魔王城。その名の示す通り、そこは魔界の長たる魔王の居城。
それは魔界で最も高い山の頂にあり、幾重もの堀と城壁に土塁、無数の砦によって囲まれ、
周囲には百を超える支城。道路などというものは存在せず、荒れ果てた大地に異常な数の関所が設けられ、
相互に監視し、さらに数多の警戒竜と対空砲が空を、砲台塔が地面を見つめる。
そこは世界の最北端に存在し、四季にかかわりなく気温は零下40度を超えることはない極寒の地。
更にさらに防御は続き……
「って、立地条件も縄張りも明らかにおかしいですってばぁ!」
寒さに震えながらリュシルは叫ぶ。夜魔用の服は体に密着した薄手のもので、露出過剰である。
防寒の役には絶対に立たない。魔量で周囲の気温を上げるのをやめれば、直ちに凍死するだろう。
中位以下の魔族であれば一刻と持たず魔力を消費しきってしまう程の悪条件。上位の更に上位に位置する
リュシルとて、寒いものは寒いし、疲労も溜まる。
リュシルとて有力貴族の一角であれば、途中までは魔導馬車を使ってきたのだが、魔王城の周辺では如何なる
者も徒歩を義務付けられる。無論警戒竜の他は空を飛ぶことも禁じられているが、この寒空に羽ばたいて更なる
低温と突風に晒されれば、竜族ならぬリュシルに凍死しない自信はなかったため、言われなくても
飛ぶつもりはなかった。
「魔王様の実量は間違いなく魔界最強なのに、なぜこんなに警戒厳重なのでしょうか……」
本来、君主の住まう城は城と言いつつも純軍事的であることはない。
それは同時に『首都』でもあるからだ。無論のこと敵に直撃される可能性を考慮し、十分な防御を施す必要とてあろうが、
標高5000メートルの山の頂上に居城を築き、周囲に無数の城壁と堀をめぐらせ、道路すら設けず関所と監視所を
方々に設け、城下を迷路に仕立て上げるなど、正気ではない。首都機能など当然のごとく果たせず、魔王城とその周辺は
魔界にありながら、そして魔王の鎮座するところでありながら、完全に別世界のごとく魔界から切り離されていた。
更に言えばここは人間界から最も遠く、直撃される可能性は極めて低い。にも関わらず過剰に過剰を重ねた警戒が
ここには施されており、恐ろしいことに日々、防御は増強されている。
「そういえば魔王様は滅多に姿を現さないけれど……この警戒と何か関係が?」
リュシルだけではない。他の有力貴族ですら、魔王の姿を殆ど見ていない。
これまでは威厳のためだと思っていたが、正気とは思えない防御網を前にして、リュシルは別なことを考えていた。
「魔王様は、何かに恐怖している……?」
リュシルが魔王城の中に入るのは、更に三日後。
無数の手続きと検査を経てのことであった。
「初めて御衣を得ます、魔王陛下。夜魔族の当主に就任いたしました、リュシル・イェーガー。
これからも陛下に対し、変わらぬ忠誠を誓うことを一族を代表し、申し上げます」
玉座の間、平伏してリュシルは口上を述べる。左右には近衛の魔族達が立ち並び、じっとリュシルを見つめていた。
そして部屋の奥、薄布に隠れた玉座に鎮座する者こそが、魔族の長、一万年以上の生を生きる、魔王その人である。
その威圧感はすさまじく、玉座から20メートル以上離れたところにいるリュシルですら、恐怖を感じる程であった。
玉座の間にたどり着く前に、リュシルは迷宮そのものといった魔王城の中を散々歩き回り、妙に低い天井に幾度も
頭をぶつけ、数えきれないほど誰何を受け、心底精神を消耗し、怒りすら覚えていた。
いったい何故こんなつくりにしたのかと、問いただす位はしようかとも考えていたのだ。
しかし魔王を前にしてそんな気持ちは雲散霧消し、ただ、ここから一刻も早く去りたいという気持ちのみが彼女を支配していた。
「大儀である。これからも忠誠を尽くせ。卿の忠誠が変わらぬ限り、余もまた卿の一族を遇するところ、
これまで同様に厚いであろう」
(……これまで同様、ですか)
魔王からの言葉に、リュシルの表情がふと曇る。
リュシルは物心ついた頃から野心にあふれ、夜魔という直接戦闘向きでない一族にありながら上昇志向が強い。
それは現実を知った今でも変わることはない。従って、現状維持などは彼女の喜ぶところではないのだ。
「不満か」
一切の感情を感じさせない、それでいて底冷えのする声がリュシルを現実に引き戻す。
声には出さなかったものの、表情かあるいは魔力の揺らぎを読まれたとリュシルは悟った。
心が凍りつくような錯覚を覚えつつ、リュシルは弁明をしようとして、
(……いえ、ここで下手に言い訳をしても、心象を悪くするだけ、それなら)
その試みを諦め、顔を上げて魔王を確りと見つめた。
「恐れながら陛下。私は現状維持ではなく、勲功を上げることを願っています」
「……前線で武功を立てることだな」
それは正論だ。しかしそんな機会はどこにもない。戦争は事実上存在しないのと同じなのだ。
攻勢に出なければリュシルに活躍の機会などない。
「陛下! それならどうか出陣を命じてください。こうして互いに対陣を続けてもう千年以上になると聞きます。
今こそ攻勢に出るべ……」
リュシルは最後まで言えなかった。魔王の魔力が爆発的に拡大したと思った瞬間、心臓を鷲摑みにされたかのような恐怖を覚え、
