雪洞の奥に、二人の女が相対していた。
一人は白金の装身具で身を飾り、新雪の様な白いドレスを纏った女。
その前に跪くのは、赤い魔術師のローブを纏った若い女だった。

「偉大なる氷雪の女王よ。古き誓約に従いて、世界の調和のために目覚めたまわんことを」

赤いローブの女の言上を、白いドレスの女は物憂げな気配で聞いていた。
ここは、大陸有数の高山地帯の最奥地である。
周囲は雪狼を初めとした冬の獣たちに護られ、吹雪と氷によって隠されている。
常人が入ってくる場所でも、入ってこられる場所でもない。
そもそも、あえてここを見出そうとする者が、この大陸でどれほど残っているだろうか?
学府の導師たちでさえ、大半の者は彼女のことを忘れている。
既に、彼女は古文書の挿絵の中にしか残らない存在であるのだ。

「叔父が闇の力に加担しているというのならば、わたくしも目覚めねばなりますまい。
 同胞が世界の天秤を傾けんとするなら、もう片方の側に付いて均衡と成る――
 それが、わたくしの古代よりの誓いである以上」

高貴な声ではあった。
だが、威厳を含む声は、同時に冷たさも感じさせるものであった。
相手を見下すような尊大さを孕む、透き通るような声。
ただし、女王にはそんな話し方こそ相応しい――
そう思わせるだけの高貴さを、白いドレスの女は持っていた。

「しかし、誓いは同胞を封じる事だけ。それ以外のことは誓約の埒外です」
「十分でございます。女王よ」

赤いローブの女は、うやうやしく頭を垂れる。
その姿、言葉使いには相手に対する十二分の畏敬が込められている。
けれども女王の目には、自分を前にしてヒトが感じるはずの『恐れ』が見えなかった。

「人の分際ながら、わたくしを目覚めさせたのは、お前で二人目です。人の娘よ」

女王は、そう口を開いた。
赤いローブの女から感じる雰囲気が、女王にそれを口にさせる気になったのだ。
生涯の大半を、永き微睡みのうちに過ごしてきた女王の記憶は、凡そが曖昧で定かでない。
だが、それがどうしたというのだろう。
語り合う友も無く、伴侶も無い。
永く憶えておく価値のある事柄など、ほんの僅かしかない。
記憶するという事が愚かしくなるほどに永く、永く彼女は生きてきた。

「あれはニ千年も昔になるか、それともほんの十年前の事なのか―― それは思い出せませんが、
 お前と同じ人の身でありながら、ここを見つけ出し、たどり着いた者が居ました」

赤いローブの女はそっと頭をもたげ、女王を見上げた。
雪が反射する光の加減で、その身体自身が発光するかの如く見える。
むしろ煌々とした白光のせいで、女王の姿が霞んでさえいた。

「彼は、追われる者でした。
 己を追う者から身を隠すために、彼は己より大きな存在の陰に隠れる必要があったのです。
 私という存在が発する質量が、追者の眼から逃れさせてくれる―― それを期待しての事でした。
 彼のここに来た理由は、そんな程度のものでしたが」

女王の言葉に、赤いローブの女の目が輝いた。
古の先達が残した、失われし事跡。
それを聞くことが今回の目的ではない。
だが、女王という存在を知りつつなお、彼女を唯の隠れ蓑に使おうとした男。
さらに、その男を逃げ回らせ、女王の下へと奔らせた敵さえ居たのかと、
新鮮な衝撃に胸を撃たれた。

「その者は…… どうなりましたでしょう?」
「ここからも追われ、何処かへと逃れてゆきました。
 わたくしの眠りを妨げぬよう、どれほどの間ここに潜んでいたのかは知りませんが」

それ以上のことは、女王は語らない。
彼を追い出す前に起きた出来事は、誰に語るようなものでもない。
あれは幾星霜と続く生涯の中で、たった一度だけの邂逅であった。

思い出すのは、若さに似合わぬ冷さを秘めた、紅い瞳。
凍っていたはずの自分の心を、あの瞳が融かした。
その瞳を見るうちに、何故か自分でも知らぬまま、女王は指を彼の頬へと伸ばしていた。
純粋な闇の力を求める者に顕著な、紅い瞳と月の様に白い肌。
だが、瞳と同じ色をした唇はまだ柔らかく、かすかに少年と呼ばれる世代の徴を残している。
女王から見れば、彼はとても幼かった。
それは女王が老いているという訳ではなく、太古の昔に歳を取らぬ存在へと成長した故なのだが、
彼女の視点からは、ヒトという種族自体が幼く見えるのだ。
気が付いた時には、彼の頤に手を添えて唇を重ねていた。

