ソロモン王の使う千里眼の魔法使いは二人と決められていて、国中から選抜されるのだった。
王は宮殿に居ながらにして、すべての事象を察知する。王の知るべき諸々のことを、
遠見の術の使い手たちは、地球の裏側から天上の世界まで、霊魂を飛ばして見に行くのだ。
王の使う千里眼の魔法使いは二人と決められている。しかしながら、
魂の旅に出るのは一度に一人。もう一人の術師はその場にあって他を補佐する。
超長距離を飛ぶ霊魂の旅には、常に失敗の危険が伴うという。
一時的に肉体を離れた魂は、いずれにしても帰るべき所に帰らねばならない。
しかし魔法の術によって遠く離れた魂は、帰るべき体を見失うことがあるといった。
そうなると、魂は帰ってこれなくなる。魂の行方は失われ、肉体は死ぬ。
そうならないために、二人。一人は儀式の場に残り、魂の帰路を守る必要があった。
王の千里眼の役には、もっとも有力な魔術師を二人、互いに対立する二人の遠見が招かれた。
預言者サラクヤルと昴の魔女。それぞれ本人は居場所を出でず、その弟子を送ってきた。
二つの流派の術師を置くのは、互いに優劣を競わせるためではない。
同じ術で同じ道をたどれば、同じエラーを起こすだろう。二流派、二人の術師を使うのは、
一方がミスを犯したとき、別の流派の技で補うという意味があった。
とはいえ、べつに術師どうしが仲良くする必要はなかった。
預言者サラクヤルの弟子はエカア。昴の魔女からは、その娘アシュナン。
かれらの師が互いにそうであるように、若いふたりの弟子も、互いに憎悪を隠さなかった。
数十年来、世に洪水も戦争もない。新しい季節の種まきをおえ、聖なる山に雲がかかった。
その日――天空に三つの新星が同時に現れ、激しく輝きを増していった。
と、いう夢を王は見た。夢の話をした。
「すみやかにその場に行き、見定めて、帰れ」
「はい」
召し出されたのは預言者エカアと、魔女アシュナン。ふしぎに美しい若者たちだった。
彼ら魔法使いに与えられた任務は、王の夢の内容を確かめて報告すること。魂の旅が始まる。
地球の周りを巡る宇宙は、王の見た架空の新星の位置まで、距離およそ20万キロメートル。
地上から霊魂を射出し、宇宙空間を探査して、スペースシャトルのように帰還する計画だ。
儀式の前に水で身を清め、エカアとアシュナンは薄い肌衣に着替えていた。
宇宙は魔法使いの晴れ舞台。儀式が始まり、これから一人の術者が魂を宇宙へ飛ばす。
もう一人は地上に残ってバックアップ、むなしく待機する。
他に立ち入るもののない儀式の間で、エカアとアシュナンは今日の役割を決めた。
拳を突き出し、指をいくつ出したかで勝敗を決める。じゃんけんに似ている。
少年は指を一本、少女は五本出して、この場合少年の勝ちとなった。
「北斗星への飛翔は夢だった。王の夢にみたという新星は、昨夜ならまだ燃えてるに違いない。
魂の続くかぎり飛んでくるよ。…見てきてほしいものはある?」
アシュナンは留守番だった。
「じゃんけんで勝っても嬉しいようね。浮かれた軽い魂は、飛び去って再び帰らない」
魔女は冷ややかに笑ってみせた。
「――鳥のように」
「わたしは落ち着いている。きみはただ座っていればいい。石のように」
むっとして、アシュナンは自分の座に尻をつけた。
「喋ってないで早く行くがいい。星々が気に入ったら、帰ってこなくてもいいわ」
「黙って。気が散る」
寝台のようなものはない。冷たい石の床に毛布を敷いて、その上にエカアは身を横たえた。
今から眠りにつく、という様子でしかないが、呼吸を調整している。
灯りを落とした室内は暗く、昼間でも外の光は入ってこない。
火の影は少年の顔に濃い陰影を描いた。
睫毛の下でときおり瞼が動くのは、飛翔へのイメージを描いているのかもしれない。
アシュナンは二メートルほど離れて座り、エカアの様子をじっと見ていた。
ここにいて彼の旅立ちを見守る。
やがて少年は眠りより深く、身体は仮死状態になる。
遠い間隔の呼吸のほかは、まったく動きのない。死体のようになった。
与えられた任務は、エカアを見守り、待つことだった。
座った場所からのそりと起きて、アシュナンはエカアに近く寄った。
膝で寄っていき、上から寝顔を覗き込む。頬をぴたぴた手で打って、呼びかける。