「……っ!?」
城が、山が震えた。
頑健な作りの魔王城は持ちこたえたが、城壁の幾つかが倒壊したらしい音が響く。死者も相当に出たであろう。
リュシルは、初めてみる魔王の力に戦慄した。
「……貴様に、何がわかる」
殺される。小刻みに震え、美しくも妖艶な美貌を恐怖と絶望に歪め、リュシルはそう思った。
全身に力は入らず、顔を上げることもできない。股間からは湯気を立てながら熱いものが流れていた。
「貴様ごときに、あの恐怖が……っ!」
魔力が高まり、リュシルは死を覚悟した。その時。
「その辺りで勘弁してあげては如何です、陛下」
薄布向こうから淑やかな、それでいて艶やかな声が響いた。
「お、お母様」
「……貴様か」
「娘も、自分の立場を理解したでしょうし。何よりこういう者は最近滅多に見ませんわ。
きっと陛下のお役に立てると思いますもの」
アーテローゼ・イェーガー。リュシルの母である。月光を思わせる長い髪に、妖しさを秘めた紅い瞳。妖艶さと淑女らしさを兼ね備えた、
夜魔の先代当主。今はその美貌から魔王の愛妾として奥の院に控えているため、リュシルに会う事は滅多にないが、
直接戦闘能力にさして秀でない夜魔族の、それも幼いリュシルが魔界で一定の地位を得ているのも、全ては彼女のおかげである。
「……アーテローゼに免じて卿のところは許す。だが、分を弁えるのだな」
「は、はい。申し訳ありませんでした……以後、決して失礼を働くことはありません」
窮地から救われたリュシルは未だ四肢に力が入らなかったが、気が変わらない内にと、ふらつく体を必死に動かして
退出を急ぐ。だが、
「お待ちなさい」
その背中にアーテローゼが声をかけた。ぎこちなく振り返ったリュシルに向けられるその表情はアリを踏み潰して
悦に浸る子供のようで、無邪気さと残虐さに満ちた、いわゆる『夜魔の微笑み』そのものであった。
昔からこの笑みを見せた母はリュシルにとって恐怖の的である。リュシルは背中に氷を入れられたように震えた。
「な、なんでしょうか、お、お母様……」
「床に汚いものを撒き散らして、そのまま帰っちゃだめでしょう?」
くすくす、と品よく、しかし艶かしく微笑いながらアーテローゼは続ける。
「綺麗にしていきなさい?」
「あ……う、はい……」
その意味するところを、夜魔であるリュシルは間違うことはなかった。
玉座の間に、水音が響く。
外の猛吹雪も、中枢に位置するこの間にまでは音を届かせられない。そして、ここでみだりに口を開くものはいない。
百人以上が集いながらも静寂の支配するその空間では、小さな水音は際立った。
「ん……あ……」
悩ましげな声をあげながら、リュシルは床に漏らした自らの小水と汗を舐める。
魔王と母、文武の諸官諸将、近衛の魔族百人以上。魔界で最も高貴な者の集う場で、リュシルは
自らの汚物で汚された床を、自らの口と舌で清めているのだ。
「ひゃう……っ……」
「くすくす、いい声ですよ。リュシル」
アーテローゼは他の魔族同様、リュシルに手を出さない。ただ、声によってリュシルを嬲る。
珍しい上昇志向の持ち主とは言え、リュシルは夜魔である。その血が騒ぎ、言葉が掛けられる度に身体が熱くなるのに、
そう時間はかからなかった。
(酷い……こんな大勢の前で……)
矜持を引き裂かれる屈辱感にリュシルは怒りを覚えるべきだっただろう。
だが、それよりもリュシルの内側から来るのは、屈辱感ゆえの喜悦であり、高貴な自分が汚される事への高揚だった。
(っ……だめ、わたしはこんなのから決別しないと……いけないのに)
異常な状況下に置かれながら、リュシルの心を強く支配する夜魔の血。リュシルは自分の血と本能が嫌いだった。
淫乱で、月に何度か耐え難い欲求を覚える身体に幾度失望したかわからない。
心は気高い空を目指しながらも、身体は惨めな肉の欲望に満たされる。リュシルにとって自分の身体は、
魂を閉じ込める牢獄のようだった。
そして、身体は今日もリュシルを裏切る。
「ん……っ……ひ、ぁ……」
身体の奥が疼いた瞬間、無意識の内にリュシルは股間を床に擦り付ける。
その瞬間、粘ついた愛液が床を汚し、リュシルは達した。
「……っ!?」
左右に控える近衛の騎士達がふらつく。
これまでのリュシルの痴態にも眉ひとつ動かさなかった彼らだが、夜魔の淫気に密閉された部屋で
あてられれば、正気を保つのは困難である。ましてリュシルは並みの夜魔ではないのだ。
幾人かの騎士が熱にうかされたような目でリュシルを見つめ、足を動かしかけるが……
「あらあら、観客は踊り子に手を触れてはいけませんよ?」
アーテローゼの微笑み――その目は笑っていない――とともに掛けられた静止を振り切ることはできない。
魔王の前で不敬な態度を取ったものがどうなるか、正にそれを彼らは目の当たりにしているのだから。
結局、リュシルの『掃除』はその後一時間以上に及んだ。
舐めても舐めても愛液や汗が床に滴り落ち、その都度アーテローゼは清掃を命じたからである。
ようやく解放されたリュシルは心身共に疲労困憊して退室したが、
その間にアーテローゼと魔王を除く、全ての魔族たちは玉座の間に満たされた淫気の中、
ただ一人の例外もなく気絶していた。
最終更新:2011年11月19日 15:32