彼もあえて拒みはしなかった。
そこから先のことは、まるで予めそうするのが決められていたかの如く、
自然に、流れのままに行われた。
女王にとって、この体で交わるのが初めてであったとしても、なんの支障もなかった。
彼は手馴れた仕草で女王の体をまさぐり、官能を揺り動かし、彼女を震わせた。
女王も本能の赴くままに、熱く相手を求めた。
冷たい雪洞の奥で、彼と女王は一晩限りの契りを交わした。
夜が明けきらぬ頃、交合の後の倦怠にまどろむ女王を置いて、彼は雪洞を去った。
契った女に何も残さず、ただ沈黙のままに姿を消した。
今思えば、それは正しかったのだろう。
事が済んでから、男女の契りを結んだという馴れ馴れしさを、ほんの少しでも見せようものなら、
おそらく自分は彼を許さなかっただろうから。

結局、知らぬ間に巣穴に忍び込んだ無礼者を、女王は生かして還した。
自分の寝所とも言えるこの場所に、無断で忍び入ってきた不埒者を、容易に殺すことは出来たのに。
そう、今目の前にいる人の娘を殺すのと同じくらいに容易く。

「光に生を受けたはずなのに、お前は光の匂いを感じさせない。そこも彼に似ていますね」

女王は、なぜ自分が問われもしないことを喋ったかに気が付いた。
そう、このヒトの娘は彼に似ているのだ。
己以上の力を持つものを前にして、微塵の怯えも見せぬ心胆といい――
属するはずの陣営の気配を感じさせない、不可思議な匂いといい――
これで性別さえ同じならば、ひょっとするとあの時と同じ気持ちになったのかもしれない。
そう思い至り、彼女の頬は自然に緩んだ。
赤いローブの女は、女王が微笑むのを見た始めての人間になった。

「 ――― 」

女王の体が、次第に透けてゆく。
霊力を失った幻体が、形を維持出来なくなったのだ。
氷河が割れ、砕ける音とともに雪洞全体が揺れた。
同時に、上からは槍の様な氷柱が降り注ぎ、壁や足元の氷に亀裂が走る。
危険を悟り、赤いローブの女は即座に魔力を集めた。
詠唱と共に呪印を完成させると、この場所からの転移を敢行する。
彼女の姿が消えた数秒後、氷柱どころか巨大な氷塊が落下し、雪洞は崩壊した。


 ド ド ド ド ド ド ド ド・・・


大音響を伴って氷河が崩落してゆくのを、赤いローブの女は空中に浮かびながら眺めていた。
魔力で作られた足場に立つ今、精神集中を乱せば数千尺下の地面へ墜落するとは知りつつも、
凄まじい破壊力を秘めた大自然の一絵巻に、彼女は見入っていた。

しだいに、氷と雪が砕ける音が鎮まる。
舞い上がった細氷が太陽の光を浴びて煌くなか、『彼女』を見つけようと目を凝らす。
すぐに、それは見つかった。
その全身を覆う、雪と同じ白銀の鱗が保護色になったとしても、
大きすぎる体躯は見逃しようが無い。


 グ オ オ ァ ア ア ア ウ ゥ ゥーーーーッ!!


咆哮と共に、それは長い首を擡げた。
再び雪崩を起こしそうな咆哮に、山脈が震える。
純白の飛翼を広げて風を孕むと、彼女は大空へと舞い上がる。
白い古代龍が南方目指して飛んで行くのを見て、女魔術師は笑みを浮かべる。

「さて、これで黒いドレイクを封じる手立ては付いたわ。
 伝承通りなら、世代こそ向こうが一代上でも、誕生したのはこちらの方が数世紀早いはず。
 魔王陛下、お怒りにならないで下さいましね。
 持ち駒に差がありすぎるのは、勝負の興を削ぎましょうから。ふふっ」

白龍の咆哮が呼んだ風雪に赤い髪をたなびかせながら、女魔術師はそう呟いたのであった。


(終わり)

 

 

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最終更新:2009年02月13日 07:10