正気に戻ると、リュシルは魔王城に設けられた居室のベッドに身を投げ出し、枕に頭を埋めてのたうち回った。
「し、死にたい……」
リュシルは紛れもなく一級の夜魔の血を引いている。身体に刻まれた淫蕩さは事実である。
それは、上位魔族ばかりが集う玉座の間で殆ど全ての魔族がリュシルの淫気に当てられて失神し、
今も人事不省の状態が続いていることからも明らかである。
だが、それとは別にリュシルのパーソナリティは夜魔の流儀に慣れていない。
リュシルは夜魔なら当然あってしかるべき男性経験もなく、また気高くありたいと言う望みも持っている。
ゆえに、衆人環視の下で自分の体液を啜るという行為を思い出して、死にたくなったのも当然というものであった。
「どうせ立身出世もできないし……」
「いや、そう悲観したものでもないぞ」
その時、ノックもなしに扉が開かれ、美しいながらも凛とした声がリュシルの耳に届いた。
「ニーズホッグ卿!」
「久しいな、リュシル。今は二人だ、アーシィでいい」
すらりとした長身に、宝石のごとき瞳、腰まで届く長い髪に、白皙の美貌と女性として望みうる限りの美しさを持ちつつも、
竜族の象徴たる角、鍛え上げられた肉体、繊細さと凶暴さを併せ持つ軍装から、戦場の勇者たるを感じさせる。
竜族の当主にして、魔王の現后、アーシィ・ニーズホッグは魔王を除く魔族最強の存在であり、
魔族の典型にして理想像とまで言われる、リュシルにとっては何にも増して輝かしい存在であった。
「前線から帰られていたのですか? それと知っていれば挨拶に伺いましたのに」
「何、堅苦しいのは嫌いだ。お前とは友人だと思っているからこれで丁度よかろう。
帰って早々、よいものも見れたが」
瞬時にリュシルの顔面が沸騰する。憧れの竜姫に見られていたことを無造作に告げられた衝撃は
先ほどの比ではなく、真剣にリュシルは死ぬのを検討しはじめていた。
「そ、それは、その、あの、ええと……」
「冗句だ、恥じるな。それにわたしとてあの淫気に当てられて気絶した。今も身体が疼いて溜まらんのだ。
誇るべきだぞ。この竜姫をも倒したのだから。それは立派な技能だ」
哄笑と共に、全くの裏表を感じさせない口調でアーシィはリュシルを称えたが、リュシルとしては
素直に喜べない。第一、倒したといったところで、実戦ならアーシィがじっと1時間も突っ立っているわけもない。
淫気が高まる前にリュシルの首を刎ねてお仕舞いだろう。
「……さて、と。挨拶はここまでだ。リュシル、魔王城に来た感想はどうだ?」
居住まいを正し、真摯な目をしたアーシィに、リュシルもまた混乱を収める。
「警戒厳重に過ぎます。まるで、何かに恐怖しているような……でも、魔王様がいったい何を恐れる必要があるのでしょうか?」
魔王は最強の存在である。アーシィとて魔王の前では赤子同然だ。人間界最強の存在とて、同じだろう。
「それだ。わたしも同じ疑問は前々から感じていたからな。それに立場上過去の文献なども参照することも多い。
それで、気付いたのだよ。魔王様の恐怖の対象にな」
「恐怖の、対象?」
「勇者だ」
リュシルは依然として不思議そうにアーシィを見つめる。勇者、そのような言葉は聞いたことがなかった。
「知らないのも無理はないか。千年程前、魔王様と激戦を繰り広げた人間界の切り札だ」
「魔王様と、激戦……?」
にわかには信じがたい話だった。魔王の力は圧倒的だ。それとたったひとりの人間が互角に戦ったなど、
想像もつかない。
「最後の決戦は凄まじかったらしい。山は裂け、空間は捻じ曲がり、海は涸れた、とある。
結局勝敗はつかなかったそうだが、以後、魔王様は人間界への攻勢を止め、強固な防御網の構築にかかっている」
膠着状態が始まったのは千年前だ、確かに時期的には一致している。だが、だとしても、
「勇者が強力なのはわかりましたが……ですが人間である以上、寿命があるはずです。
私たち魔族でも千年を生きるのは稀。増してや人間なら。
仮に不死の存在だったとして、この千年間人間界にその姿が確認できない理由がわかりません」
リュシルの問いに、アーシィはよい質問だ、とばかりに片目を閉じて微笑む。
「その通り、件の勇者もとっくに死んでいる。だがな、勇者の能力は受け継がれるらしい。
そして、人類が危機に陥った時、その実力を発揮する。
つまりそこまで追い詰めなければ、概ね無害な範囲にとどまると言う事だ」
勇者は追い詰めなければ力を発揮できない。ゆえに魔族は攻勢を控える。
しかしそうなると人間側も切り札がないために、攻勢に出ることはできない。
従って手詰まりのまま、千年間対陣を続けてきたというのだ。
「……そんな存在が、人間界にもいたのですね」
「今では人間界でもこの事を知っているのはごく一部らしいがな。
千年前は地上の誰一人として知らなかった。ゆえに我々は大攻勢に出て……結果、勇者の誕生を促したというわけらしい。
……さて、リュシル、本題はここからだ」
「本題、ですか?」
リュシルは首を傾げた。条件付とはいえ、魔王と互角に戦える人間を相手に自分がどうこうできるとは思えない。
だが、アーシィは委細かまわず話を続けた。
「今代の勇者を篭絡して欲しい」
最終更新:2011年11月19日 15:36