「エカア。……エカア?」
意識はない。少年の魂は、もうはるか遠くへ行ってしまったようだ。
確かめて、少女はひとつため息をついた。
ひとりになった。暗く寒い石の部屋は、まるで牢のように思える。
少年の頬に手をかけて、なめらかな肌を指でなぞる。
うつむいた顔の下で、うすく微笑し、やがてくすくすと笑い出した。
首をかかえるように抱き上げて、アシュナンは眠る少年に――唇を重ねた。
「ん…」
やわらかく重なった唇の間から漏れたのは、どちらの声とも分からない。
少年の寝言かもしれない。息に、すこし笑う息が混じった。
眠っているエカアにキスをする。
アシュナンは、眠っているエカアにいたずらする。
眠っているあいだ、魂のない少年のからだは、アシュナンのものになる。
エカアは知らない。いまが初めてのことではなかった。
はじめはもう半年も前のこと。最初はほんの悪戯のつもりだった。
霊魂が遠い旅に出ているあいだ、魔術師の肉体はその場に残って、何もせず寝ている。
万一魂が迷子になって戻れなくなった場合、それを捜しに行くのが留守番の役目だが、
エカアは若くして腕利きで、一度もそんな失敗はしたことがなかった。
天上まで往復してもおよそ二時間。座っているだけのアシュナンは退屈で、ひまなのだ。
半年まえ。初めてのそのとき――そのときも、
アシュナンは部屋で座って待っていた。エカアの魂はコーカサス山地の辺りを飛んでいた。
待機中の退屈な時間、少年の寝顔を眺めているうちに、思いついたことだ。
エカアが無防備な姿をさらすこのときに、残った肉体に何か悪さしてやろう。
そもそも魔女アシュナンは、このいけ好かない少年預言者に意趣を持っていた。
炭で顔に落書きしてやろうか? いや、証拠を残したり、後で気づかれては面倒だ。
アシュナンはエカアの無防備な寝顔を覗いて、とりあえず、頬に指をつけた。
ただ触れただけでどきどきした…。
初めてエカアに触れて、アシュナンの胸は鳴った。
覚めているときは見えない壁のように、互いに敵意を含んで距離を保っている。
日頃の悪意をたっぷり込めて、頬を思い切りつねってみる。
額にしわが寄って、少年はかすかに呻いた。
アシュナンは驚いて手を引いた。少年は、目覚めたわけではない。
アシュナンは気づいた。いまエカアのからだは自分に預けられ、彼は無力なのだ。
赤くなるまでつねってしまった。自分のしわざに狼狽した。
「ごめん…」
覚めているとき、彼に謝ったことなどない。謝っても、少年は気づかない。
やさしく指で撫でてみる。そこを撫でているうちに、ふと思いついた。
預言者というのが純潔を保つものだということは知っている。
この美少年も、師について、きわめて純粋に育てられてきたはずだ。
美しい顔に顔を近づけてみると、かすかな息づかいが分かった。
自分も目を閉じて、アシュナンはちょんと唇をつけた。
やった…。
エカアは気づかない。体の内から喜びが込み上げてきて、アシュナンはくすくす笑い出した。
やがてエカアが目覚めた後も、預言者の気取ったふうが、今はおかしくてたまらなかった。
アシュナンはすまし顔の下で笑いをこらえた。
宮殿を抜けて、王の庭園まで逃れていく。アシュナンはそこで、ひとりで死ぬほど笑った。
笑い続ける少女の傍らに、空から一羽のカラスが舞い降りた。
「お母さまに伝えて。サラクヤルの弟子を辱めてやったわ!」
カラスはひと声鳴いて翼を広げた。
「待って」
アシュナンは飛び立とうとするカラスを留めた。
「いい。何も伝えないで」
笑いの衝動は引いていった。失望に似て、胸に空虚なものが残った。
今。エカアが魂を飛ばしている間、アシュナンは彼の体を胸に抱いている。
あのときは悪戯のつもりだったが、いまはすこし違う。
最初のはしゃいだ気分はなく、重くしずんでいく心は、これも儀式の一部のようになった。
霊魂が離脱している間、エカアが容易に目覚めないことは分かっていた。
アシュナンは、いまはもっと大胆になった。唇を合わせたままで、体を重ねていく。
彼の霊魂はたぶん今、宇宙にいる。宇宙を飛行する夢を見ている。
エカア――彼はいま水星と金星の軌道の間、星々の世界に至って、
王の夢に出現した新星爆発の痕跡を求め、さまよっているだろう。
そんな遠くから、魂は帰ってこれるのだろうか?
