怒号、怒号、怒号。
大気そのものが震えているような錯覚すら覚える戦場で、返り血で化粧をした天使が走
っていた。いや彼女は天使ではない。その証拠に彼女が発する音は、天使の羽根の羽ばた
きの音などではなく、武骨な槍で風を切り裂いている音なのだから。
なるほどあれがイエスド王国の自慢のお姫様か……。目の前にいる兵たちを軽く薙ぎ払
っているその姿を見るに、どうやら数々の噂は本当のことらしい。
俺が可憐な姫の槍さばきに見とれていると、豚のような顔の指揮官が大声で喚きだした。
どうやら俺たちに殿(しんがり)をさせて逃げる気らしい。最早大勢は決まった。あと十分
もせずにこの本陣へと敵が押し寄せてくるだろう。俺たちクルーの民を前線にでも置け
ば違っていただろうが、この無能な指揮官は俺たちを手元に置いておかなければ何をする
かわからないとでも思っているのだろう。
「若、お逃げください」
そっと耳元でそう囁いた女がいた。女はクエルと言う。かつてわが国では剣において無
双を誇った女傑である。
「いや、俺は兵三十を率いて殿を務める」
俺が言葉を発すると釣り目がちな彼女の目が一層釣り上がった気がした。
「若、あのような下種のために!」
「そしてクエル、お前は残ったわが民を率いて、どさくさに紛れてこの戦場を脱出しろ」
「いけません!その役目は私がいたします。ですから若は……」
「いや、俺が消えては後になってレーネン国は血眼になって捜すだろう」
「しかし……」
「クエル、これは命令だ」
俺がそう言うと彼女は顔を伏せ、押し殺すような声で一言呟くように言った。
「……ご武運を」
彼女が去っていく。黒い兜と鎧に包まれた後ろ姿は凛とした美しさを持っていた。幼少
のころからずっと一緒だった御転婆が、いつの間にかあんなに大きくなっていたのだなと、
ふと思わずにいられなかった。
「というわけだ、ヴォル。酔狂な連中を三十人ばかし集めてくれ」
「御意」
深々と頭を下げたのはクエルの父であるヴォルだった。髭の似合う眼帯の男だった。
かつてはもっと歳のわりに若い印象を受けたこの男も、ここ数年の出来事で髪も自慢の
髭も真っ白に染まっていた。
「最後まで世話をかける」
赤黒く染まる戦場を見据えて言った。
「地獄の底までもお供いたします」
ヴォルの低音の声が俺の耳を撫でる。ここはあまりにも血の臭いがきつすぎる。



 ***


弓が降り注ぎ、槍が迫りくる戦場の中、兵士が作る肉の壁を切り裂いて進む。
勇猛に戦う戦士たち。
しかし数というものは何物にも勝る力である。仲間が一人一人と殺され、ついにヴォル
までも俺の盾となって死んだ。
そこで出会ったのが例のお姫様だった。周りには360度敵だらけ、そして正面には俺
では到底敵いそうもない一人の騎士。こんな状況でなぜか無性にうれしくなったのを感
じた。多分俺はその時になって初めて自らの死を認めたのだろう。
俺は駆けた。
目標はただ一人、そうあのお姫様だ。
俺の動きに呼応するように横から矢が放たれる。
鎧の隙間から刺さる矢、そんなものを無視して足を動かす。
姫は馬上、普通にやったらただ殺されるだけ。
姫が槍を構える。
目が合った。
姫の瞳は夏の葉のように美しい緑色だった。
あと三歩、二歩、一歩!
姫の槍が迫る。
風すら悲鳴を上げているのだろう。
ヴォンという音とともに繰り出される姫の薙ぎ払い。
ここだ!
さきほどまで戦場を眺めていて気付いたこと。
それはこの姫は正面の敵に対して槍を突き刺すのではなく、薙ぎ払うのだ。
自ら先頭に立ち、一対多の戦闘に馴れたせいだろうか、それとも自らの槍を振るう速さ
によほど自信があるのか、いわんやその両方か。
しかし、それがこの瞬間、決定的な隙となった。
俺はその槍を左手に持った剣で受け止める。
いや胴体を輪切りにされないように剣を盾にすると言うのが正しい。
そもそもこの槍を左手一本で受け止めるというのが無理なのだ。
この手は十中八九死ぬ。
だが、それでいい。
俺が欲しかったのはこの距離で自由に動く右手。
通常戦闘において一番必要なものはリーチである。
元々俺の剣では馬上の姫の槍には絶対に届かない。
ではどうするか?
答えは簡単だ。
「……っ!」
俺は姫の槍に薙ぎ払われながら球状の物体を投げつけた。
槍よりもリーチの長い武器を使えばいいのだ。
その瞬間、不思議とまた姫と目が合った。
姫の目は戦場のそれとは似つかない、まるで知らない玩具を見る子どものような目をしていた。
「綺麗だな」
気付いたらそう呟いていた。
しかしその呟きは余韻を味わうことなく鼓膜を破らんとするがごとき轟音に掻き消された。
そう、俺が投げたのは火薬玉だった。
元々俺の国では戦場で狼煙を使い合図を送る。それを少し応用しただけのちんけなものだ。
多分これでは鎧を纏った彼女を殺せはしないだろう。それでよかったのかもしれない。
あんなにも美しい瞳を持つ女はそうはいない。
そんな相手と最期に死合うことができてよかった。
そんなことを考えながら俺は意識を手放した。


 ***



俺は生きていた。
気がつくと見たことのない場所で眠らされていた。
起きようとするとわき腹が尋常じゃないくらい痛かった。
それと左腕がなかった。
全身包帯まみれでアルコールの消毒液の臭いが堪らなく臭かった。
「起きましたね」
そして何故か金髪の美人さんがベットの横で林檎を剥いていた。
「ここはどこですか?」
笑顔を作り、なるべく紳士的に尋ねてみた。
「はい、ここはイエスド王国軍のテントの中ですよ」
にっこりと微笑んで答える美女。彼女は衛生兵かなにかだろうか?
「では、なんで俺は生きているんだ?」
俺は敵陣のど真ん中で倒れたはずだ。死ぬどころか、この手厚い処置はなんなのだろうか?
「はい、私が助けるように部下に言いました」
「はあ?」
彼女の言葉に思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
そして彼女は剥き終えた林檎を右手首ごと俺に渡してきた。
「おわ!」
びっくりした。いきなり手を渡されてビビらない人間はいないと思う。
「これは義手?」
「はい、あなたが奪った右手です」
そう言う彼女は右手は手首から先が無かった。
「初めまして、というのも変ですね。私はエリス、皆からは槍姫と呼ばれています。以後お見知りおきを」
目と目が合う。
緑色の瞳がキラキラと輝いている。
そのとき俺はすべてを理解した。
(これは死んだな)
身体中が傷んでもう溜息すら出なかった。


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最終更新:2010年04月24日 21:47