思ったからの」
「……はしたないわよ、そんな言い方は」
「へへっ、おしとやかに寂しいよりも、はしたなくて気持ちいい方が良いのじゃ!」
「全くもう、付ける薬が無いわね」
居候の放埓さに苦笑しつつも、ネリィは酒肴の用意を続ける。
侍従を通じ、魔王が訪れると伝えられてティラナは喜びを露にしたが、嬉しいのは彼女も同じである。
主の訪いを待つその表情は、いつもより明るかった。
「おっ、来たぞよ!」
まだネリィには聞こえないが、足音を察知してティラナは立ち上がった。
化粧道具を放り出したまま、一目散に部屋を飛び出す。
おそらくその勢いのまま、魔王の胸に飛び込むのであろう。
まるで子供のようだが、あそこまで愛憎をあからさまに表現できるというのが、
ネリィには羨ましくもあった。
部屋の外から、そのティラナの声が聞こえてくる。
「魔王め! 妾をこんなに長いこと抛って置くとは、まっこと憎い奴じゃ。
許さんぞぅ、このこのっ!
今宵は埋め合わせをしてらうからの!
空が白むまで寝かさんから、覚悟してお── 」
ゴ ヂ ン ッ
「ぐぇっ!」
オークの石頭を棍棒でぶん殴ったような音とともに、居候の悲鳴が聞こえた気がした。
だが、何事が起きたのか確かめる間もなく、いつも通りの黒衣を纏った魔王が入ってくる。
ネリィは軽く頭を下げて主君への礼を表した。
魔王はそのままするすると進み、用意された座へと腰を下ろす。
「雑事に追われ、顔を見にも来れなんだ。息災か? ネリィ」
隣に侍る寵姫に、魔王はそう声をかけた。
主君の声を聞いただけで、ネリィはティラナのことをすっかり忘れた。
ティラナは大切な友達であるが、魔王は彼女にとって全てに優先する存在であった。
「陛下の御陰をもちまして」
「それは何より」
それだけ言うと、用意された杯へと白い手が伸びる。
応じるように、ネリィは酒壷を取った。
寵姫の注いだ酒を、何も言わずに魔王が呷る。
魔王は常に言葉少ない。
しかし、ネリィにはそれで十分だった。
・・・・・・・・
「いててっ……」
「うーん、ちょっとコブになってますねぇ」
「ぐるるっ。あ奴め、淑女の頭を思い切り殴りおって……」
錫杖で殴られた頭を端女の少女に検めさせながら、ティラナは愚痴を溢した。
ネリィの元へと赴いている間は、魔王が湯屋に現れることは無い。
白い天幕で夜番をしているフィリオも、少しだけ力を抜けるというものだ。
ほうほうの態で湯屋にやってきたティラナの話し相手になるのは、
フィリオにとって丁度いい退屈しのぎであった。
「久しぶりに来ると思えばこそ、妾もめかし込んでおったのじゃぞっ。
それを無碍にするとは、なんと酷い奴じゃ」
「?、何かいつもと違う所があるんですか?」
「見て判らんのか! 髪も眉も、常とは違っておるじゃろうが!」
「……」
フィリオの目には、どこがどう変わったのか判別できなかった。
揺らめく炎の様に波打つ、跳ねの強い金色の髪は、どこからどう見てもいつも通りに見える。
魔王に殴られた際に髪形が戻ってしまったからなのか、
それとも自分の眼力が劣っているからなのか、
彼女にはどうにも判断が出来ない。
「まったく、ネリィばっかり贔屓しおって。妾に何が足りないというのじゃっ」
「そりゃあ…… やっぱり『気品』と『慎ましさ』と『おっぱい』じゃないですかね?」
「ぐ、ぐがるるるるっ、無礼者めがっ!」
眉を吊り上げて、ティラナは怒りを露にする。
端女如きに、そこまではっきりと言われる筋合いは無い。
「だいたい最後の一つは何じゃ!? おのれやあの忌々しい黒兎にも、王は手を付けておるんじゃろうが!」
「あっ、そういえばそうですよねー」
フィリオは小首を傾げた。
だが、主君の審美基準など、彼女の想像の埒外であった。
本国にある宮殿には、各勢力から貢がれた美女たちが群れをなしている。
そのなかには華奢な娘も居れば、豊満な肉体を持つ女も居る。
魔王ほどの権力者であれば、それだけ多くの妻妾を集めるのは当然である。
また、魔王の歓心を得ようと目論む者たちからすれば、
美女ぐらいしか魔王が喜ぶものを思いつけない所為でもあった。
食事にも無頓着に近く、軍旅の最中では冷めた麦粥でも平気で口にし、纏う装束は常に黒衣一着。
宝飾品にも特に関心が無く、目の前に掠奪された宝物が山と積まれても眉一つ動かさない。
道楽と言えるのは、遠征中でも毎日欠かさぬ入浴であるが、
まさか浴槽を幾つも献上する訳にもいかない。
珍奇な宝石を貢いで、見向きも去れぬまま宝物庫に仕舞い込まれるよりは、
美姫を送る方が無難な選択肢だ。
そのため魔王宮が女で溢れかえり、危機感を抱いた太監たちが
『手をお付けるまでも無い女子は、どうか国元へ送り返されますように』と懇願したほどだった。
彼らの懇願が容れられ、現在は後宮の宮女の数もかなり削ぎ落とされているが、
その分選りすぐられた美姫たちが集っている。
一応はフィリオも、それら魔王が手を付けた女たちの末端に引っ掛かるのだろうが、
他の妻妾たちと妍を競おうなどは考えたこともない。
魔王がその気になった時に、手近な女を抱いただけ。
彼女には、それ以上の理由は思いつかなかった。
む に、
考え込むフィリオの胸を、ティラナの掌が押した。
こそばゆさに、フィリオが声を上げる。
「ひゃん、何をなさるんですかっ」
「貴様…… 前より胸が膨らんできておらんか?」
むにむにと、遠慮もなくフィリオは端女の胸を触る。
「へ? そうですかね…… 気のせいじゃないでしょうか?」
「いーや、確かに大きくなっておるっ。
許せん! 妾に断りも無く胸を腫らしよって!」
「きゃんっ! そんな事言っても、勝手に大きくなっちゃったんですよぅ」
「ぐるる、貴様などには勿体無いっ! 寄越せっ!」
無茶な要求を咆えるティラナから、身を捩ってフィリオは逃れる。
だが、元はといえば、ティラナの所為なのである。
雌剣牙虎が本陣を闊歩するようになってから、
彼女が食い散らかした獲物の喰い残しは、抜け目無い端女たちが頂戴し始めた。
全員で分配するため、それほど多くはないにしろ、
麦粥に一切れふた切れの肉片が混じるようにはなった。
もともと成長期の彼女の事、食べるものさえ食べれば、膨らむべきところは膨らむのである。
そういう訳で、フィリオの成長の原因は栄養状態が向上した為であり、
原因はティラナ自信なのだが──
「いやぁん!」
「よーこーせー!」
その様な事情を、ティラナが理解するはずも無かった。
(終わり)