唇を離して寝顔をみる。眠っているエカアは美しい。
魔女アシュナンはおよそ恋というものは知らなかったが、
敵である預言者の弟子でなければ、この少年に恋したかもしれない。
頬を寄せると溶けそうな気持ちになる。帰ってきて。でも、まだ帰ってこないで。
胸を合わせていると相手の鼓動が分かる。パートナーの体を、触れて知ることは必要だ…。
眠る少年に身を重ねて、アシュナンはただ彼の帰りを待った。
じりじりと灯火の音だけが聞こえる。
ここには誰も入ってこないし、誰も知らない。
とつぜん、エカアの体が小刻みに震えはじめた。
アシュナンは顔を上げた。魂の帰還の前触れ。
アシュナンは飛んで離れ、じぶんの座に飛んで戻って口を拭った。
前兆から正確に一分後、霊魂は旅より帰還した。エカアは目を開けた。
「お帰りなさいませ。なにか分かりましたか」
「ああ…」
少年は額を押えて、頭がくらくらすると言った。
帰ってきたエカアは疲労してぐったりしていたが、やはり王のもとに報告に行った。
星々の彼方は想像を絶する世界だ。エカアは見てきた事実を語り、英知の王は深くうなずいた。
王はエカアとアシュナンを平等にねぎらい、二人は礼して退出した。
二人は黙って、大理石の通廊を歩いた。
夕日が差して、少年のくたびれ切って歩くようすに、アシュナンは黙っていなかった。
「お疲れのようね?」
エカアは立ち止まり、振り向いてアシュナンの目を見た。
「なに」
「アシュナン。もしかして、わたしが旅に出ている間に…」
ぎくりと少女は身を堅くした。
「いや。…何でもない」
魔法使いたちに新たな任務は下り、次の魂の旅先は決まった。
「なぜ王は、天上や地下の事象を夢にみるのだろう。夢は地上のできごとの象徴だという。
我々は魂を飛ばしてそれを確認に行くけど、魂の見るその場所は、果たして現実なのか?」
「どうでもいい」
少女は苛ついて遮った。エカアは雄弁になっていたが、アシュナンは混乱し苛立っていた。
水で身を清めた後、エカアとアシュナンは儀式の間で会い、遠見の役を決めていた。
「夢でも現実でも目に見えることは同じよ。
いくら王でも、『地獄を見て来い』なんてひどい。ひどすぎる…」
「ただの永遠の夜の土地だろう? 魔女が地獄を怖がるなんてどうかしている。
じっさい地下の世界はきみに相応しいと思うな。これは運命というか」
「じゃんけんに負けただけよ!」
暗い地の底へ降りていく夢を、王は見た。灰と火の谷間へ。
「いやだ。死ぬ前に地面にもぐるなんていや。きっと暗くて臭い」
「アシュナン。代わろうか…?」
ぱっと目を輝かせて見上げる。エカアは、からかってはいなかった。
「…いい。行くわ」
アシュナンは、死人のように顔に布をかぶって旅立った。
アシュナンが仮死状態になったあと、エカアは彼女のそばに寄って顔の布を取った。
あれほど死を怖がったのに、今は安らかに眠っていた。
前髪をよけて、額に、閉じた瞼に触れる。いちど離れて、少女の寝顔をみた。
美しいと思う。眠っていると可愛い。
いきなり唇を合わせるほど、エカアは大胆にはなれなかった。
幾度かためらって、やはりやめた。
ただ――もう少し近くで見たくて、顔を寄せていった。
薄い衣を通して、腕に少女の乳房のさきが触れた。
エカアは慌てて飛びのいた。飛びのいて、そこにうずくまった。
薄暗い儀式の間で、何事もなく時が過ぎた。
「あ……うう、ああ……あ!」
いつも苦しげな、途切れがちの悲鳴は、アシュナンの帰還の前兆だった。
「うああ!」
がばっと身を起こして少女は目覚めた。
エカアは自分の座についていた。
「遅かったな」
何もいわず、少女は息を荒くしていた。エカアを見て、泣くように顔をゆがめた。
何を見てきたのか、いつになく脆く、はかなげに見える。
彼女が眠っている間、エカアは何もしなかったが、すこしの罪悪感をおぼえ、すこし後悔した。